市場の失敗とよく言われるが、原則的に、市場は失敗しない。自動車事故が起こった際に、自動車の失敗と言わずに、運転手の過失というようにである。なぜならば、市場は仕組みであって、それを運用するのは人間だからである。あるとしたら、市場の欠陥である。

  対立、抗争、競争、闘争。それが現代の前提である。一体、協調、共鳴、共感は、あり得ないと言う前提に立っている。それが、近代以前との違いである。市場や経済に対する認識も然りである。市場における一体、協調、共感、共鳴は悪い事と決め付けている。しかし、これは思想である。その根拠に乏しい。
 市場の働きを絶対視するのは、危険なことである。市場の働きは、あくまでも相対的なものにすぎない。それを忘れてはならない。状況によって競争の原理を働かせたり、協調の原理を働かせるべきなのである。ただ、それが、特定の勢力にのみ有利に働くことがないように、配慮するべきなのである。故に、最後には、国家観に至る。それは、思想なのである。神の摂理ではない。

 また、進化を絶対視し、市場を進化論的に捉えるのも間違いである。市場は、常に、進化発展し続けるとはかぎらない。市場は、無限に成長し続けるわけではない。市場も成熟し、飽和点に達する時がある。重要なのは、市場の環境や状況を適切につかみ、的確な政策を実行することである。
 現代は、時間の経過を直線的に捉える思想が強い。時間の経緯に対する考え方には、輪廻転生、陰陽のように、時間を循環的に捉える考え方と時間を直線的に考える考え方がある。時間の経過を直線的に捉えるというのは、一神教的な考え方で、進化論も時間を直線的に捉える考え方である。この進化論的な考え方が、現代社会では支配的である。つまり、新しいものは、必ず進化するという考え方で、過去に対して否定的な考え方である。この対極にあるのが儒教であり、復古主義的な考え方である。しかし、今が良くて、昔は悪い。また、今は悪くて、昔が良いと決め付けるのはいかがなものか。事の正否善悪の判断に新旧老若は無縁である。

 古来、中国には、陰陽五行に基づき、常にバランスを保つ事を良しとした。中国にも長大な歴史があり、それを頭から否定するのは、野蛮、極まりない。一概に、欧米思想だけを絶対視することは、均衡を欠く。経済には、調和が大切なのである。

 時間を直線的に捉える考え方は、歴史主義に陥りやすい。逆に、時間を循環的に捉える見方は、歴史に疎(うと)くなる。いずれ思想にも一長一短がある。ただ、対立、抗争、競争、闘争を社会の基盤と考えれば、社会は、分裂的になり、秩序は保てなくなる。その弊害が、今日に露(あら)わになってきた。逆に、一体、協調、共鳴、共感ばかりを重視すれば、社会は統制的で柔軟性や活力を失っていく。重要なのバランスである。経済の本質は均衡にある。

 以上の考え方は、いずれも思想である。問題は、思想だと自覚せずに、絶対的な真理だと言い張ることなのである。適者生存、自然淘汰もまた思想である。神の見えざる手に市場を委ね、自由放任すればいいと言うのも思想なのである。神の摂理ではない。

 市場というと一つ岩盤の様な空間を想定しがちだが、実際は、無数の細かい空間が結びつき合い、また重なり合って全体が形成されている空間を想像した方が妥当である。その繋ぎ目や重複している部分、また、空白な部分に重要な働きが隠されている。市場を繋ぎ目のない一つの空間だと錯覚すると重大な過失を犯すことになる。少なく見積もっても市場は、国の数だけ在る。

 初期投資に莫大な資金を必要とする産業もある。研究、開発に時間と資金と労力を必要とする産業もある。なぜ、企業が共同で研究開発をしてはならないのか。学校や研究所と企業はなぜ、共同開発をしてはならないのか。
 かつて、技術革新や産業の発展の陰には軍の存在があったのは、衆知の事実である。軍が技術革新や経済に果たした機能は無視できるものではない。軍のような公共投資が産業の発展裏支えしているという事は動かしがたい事実である。
 ただし、軍に、過度に、依存した経済は、健全な発展を期待できないのも、また、事実である。その証拠が戦前の日本である。軍事費は、民生に結びつかないからである。更に、軍事が行き着く先は、戦争という暴力である。徹底的な破壊である。それを忘れてはならない。そして、自重しなければならない。
 軍事というのは、確かに、産業や技術の発展の契機にはなった。しかし、同時に、産業や経済を壊滅的に破壊してしまう事もあるのである。しかし、だからといって、市場経済と公共事業を結び付けてはならないと結論付けるのは、短絡的である。軍という非生産的な組織ではなく。なぜ、消防や防災と言った公益を産業の発展に結び付けて考えてはいけないのであろうか。そしてなぜ、公益を利用して儲けてはならないと決め付けるのであろうか。
 収益を度外視したら、市場は成り立たない。収益に責任を負うからこそ経営は成り立つのである。公共事業だからと言って収益性を真っ向から否定してしまうのはおかしい。しかし、近視眼的な見方では、市場の動きを理解することはできない。重要なのは、我々は、市場に何を期待しているのかである。

 確かに、協調は、なれ合いや日和見的な体制を生み出す。なるほど、進歩も停滞し、抑圧的な状況を生みやすい。しかし、だからといって競争だけしていればいいと言うのも行きすぎである。創業と守成と言うが状況に合わせることが重要なのである。

 拡大均衡的な市場は、インフレーションが基調となり、縮小均衡型の市場は、デフレーションが基調となる。インフレーションの時は伸ばせばいい。しかし、デフレーションの時は抑制が要求される。

 拡大均衡期にある市場は、競争をさせればいい。しかし、縮小均衡期にある市場は、協調が大切である。拡大均衡的な市場は、競争を促していればいい。市場の拡大や成長が物価や所得の上昇を吸収してくれる。難しいのは、市場が収縮している縮小均衡的な市場である。いくら頑張っても、所得は伸び悩み、意欲の向上が期待できなくなるからである。だからこそ、モラルの維持が難しくなる。

 よく競争をなくせばモラルハザードが起こると言うが、対立的な社会にも調和的な社会にもモラルハザードは起こる。しかし、モラルハザードの質が違う。競争が激しければ、競争に勝つためのモラルハザードが発生し、協調を保とうとすれば、協調を保つためのモラルハザードが発生する。だから、一概に、協調的市場では、モラルハザードが発生するとは言えない。それぞれの状況に合わせて、規律を保つようにする必要があるのである。

 競争は、変革や効率化を促すが、財務内容は悪化させる。協調は、財務内容を改善し、経営の安定性を高めるが、成長は停滞する。

 市場の状況には、第一に、閉鎖的な市場と、開放的な市場がある。第二に、内向的な市場と外向的な市場がある。第三に、何らかの制約がある市場と制約のない市場がある。第四に拡大均衡型の市場と縮小均衡型の市場がある。第五に飽和状態に達している市場と飽和状態に達していない市場がある。また、第六に、過当競争の状態にある市場。寡占状態にある市場。独占的市場などがある。

 更に、市場には、草創期、成長期、成熟期、衰退期などの発展段階があり、それが市場の環境、状況を決定する。創業と守成いずれが難いかである。

 閉ざされた市場には、人為的に閉ざされた市場と物理的に閉ざされた市場がある。
 人為的に閉ざされている市場とは、極端な例が鎖国や経済封鎖である。鎖国は、自発的な市場を閉ざすことであり、経済封鎖は、外部の力によって市場が閉ざされることである。また、かつてのブロック経済のように、政治体制の違いも、閉ざされた市場を形成することがある。
 物理的に閉ざされた市場というのは、交通機関や地理的条件などで孤立した市場を指す。今日では少なくなったが、以前は、地方の市場は、空間的な閉ざされた市場が多かったのである。

 内向きな需要が内需であり、外向きの需要が外需である。日本の市場は、この内需と外需の調和が悪い。それが貿易摩擦の原因となっている。

 制約があるというのは、何等かの範囲に制約があり、範囲が限定されている市場と範囲に限定がない市場がある。範囲というのは、物理的な範囲と観念的な範囲がある。物理的な範囲は、物理的制約によって生じる範囲である。それに対し、観念的範囲とは、制度や言語、宗教、道徳と言った観念の産物によって生じる範囲である。交通や通信の発展伴い物理的な範囲は解消されつつある。反面、物理的な制約が解消されればされるほど、観念的な制約が強固なものになって、範囲を特定するようになってきた。

 問題は、観念によって生じた制約の妥当性である。財政赤字も観念的な制約の一つである。財政赤字というのは、物理的な制約ではない。経済自体が観念の所産であり、自然物ではない。それを勘違いしてはならない。それ故に、財政赤字によって生じる制約というのは、あくまでも観念的な現象であり、それが経済に与える働きが重要なのである。自分達が作り出した制約によって政策の自由度を失うのは馬鹿げた事である。
 今我が国は、ゼロ金利政策をとっている。なぜ、金利を限りなくゼロに近い状態に据え置かなければならないのか。これは、金融制度にとって異常事態である。もっと言えば、それを異常だと感じないほど異常な事態だと言える。なぜ、金利を上げられないのか。金利を上げると景気が悪化するからである。しかし、それは金利を上げることだけで引き起こされる現象かと言えば違う。金利を上げると景気が悪くなる仕組みになっているからなのである。そして、仕組みがかえられない思想が問題なのである。
 必要ならば、金利も上げればいいのである。経済政策上金利を上げる必要がある時に、金利が上げられない方が問題である。金利が上げられない理由がある。金利が上げられない理由の一つとして、金利負担の増大がある。しかし、金利負担が増大しても、金利を上げても儲かるような仕組みにすればいいのである。ただ、市場を放任状態にし、政府はまったく関与しない状態で金利だけを上げれば景気は悪くなるに決まっていると言うだけである。金利だけで景気をコントロールするのには、自ずと限界がある。
 そして、根本にあるのは、不当な利益は悪だとする思想である。同時に、市場は本人するにかぎる規制は悪だとする思想である。国家の介入も悪だとする思想である。これは、反体制、反国家主義的思想なのである。国家主義も思想だが、反体制、反国家主義も思想である。それを国家主義は、思想だが、反体制、反国家主義は、摂理であり、真理だとすることが問題なのである。経済は、人間の観念が作り出した所産なのである。

 拡大均衡型の市場の方が、制御はしやすい。縮小均衡型の市場は、物は豊かでも成長そのものが望めないためにどうしても抑制的になるからである。その為に、拡大均衡型の政策によって市場を均衡させようとする。
 成熟期に入った市場、即ち、縮小均衡期の市場に対し成長を土台にした政策をとろうとしたら、市場を成熟期以前、即ち、成長がはじめる当初の状態にまで戻す必要がある。それは、市場をリセットすることを意味するのである。しかし、既に、成熟期に達した市場を成長期以前の状態に戻すためには、革命や戦争でリセットするしかない。
 政治にとって拡大均衡期の方が、政権を維持しやすい。だから、成熟期に入っても成長期と同じ政策を採用しようとする。結果的に、経済が破綻し、市場が機能しなくなる。それが戦争や革命によって初期状態に戻さざるを得なくなるのである。それ故に、革命や戦争の背後には、経済的な破綻が隠されているといえる。

 この様な市場の状態や環境に応じて経済政策は、組まれるべきなのである。

 経済の根本は格差なのである。それを忘れてはならない。差が生じるから、差があるから、経済は成り立つ。A−B=C、それが、経済の基本式である。商業というのは、ある意味で難しくない。A−B=C、これが+か−かで決まる。又は、残出入残で決まる。差が悪いという発想は、商売そのものを否定する事に繋がる。
 この差は、情報の非対称性による。格差を利用するというと何か、犯罪めいたことをマスメディアの人間は思うかもしれない。しかし、それは程度の問題である。適正な利鞘を稼ぐことは、正当な商売である。
 この差を認めない分野がある。それが、公共機関である。公共機関は、公共の利益を追求するのだそうである。だから、差があってはならないという。しかし、利益は差によって生じる。これは、公共の利益も同様である。
 差にもいろいろある。売値と仕入れの差。時間差。物価の差。経費の差。中でも売上と費用の差が重要なのである。

 所得税は、差を基礎として、益金と損金の差額を基礎として課せられる税である。それ故に、所得の再分配が可能となる。

 市場とは、差を活用して機能している。差というと語弊があれば、位置を活用していると言っても良い。力学的な要素は、位置と運動と関係である。そして、エネルギーの根本は、一エネルギーと運動エネルギーである。この位置エネルギーを生み出すのが差である。

 極端な平等主義に陥り全てを同等均一にすれば、物流は停滞する。なぜならば、物流と言うぐらいであるから流れなのである。水は、高きより低きに流れるというように、流れは、高低差のような位置の差によって生じるからである。

 市場経済においては、市場間の空間的・時間的格差が原動力となる。格差が市場に競争を生み出すのである。その競争が市場を動かす原動力となる。

 競争と一口に言っても、企業間競争、業種間競争、市場間・商圏間競争、国家間競争といろいろある。しかも、競争の有り様は、それぞれ違ってくる。前提や状況によっても違ってくる。そして、競争の根本にあるのは、企業間、業種間、市場間・商圏間、国家間にある何等かの格差である。

 特に、注目しなければならないのは、先物市場の成立である。先渡し市場と現物市場、先物市場というのは、それぞれの市場の時間差から生じる貨幣的価値の差によって成り立っている。先物市場というのは、現物市場から派生した市場である。故に、先物市場は、現物市場に依存した市場であり、現物市場に抑制さるべき市場である。ところが、最近は、先物市場に投機的資金が流れ込み、実体経済を振り回すという現象がたびたび観測される。先物市場の動きによって現物市場が制御できなくなると言う事態まで起こっている。その好例が原油価格の高騰である。(「物語で読み解くデリバティブ入門」森平爽一郎著 日本経済新聞社)

 市場競争というのは、ある程度の格差を受け容れることによって成り立っている。しかし、だからといって使い切れない程の富を得たところで、それに見合う財や欲求がなければ意味がない。問題は、ある程度の格差とは、どの程度の格差を言うのかである。その上限と下限をどこに設定するかが重要なのである。大体、財は、無尽蔵にあるわけではなく。限りがあるのである。
 土地について考えてみよう。人間が住める土地には限りがある。仮にその人間が住める土地を、ある国が、その国の国民に、均等に分配したとしよう。しかし、その場合、交通の便や、また、日当たり、土壌、水利と言った差が生じる。すなわち、均等の広さに基づいて分配しただけでは、不公平が生じる。では、公平を帰してくじ引きで分配すればいいかと言えば、籤(くじ)に外れた者は、納得しないだろう。だから、市場が必要となるのである。
 逆に、全ての土地を手に入れられるだけの富を、又は、実質的に全ての土地を所有することができたとしよう。この場合は、もはや市場そのものが成り立たなくなる、つまり、交換の必要性がなくなるからである。また、それでは土地所有の意味もなくなってしまう。それに、全ての土地を手に入れようとすれば、もはや暴力や権力によるしかなくなる。
 故に、均等に土地を分配しても、また、全ての土地を独占できるだけの富を特定の人間や階級が占有したとしても経済は成り立たないのである。

 所得というのは、どれ程、もらったとしても、交換する権利を与えられたに過ぎない。欲しいと思う財が市場になければ手に入れることはできないし、必要以上にもらったところで使い道がないのである。
 バブルの頃に東京23区の地代でアメリカ全土の土地を購入できると言った話があった。しかし、これ程、馬鹿げた話はない。それは、ただ、貨幣価値換算した場合と言う事であって、だからといってアメリカ全土の土地を買おうという人間はいないであろうし、現実に不可能である。むしろ、それほど日本の地価は、異常に高いという事を意味しているのであり、日本人の所得からして相対的な自分の取り分が異常に低いという事を意味しているのである。つまり、地価というのは、個人の所得との比較において正当性を持つのである。
 IT長者と言われる若者達の中には、何兆円とも言われる資産を築きながら、普通の大学院生と変わらない生活を続けているものが多いと言われている。(「ゴールドラッシュの「超」ビジネスモデル」野口悠紀雄著 新潮社)彼等にとって生活に必要以上の所得はないも等しいものである。つまり、ライフスタイルや必要性があって所得の額は意味があるのである。

 この様に、市場は、一定の格差の幅の中で成立している。問題は、その幅である。格差が大きすぎても小さすぎても市場は、効率的に機能しないのである。

 経済の本質は、財の分配にあるとも言える。分配の仕方には、市場を経由する手段と配給と言う手段がある。ただ、配給という手段を持ついる場合、何等かの基準を定める必要がある。また、公平と言った場合、一律同等、均一であることを求められる。例えば、かつての中共の人民服のようにである。しかし、それでも個体差まで無視することはできない。市場の機能は、分配にある。

 市場には、実物市場、労働市場、貨幣市場がある。貨幣市場には、金融市場、資本市場、為替市場などがある。つまり、市場にも人・物・金がある。ただ、注意しなければならないのは、いずれの市場も、媒体となるのは、貨幣である。つまり、人対金、物対金、金対金の市場があるという事である。
 現代市場で起こっている多くの問題の原因は、この貨幣市場にある。実物市場や労働市場というのは、対極に実体がある。しかし、貨幣市場というのは、対極も金、つまり、貨幣である。対極が金と言う事で、金が金を増殖するという働きを貨幣市場は持つからである。

 投機的マネーが経済構造の歪みや脆弱的なところに流れ込み、バブルを引き起こし、また、バブルを崩壊させ、経済を攪乱するのである。それを、グリーンスパンは、「根拠なき熱狂」(irrational exuberance)と言ったのである。

 サブプライム問題やバブル、その反動で来る不況や恐慌は、その典型的現象である。金が金を生むという市場が無規律であることが問題なのである。実物市場から溢れ出した資金は、過剰流動性となって投資先を捜して、貨幣市場を飛び回るのである。それが、市場の歪みや澱みに滞留して、根拠なく過剰な価値を生み出し、膨らますのである。それが破裂した時、一種のブラックホールと化し、価値を収縮させるのである。

 それは、貨幣市場が貨幣対貨幣の市場だからである。価値で価値を測る。つまり、対価としての根拠や実体がないのである。この様な市場には、規律が不可欠である。

 我々が子供の頃は、洋酒の値段や外国人向けのホテルの宿泊料が異常に高価に思えたが、欧米人から見れば日本の物価が異常に安かったに過ぎない。確かに、関税の問題はあるのだろう、しかし、それでも舶来品は高級品だというイメージが染みついている。
 貨幣価値は相対的なものなのである。

 我々は、知らず知らず値段で物事の価値を測っていることがある。高額なブランド物を見せられると、それだけで、何か、たいそうな物であるように思い込む。安い化粧品をみると、品質はともかく、粗悪な物であるというふうに思い込み。実際、使ってみても先入観で物事を判断してしまう。 

 最近、大変なグルメブームである。目の玉が飛び出るほど高価なブランド牛が、結構、出回っている。また、高級なブランド物が飛ぶように売れている。しかし、差がなければこの様な高級指向は生まれてこない。格差は、商品を細分化するのである。
 例えて言えば、かつて共産主義国では、人々の差を認めていなかった。中共では、人民服に、服装が統一されていた。ここでは、高級ブランドなど生まれようがないのである。しかし、本当に差がなかったのであろうか。例えば住む場所というのは、必然的に差が生じる。しかし、その差を認めなければ、格差は表面化しない。ただそれだけなのである。人民服にだってまったく差がなかったわけではない。服地にせよ、仕立てにせよ、全てを均一にする方が難しいからである。
 逆に、市場経済や貨幣経済が進化すると貨幣が価値を作るといった現象が起こる。高価な料理を見てこの食べ物は、途上国の一年分の所得に相当すると言う評論家が結構いる。それは、値段で価値を測っているからである。元々、貨幣価値というのは、交換価値である。つまり、市場が価値を決めている。値段が高くてもその値段に相当するコストをその値段が表示しているとは、必ずしも、限らないのである。金があるから、その値段で購入するので、金がなければ、誰も買わないであろうし、金があっても、それを購入する者がいなければ、その値段は付かないのである。つまり、格差とは、価値の細分化を招くに過ぎないともいえる。
 むろん、格差が極端に広がれば貨幣価値の混乱を引き起こす事にもなる。

 格差による弊害とは、貨幣が万遍なく社会の各層に行き渡らなくなるからである。その為に、財の分配が正常に機能しなくなり、貧困や飢餓が生じることである。
 貨幣は、基本的に労働の対価として、また、財の売買によって配分される。それ以外に、地代、家賃、賃貸、金利によっても貨幣価値は生じる。
 つまり、人々は、労働の対価、そして、財の売買、そして、地代、家賃、賃貸、そして金利から所得(貨幣)を得、それによって市場から必要な財を購入するのである。この仕組みが、財の分配であるが、国民に、貨幣が万遍なく行き渡らなくなるとこの機能が働くなる。

 :先にも述べたように、空前の美食・グルメブームである。テレビには、連日、高級な食材を使った料理番組が繰り返し流されている。しかし、グルメがブームになったらこれらの食材が出てきたのか。それとも、元々これらの食材はあったけれど、グルメがブームになったからこれらの食材に価値が出たのか。どちらであろうか。
 高級な牛肉というが、それほど、牛肉の味に極端な差があるようには思えない。まあ、その道の通にいわせれば別なのであろうが、元々、牛肉はあったし、味というのは、最も主観的なものである。
 戦後の食糧難の時代から見ると隔世の感がある。食べることに汲々としていた時代や平等を建前としている社会では、良い肉も悪い肉もなかっただろう。ひどい場合、良い肉と悪い肉とを混ぜてしまうかもしれない。それが平等というものだと我々は教えられてきた。しかし、それは、真の平等であろうか。

 つまり、物がないから価値がなかったのではなく、市場が価値を生み出しているのである。一度、その価値が認められれば高額で取引がされる。それから、高級食材と認知された物の生産が活発になり、牛にビールを飲ませるなどの涙ぐましいほどの努力が為されるようになるのである。

 マグロのトロのように昔は捨てていたような食材も価値があるとなると高額で取引される。それは市場の為せる業である。市場の大切な機能、働きの一つが、差別化であり、価値の創造である。

 好例が、絵画である。モジリアニのように、画家が生きているうちは、価値のなかった絵が、画家、死んだ後価値が出ると言う事は往々にしてある。当の画家は、自分の業績を生前は認められることなく、困窮を極めたというのに、その画家が残した絵画は、目が飛び出るほどの高額で取り引きされている。
 こうなると市場価値とは何なのか。誰のために、何のためにあるのか、考えさせられてしまう。
 市場価値というのは、市場が創り出す物である。そして、それは、主として需要と供給によって決まるとされている。こうなる、需要と供給が絶対的な影響を与えるようにも見える。しかし、市場価値というのは、基本的に相対的な基準である。ただ、市場経済における価値というのは、市場が生み出していることだけは確かである。それは、その財を生産した者や世間で考えられている倫理観のような普遍的価値観ものであり、普遍的価値観を成立させているものとは、違うメカニズム、仕組みによって形成されているのである。

 この様に市場の重要な働きの中には、価値の創造がある。市場価値というのは、交換価値である。自由主義経済体制は、市場経済と貨幣価値が一体であるから、市場価値、即ち、交換価値は、即時、貨幣価値に換算される。貨幣価値というのは、数値的価値である。
 この様な貨幣価値は、相対的価値である。つまり、他の財と比較することによって成り立っている価値である。なぜならば、それは交換価値だからである。交換の前提は、比較対照だから交換価値は相対的に成らざるを得ないのである。
 相対的価値は、財と貨幣の総量による比率によって裁定される。それは、市場が基本的に分配の場であることを裏付けている。
 この様に相対的な価値と言う事は、貨幣価値は、その働きと位置と関係によって確定されていることを意味する。つまり、交換価値を構成する要素は、運動と位置と関係である。運動は、変化であり、位置は格差であり、関係は構造である。つまり、基本的に市場的価値というのは、差がもたらすのである。差がなければ、価値は、特定できない。それが市場価値である。

 貧困というのは不思議なことである。人口爆発が起こっているのは、主として貧困な地域である。豊かな地域では、逆に、少子化に悩んでいる。現代問題になっている人口問題は、一方で人口爆発であり、もう一方で少子化問題なのである。

 全ての人間の欲求を満たすだけの食料がなくて飢餓が生じるのは、食糧の不足問題であり、いかに、食料生産を増進させるかであるが、全ての人間の欲求を満たすだけの食料があるのに、飢餓が生じるのは、経済の失敗であり、市場の欠陥なのである。

 市場価値は、差と関係によって成り立っている。しかし、差を付けるのは、分配を機能させるために置いてである。Aと言う製品の性能と価格とBと言う製品の性能と価格の差を比較対照し、自分の手持ちの貨幣、即ち、交換価値(交換する権利を留保した物)を比較した上で、何と交換するかを決定するのである。その裁定、決済の場が市場である。
 そこで問題となるのは、品質と価格と権利の関係である。故に、市場価格を決定するのは、差と関係なのである。
 基本的に適当な差があるから、製品の選択肢があるが、差が大きすぎれば選択肢がなくなる。故に、差によって市場価値は、確定するが、関係によって市場価値は規制される。それが市場の機能を有効とするのであり、格差がなくなっても、大きくなりすぎても市場は有効に機能しない。なぜならば、市場の本質的な働きは分配にあるからである。

 市場に本来要求される働きは、需要と供給の調整を通じて財を適正に分配する事である。そして、需給を調整するための価値の創造。価値の創造とは、交換価値を裁定することである。需要と供給の調整、交換価値の裁定に用いられるのが、貨幣経済下では貨幣である。市場経済と貨幣経済は、資本主義経済では一体であるが、本来は別物である。

 財は有限である。大恐慌の時でも、財の絶対量がないという事ではないし、ハイパーインフレだからと言って財が決定的に不足しているというのでもない。大恐慌やインフレというのは、貨幣経済下では、貨幣が原因である要素が高い。

 経済成長や市場の拡大によってコストの上昇を吸収できる場合はいい。しかし、コストの上昇を経済成長や市場の拡大によらず経済の効率に求めるようになるとコストの上昇を吸収するのが困難になる。
 実物経済は、対物であり、物価に連動して変動する。労賃は、人件費に連動する。対金は、金利や為替の動向に左右される。
 
 実物的市場は、財の在り方によっても変化する。財には、経済財と自由財がある。経済財は、私的財と公共財からなる。私的財は、消費財と生産財(資本財)からなる。そして、消費財は、耐久消費財と非耐久消費財がある。
 また、経済財は、貯蔵可能がどうかで貯蔵財と非貯蔵財に区分される。

 生産財は、生産手段と生産原料からなる。即ち、生産原価を構成する財である。生産原価は、原料、人件費、経費に区分される。また、直接費と間接費にも区分される。

 人件費は、労働市場によって決まる。労働市場は、単純に需給によって決まるのではなく。その年の物価の上昇率や雇用条件、給与体系などによって決まる。その変動の周期は、長中期的な波動で変動している。

 同じ財でも購入先が違うと消費財と生産財の違いが生じる場合がある。例えば、自動車でも一般消費者が買えば、消費財だが、企業が買えば生産財である。つまり、消費財と生産財の区分は、絶対的な基準ではなく。前提条件によって決まる相対的な基準である。
 消費財を生産する工業を消費材工業と言い。生産財を生産する工業を生産財工業という。消費財工業と生産財工業とでは、生産手段や販売ルート、市場に差がでる場合がある。ただし、厳密に消費財と生産財を区分できないために、この区分も便宜的、相対的な区分である。定義は、要件定義によってなされる。

 消費財とは、消費される財である。消費されるとは、使用されると価値が失われていくことである。また、使用されなくとも一定の期間たつと価値が失われる物も消費財である。それを行使すると価値が失われるのであるから、無形のサービスも含まれる。
 耐久消費財は、耐久性のある消費財である。耐久性というのは、ある一定期間、価値を保持する事を意味する。価値を保持するというのも、帳簿上、即ち、会計上において価値を保持する物や減価していく物を指す場合もある。
 通常、一年以上使用する物に関して耐久消費財として会計上は資産計上するのが原則である。一年以内に消費、消耗する物は費用として処理される。
 現金、株や有価証券、不動産のように減価しない財を非減価償却資産といい、建物、設備のように減価する物を減価償却資産という。いずれも、全てが有形な物とは限らず、非減価償却資産に含まれる特許権や減価償却資産に含まれる営業権のような無形な物も含まれる。
 耐久消費財の中の非減価償却資産の価値は、基本的に相場によって決まる。同じ耐久消費財でも減価償却財は、その財の償却期間がその財の寿命と見なされ、更新される。即ち、非減価償却資産が構成する市場は、商品のライフサイクルによる何等かの波動があるわけではなく。その財の取引条件や市場環境に左右される。
 それに対し、商品に一定の更新時期、買い換え需要がある製品は、その寿命が一定の市場の周期となると考えられる。ただし、これも厳密なものではなく、流行や新製品などによって多少の変化がある。しかし、基本的には、耐久消費財の市場は、その商品の長期の波、即ち、草創期、成長期、成熟期、衰退期があり。成熟期にはいるとその製品の更新、買い換え需要によって好不況の中期的な波があり。短期的には、在庫による波が生じる。

 非耐久消費財は、石油のように貯蔵が可能な財と生鮮食料や電力の様に貯蔵が不可能な財とに別れる。
 ただ、この場合も技術的な問題があり、技術や設備、装置があれば、非貯蔵財でも貯蔵財となりうる。
 石油のような備蓄が可能な財は、それが消費される時点が問題となるのに対し、貯蔵のきかない製品は、それが生産された時点が問題となる。また、貯蔵することが可能な物でも陳腐化する物は、貯蔵する期間が重要となる。更に、在庫にかかる費用と金利という時間的価値が重要になる。

 また、製品の生産工程によっても産業構造は規制される。石油のような装置産業は、初期投資が巨額になり、しかも、最終商品の格差が少ないために、過当競争が起こりやすい。同じ食料でも海鮮食品のように鮮度が重要な商品と米のように備蓄のきく商品とでは、販売形態が自ずと違ってくる。当然、市場構造も違ってくる。規制の在り方も違う。
 この様に、商品の属性が該当商品に関わる産業の構造を制約する。故に、競争の原理とか規制緩和というように、一律に市場の原理や規制を規定することは不可能である。

 また、輸送コストが問題となる財、例えば、パイプラインやケーブルと言った輸送設備の保守の問題がある。

 市場は、リスクの在り方によっても違う。つまり、危険物を扱う財は、その為の保安上コストがかかる。また、食料のように賞味期限が問題になる産業は、鮮度を維持するためのコスト、所謂(いわゆる)歩留まりが重要になる。

 JR東海の子会社であるジェイアール東海パッセンジャーズが賞味期限を改竄したことが新聞に載っていた。その記事の中で弁当の賞味期限は、製造開始から14時間、サンドイッチ、おにぎりの賞味期限は、18時間以内とある。つまり、弁当の市場価値は、14時間、サンドイッチ、おにぎりの商品価値は18時間しかないことになる。賞味期限を過ぎると商品価値を失い廃棄することになる。(日本経済新聞2008年2月23日)

 経済現象は、フローとストックによって引き起こされるが、表面に現れるのは、フローの動きである。つまり、現象として現れるのは動きであるから経済現象として現れるのはフローだと言える。しかし、目に見えない動きとして、ストックの価値の変動がある。

 しかし、表面に現れるフローの動きは、水面下にあるストックの作用の影響を受ける。その典型が在庫である。故に、フローとストックのバランスが重要なのである。

 また、市場は、基本的に需給の調整が主たる機能ではあるが、儒教の調整と言うだけで、動いているわけではない。現に、オイルショックの際、一部の製品は、在庫はあったのに、供給が絞られ価格が上昇した。この場合は、需給と言うよりも将来に対する思惑の方が先行したのである。

 市場の働きは、取引と決済によって発生する。つまり、市場の運動は、取引と決済として現れるのである。そこで重要な役割を果たすのが金融の仕組みである。取引というのは、当事者間のやりとりである。つまり、財と貨幣との交換行為である。これが市場の働きの根本をである。交換を前提とするから、需要と供給を調整することが可能なのである。

 市場で働いているのは、競争の原理だというのは、とんでもない嘘である。競争の原理というのは、勝者と敗者しか想定されていない。競争で言うところの勝者と敗者は、早いか遅いかを意味しているに過ぎない。つまり、競争というのは、早いか、遅いかの差に過ぎないのである。しかし、市場は、違う。敗者は、容赦なく淘汰されてしまう。つまり、単なる勝ち負けの問題ではなく。生きるか死ぬか、生き残りを賭けた戦い、つまり、格闘なのである。即ち、市場で働いている原理は、競争ではなく。闘争の原理なのである。そこでは、弱肉強食でしかない。


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市場の働き