国民国家において、国家理念の実現に役立ってこそ、会計制度本来の目的・機能を達成することができる。

 競争、競争、あるいは、市場原理と言うが、市場の目的は、経営主体を潰したり、淘汰することにあるわけではない。市場は、あくまでも需給を調整し、経済の効率化を計り、交換価値を成立することに目的がある。それが悪しき進化論によってあたかも淘汰を目的としているかのように錯覚してされている。何でもかんでも、競争の原理を働かせて淘汰してしまえと言うのでは、結局、寡占、独占状態を招くだけである。何を市場の期待するのかによって本来、市場に対する政策は違ってくるはずである。市場の状況や経済環境に適合した政策を実行するのに必要な情報を提供するのが会計制度の重要な使命の一つである。ところが、現行の会計制度には、その様な監視的機能、モニタリング機能が欠落している。
 現行の会計制度にあるのは、投資家と徴税者のために必要な情報だけである。それが、会計制度を歪め、公正さを失わせる原因となっている。つまり、公の機能が会計制度には、働いていない。ただ、投資家と徴税者に対する説明的機能しか付加されていないのである。
 しかし、それでありながら、会計基準は、経営者の行動を規制している。

 会計の働きは、経済や市場の隅々にまで影響している。それでありながら、会計の考え方を経済に取り込もうという考え方は弱い。また、会計は、現実ではない。その為に、現実の経済や市場が歪められることがある。その様な現象に対しても疎い。その為に、安易な会計制度の変更や経済全体への配慮を欠いた改革が行われたりもしている。実際、資本金の問題は典型である。一千万円以下の資本金がなければ株式会社の設立が認められなくなったったかとおもえば、すぐに、今度は、資本金がゼロでも株式会社の設立が認められるようになった。資本金と言えば株式制度の根幹に関わる問題であるのにである。

 また、税制、商法、会計の整合性もとられていない。その為に、財務諸表が不自然に歪められる例まである。また、融資、投資の基準が猫の目のように変わる。そして、それが明らかに経済現象に影響を及ぼしている。それを金融政策や財政だけで対処しても限界があるのは自明である。

 会計制度は、合目的的な制度である。財務会計制度は、外部にたいする情報の開示を目的としている。その為に、必ずしも経営の実体を反映しているとは限らない。その時々の経済情勢や政策に左右されるのである。現実に、帳簿で経営に役立つのは、仕訳帳や総勘定元帳ではなく。現金出納帳や売掛金台帳のような補助簿である。つまり、会計制度は、経済に対して重大な影響を及ぼす情報であるが、必ずしも、経営の実体を反映したものではないと言うことである。この様な会計情報を正しく活用するためには、会計以前の事業の目的やその背景を正しく認識する必要がある。つまり、定性的な情報である。その事業が社会に対してどの様な働きと機能を持っているかである。それを適正に判断することが重要なのである。
 そして、それが本来の投資目的であり、融資目的なのである。利益は、事業の妥当性を判断するための目安である。

 利益自体を悪、必要悪のように捉える思想がある。その思想は、世の中に結構蔓延している。確かに、不当に利益を上げることは悪である。しかし、正当な行為によって上げられた利益を悪と決め付けるのは間違いである。

 利益は、創られた概念である。企業経営を継続していく上で必要なのは、利益ではなく、資金である。例え、赤字であったとしても資金さえあれば、企業経営を継続していくことはできる。極端な話、資本金を詐欺まがいの手段で調達していたとしても資金が続く限り、企業は存続できる。ただ、資金の収支だけでは、一次的に資金の不足が生じる場合がある。その場合、外部から資金を調達してくる必要がある。資金を調達するためには、合理的な説明が必要になる。その為に、利益という概念が考案されたのである。その利益という概念を導き出すための公式の手段、論理が会計である。言い換えると資金を調達するために、利益を出す。ちなみに、会計と言う言葉の意味は、アカウンティング、説明という意味である。つまり、利益や資本には、資本的な実体はない。つまり、利益というのは、資金を調達する上で便宜的に創作された便法(べんぽう)なのである。
 
 この様な利益は、合法的に操作ができる。操作できるからこそ意味があるのである。この事を前提として今日の市場経済は考えられなければならない。利益は、つまり、天然自然に沸いて出た代物ではない。明確な意図を持って考えられた意見なのである。ここに現金は事実、利益は意見という考えの根拠がある。

 ならば、利益には、どの様な働きがあるか、と言うよりもどの様な働きを求められたのかが重要な課題となる。
 その働きに応じて、どの様なところに利益を設定するか、それによって、産業体制の基盤が固まる。単純に利益は、不当な収奪だと決め付け、悪だとして利益が出せない、利益が出てもそれを税として徴収したら、産業の基盤は成り立たない。その好例が公共事業である。

 市場経済、資本主義経済下では、産業は、利益を作り出す、生み出すために、経済活動をする。それ故に、資本主義経済現象を理解するためには、利益のありどころを解析する必要がある。

 利益は、その経済主体の存在意義であり、必要性を意味する。逆に言えば、資本主義経済、市場経済下において利益を上げられないのは、その経済主体の存在意義、必要性がないと言われているのに相当する。

 利益を出す目的は、分配上の問題に還元される。利益を単純に儲けだとしたら、利益の真の目的は、理解できなくなる。利益は、分配されるのである。故に、その分配する目的こそが利益の目的の要素である。
 利益を私的所有権に結びつけて考えるから利益の効用が理解できなくなるのである。利益は、分配上の問題である。

 利益は、分配の基準である。投資家、債権者、国家・社会、経営者に対する分配である。我々は、利益を儲けだと考えるが、利益も最後には、最終的受け手に配分されるのである。
 中でも、税は、利益の再分配であり、社会への還元である。ただ、重要なのは、配分経路である。配分の過程である。税は、直接的に国家に配分される。金は天下の廻り物というように、貨幣は、所有するだけでは効力を発揮しない。所有するにしてもそれを担保にしたり、また、人に預けて運用しなければ価値をもたないのである。
 貨幣は、市場で、表示された価値と同量の物と交換する権利を表象した物にすぎないのである。また交換価値は、相手が交換する事に同意しない限り、発効しない性格を有する。即ち、金さえあれば何でも手にはいるというのは、錯覚なのである。
 いずれにせよ、利益は、経済主体の外に還元されない限り、価値を発揮することができない。つまり、分配の原資、基準に過ぎないのである。重要なのは、儲けることよりもどの様に分配するかなのである。その視点が欠けているから、経済が上手く機能しないのである。

 それならば、利益は、誰に。何に分配されるのかを見れば利益の目的は推測できる。利益は、経営者に対する賞与金、内部留保金、配当金、積立金、税金に分配される。これらから鑑(かんが)みると、利益を出す目的には、経営者に対する報酬、再投資の原資、景気変動に対する予備金(バンパー、サスペンション)、債権者への保証金、従業員の積立金、投資家の持ち分、国家・公共への還元などがあげられる。

 所得とは、財の分配を受け取る権利なのである。財の総量は決まっているのである。所得というのは、限られたパイの配分の問題である。

 市場経済を需要と供給だけで説明しようとすれば、利益の問題を避けて通ることはできない。単純に価格の決定は、需要と供給だけで決められているのではなく。収益と費用の問題の要素も忘れてはならないのである。重要なのは、利益を出す目的である。その目的を収奪と片付けてしまうから経済現象が皮相なものになってしまうのである。

 全体が1000あるとして、そのうちの100を石油が占めていたとする。その場合は、石油が10%の価値を占めていることになる。その100が二倍の200になったとした場合、総量は、1100になり、石油が占める割合は、18%になり、8%の所得が産油国に転移したことになる。しかし、それだけでなく、物価全体も上昇するために、単純に絶対額だけでは、どのくらいの価値の転移が起こるかは、計算できない。また、その原油の上昇分は、市場全体で吸収するために、利益は、長期的に均衡する事になる。つまり、市場価値の上昇を単に絶対額だけで捉えることはできないのである。利益は、長期的に見れば均衡する。

 角を撓めて牛を殺すと言う諺がある。利益というのは、元来が、目的を持って創造された概念である。つまり、合目的的な概念である。学校の教科書に書かれているような教条的な概念ではない。利益が必要ならば、利益を出せばいいのである。教条主義的に捉えて、企業経営が成り立たなくしてしまったら、本末の転倒である。決められたルールに従わずに、利益を粉飾した場合は別であるが、過当競争によって全ての企業が赤字を強いられるようならば、それなりの策を講じる必要がある。ただ、無原則に競争を強いるのは、競争ではなく、争い、喧嘩である。スポーツは、ルールがあって成り立つのであり、ルールの是非を論じるのはいいが、ルールそのものをなくせと言うのは暴論である。

 会計学的経済世界は、勘定科目の体系が、骨格となる。故に、会計の働きを明らかにするためには、勘定科目を分析する必要がある。勘定科目は、資産、負債、資本、収益、費用の五つに分類される。また、非決算整理科目と決算整理科目とに分類される。問題は、この決算整理科目に隠されている。

 勘定科目のなかでも、利益と資本は、中核となる概念である。

 会計の世界には、帳尻をあわせろと言う言葉があるが、これは、会計の性格をよく表している。とりあえず、帳尻が合えば成立するし、帳尻を合わせようと思えば何等かの手段があるという事である。それが、合法的なものならば問題にならない。その為に、会計上の約束事があるのである。

 会計は、資金を調達する、つまり、投資を引き出すための方便であるから、いろいろな約束事が、利益以外にもある。実現主義や発生主義、取得原価主義、減価償却、在庫の評価などがその典型である。

 会計方針の変更だけでも、企業収益に重大な影響を与える。ひいては、それが経済全体にも重大な影響をもたらすのである。塵も積もれば山となる。会計規則の変更は、その典型であり、一つ一つの経済主体に与える影響は小さくてもそれが積もれば重大な影響を経済全体に与えることにもなるのである。

 原油価格が上昇すると石油企業が儲かるというと、何か、石油会社が原油価格の高騰に便乗しているかのごとく思われる。しかし、実際は、棚卸評価の問題が大きいのである。石油会社が在庫評価の会計方針の変更をした事に起因する。なにせ、ロイヤル・ダッチ・シェルの売上が、44兆5千億円、純利益が3兆8千億円、エッソが、43兆5千億円、純利益が4兆2千億円と桁外れなのであるから、たかが、在庫評価とばかり言っておられない。
 
 バブルが弾けてからの十年間を失われた十年と言われている。また、この十年間に起こった不況は、BS不況とも言われている。それは、不動産や有価証券を中心に不良債権が発生し、それが企業経営の足を引っ張ったからである。それまで、日本は、含み資産によって資金調達を行ってきた。それが裏目に出て、景気を減速させたために、BS不況と言われているのである。

 なぜ、日本の経済が発展してきたのかを考えてみると明らかである。戦後、繊維業界がなぜ発展し、また、衰退したのか。それは、需給の問題だけで解明できるものではない。経済学的な世界でもない。それは、人件費の問題である。また、為替の問題である。特定の企業や国家を名指しできないから、曖昧にならざるをえないのであり、実体は、経済戦争なのである。
 ライブドアやエンロンのように会計制度の抜け道を巧妙に繰り返して莫大な利益を創作する会社も出てくる。近年のヘッジファンドの中には、一国の通貨政策に重大な影響を与えるケースさえ出ている。

 需要と供給は価格だけで決まるわけではない。製造形態、製造工程にも多くの影響を受ける。 大量生産や流れ作業が確立された後と前とでは全然違う。生活様式にまで影響を与える。

 会計が企業の行動規範に与える影響の好例は、上場会社と未上場、オーナー会社の行動である。上場会社と未上場、オーナー会社とでは、決算書を作成する意図、目的が違う。上場会社は、投資家から投資を引き出すことを目的とし、未上場、オーナー企業は、資金の社外流失を防ぐことを目的とする。その為に、上場企業は、利益を重視し、未上場、オーナー企業は、節税を重視する。

 フローとストックがある。このフローとストックは、連動しながら、尚かつ独自の価値を形成する。しかも、勘定科目毎にその性格を異にする。フローを基礎にして企業の利益や動き、純資産を導き出すのか、ストックを基礎にして利益や純資産を試算するのかによって会計制度そのものの有り様も違ってくるのである。

 資本主義経済にせよ、貨幣経済にせよ、観念的な体制である。だいたい、貨幣は、実体を反映した影に過ぎない。いわば経済の影である。貨幣という座標に経済を写像した物にすぎない。更に言えば、表面に現れた現金の授受、現金の動きだけでは捕捉し得ない部分がかなりあるのである。それを捕捉するために会計制度はある。しかし、その会計制度にも自ずと限りがある。特に、市場に現れてこない取引は捕捉することができないのである。

 近代会計制度は、近代市場経済の基礎である。会計制度が近代市場経済の基礎でありながら、経済学や、経済政策に反映されていない。それが重大な支障を経済に与えているのである。往々に、会計制度の変更が、恣意的、政治的になされそれが経済に悪影響を与えている。自己資本率の規制や税効果会計の扱いによって金融再編の引き金を切られたのは、好例である。また、デフレ期における時価会計の導入が、是か非か。どの様な影響を経済に与えるかを為政者は理解しているのであろうか。為政者がどの様な意図に基づいてなされたかが重要なのであるが、ただ、観念的なべき論でなされたとしたら、それこそが、重大な問題である。

 経済政策を考案する際は、会計政策も併せて検討されなければならない。そうしないと、経済政策は、実行力を発揮することができない。

 経済は、現実である。だから、希望的観測や観念的な理想論ではなく、現実の話をすべきなのである。


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