水利は、流れによって活かされように、経済や市場は、資金の流れよって活かされる。澱みは、資金の流れを停滞させる。過剰な流れは、洪水を引き起こす。
 貨幣の流れも同様である。貨幣の働きは、水の働きによく似ている。

 貨幣価値の本質は、交換価値であるから、流れによって、生み出され、その効力を発揮する。貨幣の流れと逆方向に財の流れ生じる。その流れが貨幣経済を機能させていく。つまり、貨幣の働きでは、フローとストックが重要な要素なのである。

 金の魔力は、宗教の総本山すら揺るがしてしまう。守銭奴という言葉がある。金の亡者という意味である。昔から、金の力には、人を惑わす力があると信じられてきた。なぜ、この様な力が貨幣には隠されているのであろうか。それは貨幣の働きの中に隠されている。

 財政赤字もインフレもデフレも貨幣的問題であり、実物的問題ではない。むろん、インフレやデフレは、実物的需給に起因するが、それが、貨幣経済体制下では、貨幣的現象として現れるからである。故に、最終的には貨幣的問題に還元された結果して経済に現れるからである。

 資本主義体制には、三つの市場がある。第一に、労働市場。第二に、実物市場。第三に、貨幣市場である。貨幣市場は、金融市場と資本市場からなる。第一の労働市場は、労働を対象とした市場である。第二の実物市場は、物を対象とした市場である。第三の、貨幣市場は、貨幣ないし、貨幣相当物を対象とした市場である。問題は、個々の市場の相手になる物である。貨幣市場体制下では、その対称となる物が金、即ち、貨幣なのである。
 つまり、第一の、労働市場は、人対金。第二の、実物市場は、物対金。第三の、貨幣市場は、金対金によって成り立っているのである。デフレやインフレというのは、この対称となる金が引き起こす現象だとも言えるのである。特に、貨幣市場は、金対金であるために、貨幣価値を増殖したり、縮小したりする作用がある。この点をよく注意する必要がある。

 貨幣とは、市場で貨幣に表示された額と同量の財と交換する権利を表象した物、又は、情報である。重要なのは、貨幣は、権利を表記した物、ないし、情報だと言う事である。その権利は、行使される以前の物であり、情報だという事である。つまり、貨幣は、潜在的価値を必然的、結果的にもたらすという事である。
 この潜在的な価値が購買力の基礎となる。問題は、購買力である。いかにして、購買力を惹起するか、それが重要なのである。公共事業にもこの購買力を活用する目的がある。

 貨幣の重要な機能の一つに交換価値の均一化、同一化がある。財の価値を貨幣価値に還元し、均一化することによって異質な財を足したり引いたり、掛けたり、割ったりすることが可能となる。
 四則の演算の前提は、同類の対象、同じ分類に属する対象であることである。つまり、鯨は、鯨、車は車でしか本来、足し算引き算ができないことになっている。それが貨幣価値に還元すると可能となる。それが貨幣の重要な機能の一つである。つまり、鯨と自動車を貨幣価値に換算すれば、足すことも、引くことも、割ることも、掛けることも出きるのである。それによって、企業価値のような複合的な価値も計算することが可能となった。
 鯨と自動車を足すどころか、人間の労働力や電力と言った無形な価値や土地のような不動産、魚のような精製食料、家畜・ペットと言った動物、音楽や権利と抽象的な概念まで足したり引いたりすることが可能となる。それが貨幣経済を成立させている。
 100円ショップと言う商売がある。その店で売られている商品は、全て一律100円で売られている。100円ショップが扱うアイテムの種類や質は多岐にわたる。しかし、消費の価値は、一律100円と決められている。100円を一つの交換価値の単位としていることを意味している。この様な100円ショップの在り方は、交換価値の単位化が可能だという事を示唆している。

 お金は、使うことによってはじめて価値が出る。即ち、貨幣価値は、権利を行使することによって発効する。たとえ、いくら大金を持っていたとしても使われなければ価値がないも同然なのである。そして、貨幣価値は、行使すれば権利は相手に転移し、失効する。貨幣価値は、権利が転移することに意義がある。また、貨幣は価値を行使されることによって流通するのである。
 使わなければ価値がなく、使えば、価値は行使した相手に渡り、なくなる。この事は、貨幣が、権利を表象した物であることを証明しているのである。

 金というのは、持っているだけでは何の役にも立たないのである。使わなければ、役に立たない。しかし、使えばなくなる。浪費家の君主は、財政は破綻させるが、景気は良くする。常に、財政には、このジレンマがつきまとう。景気を良くしたければ、金を使わなければならないが、金を使えば財政は破綻する。この様な現象は、貨幣が権利であることに由来する。

 貨幣の特性は、第一に、貨幣は保存ができる。即ち、貨幣は貯蔵ができる。第二に、貨幣は、所有権の転移が可能である。第三に、貨幣は、持ち運びや、運搬ができる。つまり、移動が可能だと言う事である。第四に、貨幣は、一定均一の価値を表象した単位だという事である。この事は、貨幣は、幾つかの集まりに単位によって分割することが可能であることを意味する。リンゴは一個と言っても、他のリンゴの一個と交換価値が同じだとは限らない。品種が違えば、交換価値も変わるし、鮮度、即ち、時間的価値によっても違う。しかし、一円は、一円である。アメリカであろうと、百年たとうと、一円は、一円と交換することができる。貨幣価値は、同じ貨幣間では価値が均質であるが故に、質を問題にせずに交換価値を数量化する事ができるのである。第五に、貨幣は、情報であり、記号化、信号化できる。情報であり、記号化、信号化できるという事は、証憑化や証書化、データ化することができることを意味する。また、第六に、貨幣は、数値情報、デジタル情報だと言う事である。貨幣は、数えることができるという事である。そして、貨幣価値は、関数化、方程式化できるという事を意味する。数値化できることによって物に値段を付けたり、価格を計算したり、費用化する事も可能となる。また、利息も生まれる。償却や収益、売掛金と言った概念も成立する。そして、交換価値を数値化することが可能であるから、取引や契約も成立する。貨幣価値というのは、数値的価値なのである。
 これらの特性によって貨幣は、為替手形のような証書によって、遠隔地でも、同質同量の交換価値を転移することができるのである。また、約束手形のように、時間を超えて同質同量の交換価値を転移することができる。更に、情報を伝達することで、価値だけを転移することも可能である。ただし、ここで言う同質同量というのは、距離的差や時間的差を考慮せずにと言う意味においてである。
 質を問題にせず交換価値を数量化することが可能であるから、貨幣は、数値情報に変換することができる。一々、札束や現金を持参しなくても決済が可能なのである。つまり、貨幣には、個性がない。電話一つで、どんな遠隔地でも取引をすることができる。それは、貨幣には、交換価値と数値という属性以外がないことによってはじめて可能なのである。我々は、自分の預金と他人の預金とを色分けし、見分ける必要がない。つまり、預金を現物、現金で確認する必要がないのである。それは、貨幣一つ一つに個別の価値が存在しないからである。一円は、どの一円も同じ物として認識しているからである。それは、翻って考えると、貨幣の所有権というのは、交換という権利だけを所有していることを意味しているのである。
 また、預金によって貨幣価値は、貯蓄することもできる。また、貨幣は、価値は、一定の単位で分割することも出きる。
 
 貨幣経済の特徴の一つに、貯蓄がある。支出は、消費と貯蓄とに分類される。消費とは、貨幣価値の即時的行使であり、貯蓄とは、交換価値の行使の留保である。つまり、貯蓄というのは、交換価値の時間的転移である。そして貯蓄の形態によっては、金利が生じ、時間的に価値が派生する。貯蓄は、預け入れを意味するが実際的には、金融機関に対する貸付である。つまり、負債である。負債が、貨幣価値に時間的要素を附加するのである。

 貨幣経済とは、この様な貨幣を媒体として市場で財を交換する仕組みによって成り立っている経済を指して言うのである。貨幣経済と市場経済は、同一の仕組みではない。しかし、市場と貨幣が一体になった時その効力を発揮することができるのである。

 経済が活動すると何等かの費用が派生する。費用という概念は、交換価値を貨幣価値に換算する事によって成立する。交換価値には、物的価値と時間的価値がある。費用は、この物的価値と時間的価値を掛け合わせたものである。そして、費用という概念が成立することによって収益という概念が成立する。故に、収益という概念は、交換価値の時間的概念である。また、費用は、分割することができる。

 貨幣は、権利であって未発の価値である。いわば、影である。つまり、貨幣だけでは、実体を持たない事を意味する。交換価値というのは、交換する対象があってはじめて発効する。交換する対象がなければ、何の実行力もないという事である。つまり、無人島に流れ着いたロビンソンクルーソーには、貨幣は何の価値も持たないという事であり、交換相手も、交換する物もなければ、貨幣経済も市場経済も成り立たないという事である。
 貨幣自体は、交換価値以外の価値、例えば、使用価値や希少価値というものを持たない。貨幣自体は何ら実体を持たない。市場価値を表象した物にすぎない。しかも、貨幣が表象する市場価値は、市場で同量の市場価値を有する財と交換する権利だけである。いわば、貨幣は、約束手形みたいな物である。と言うより、約束手形が発展した物である。

 ただし、貨幣価値は、絶対的価値ではない。貨幣価値は、貨幣価値が代償とする対象があってはじめて成立する価値である。この代償とする対象が存在すること自体によって貨幣価値は、相対的なのである。つまり、貨幣価値は、それ自体で存在するのではなく。貨幣価値が交換価値を代償する財があってはじめて成立する。つまり、貨幣価値は、貨幣と財とがあってはじめて成立するのである。この事は、貨幣と財との間に絶対的な関係がないかぎり、貨幣価値を相対的な物にしてしまう。

 貨幣が成立した当初は、この貨幣的価値と現物とを結びつけようとした。例えば金である。貨幣一単位あたりの価値と金一単位あたりの価値を固定しようとしたのである。それが本位制度である。しかし、その場合、金の持つ固有の価値と、その他の財との交換価値が一定していないと二重の価値を持つことになる。その為に、今日では、本位制度は成立しなくなった。

 貨幣が相対的基準だと言う事を端的に現しているのは、通貨問題、為替の問題である。異種貨幣間の価値、つまり、特定の通貨価値が上昇すると、例えば、円の額面価格、表示額は、下落する。逆に、円安の時は、円の額面額は、上昇する。この様に、貨幣価値は、相対的価値である。

 また、交換価値である貨幣は、交換の場である市場の存在を前提としている。つまり、貨幣経済は、市場経済によって成り立っている。貨幣は、場を選ぶのである。

 市場経済の存在は、貨幣経済の前提である。同時に、貨幣経済の浸透があって市場経済は確立する。なぜならば、交換価値の単位が確定することによって、市場の均衡は保たれるからである。また、限られた市場空間から、広域、また、通貨圏全体に市場の機能が拡大するからである。

 貨幣は、結果的に、交換価値に時間の概念を持ち込んだ。それは、地代や利息、収益によって時間的な変化が価値を生じたからである。つまり、時間が価値を持つことによって生産過程が経済化されることになる。それが償却の概念である。この時間的価値を体系化した制度が会計制度である。

 貨幣は、交換価値そのものと言うよりも交換する権利を表象した物という性格の方が強いからである。つまり、貨幣を溜めると言う事は、権利行使を留保するという方が性格なのである。この権利が、時間的に変化する。つまり、価値は確定していないという事になる。価値は、権利を行使した時点で確定する。つまり、それが貨幣の性格を規定しているのである。この様に、貨幣は、交換価値を時間的に空間的に転移することが可能なのである。
 その為に、貨幣の価値は、時間によって変化する変数だと言う事になる。我々は、貨幣価値を絶対的価値と錯覚することがある。百万円は、百万円だよ。そう思いがちであるが、実際は、一定の時点、時点での交換価値を現しているのに過ぎない。それを思い知らされるのは、ハイパーインフレの時である。たちまち、貨幣価値は下落してしまう。滑稽な話だが、ハイパーインフレになった時、誰も、貨幣の実物的価値を気にしない。つまり、仮に紙幣の使用している紙の価値の方が紙幣に表象されている価値より大きくなったとしても紙幣の表象している価値の方に捕らわれるのである。

 貨幣制度は、国家の領域を画定する。つまり、一つの通貨の単位を規定している範囲が実質的な国家を形成するからである。むろん、共通の通貨を共有する国家群は、それ自体が一つの経済圏を形成するし、また、法によっても国境は画定するが、いずれにしても実質的境界線は、通貨によっても画定される。つまり、通貨は、国家を構成する不可欠な要素の一つである。

 貨幣には、現物貨幣と信用貨幣がある。現物貨幣は、貨幣そのものに価値がある。それに対して、信用貨幣とは、貨幣自体が交換価値を持つのではなく、交換価値を表象した物にすぎない。つまり、信用貨幣は、貨幣が表象する交換価値を保証する何等かの権威か、権力が後ろ盾しなければ成り立たない。それが信用貨幣である。
 現在、流通している貨幣は、信用貨幣である。貨幣の根本は信用である。貨幣そのものに価値があるわけではなく。信用貨幣は、交換価値を表象した物だからである。信用貨幣自体が、交換価値に相当した価値を有するのではなく、交換価値を表象しているに過ぎない。

 経済単位は、貨幣経済が確立されるまでは、必ずしも、貨幣単位に統一されていたわけではない。石高のような、実物的単位の方がむしろ一般的だったと考えるべきである。市場でも、物々交換が主だった。
 例えば、江戸時代までの日本では、大名の領地は、禄高で計算されていたし、家臣達への報酬も石高で現されていた。また、納税も米や産物による物納であり、単位も実物的単位であった。貨幣で支給される報酬もあったにはあったが、それは、一部に過ぎない。総体としては、貨幣単位ではなく、実物的単位だった。
 実物的単位だと時間的変化は意味を持たない。と言うよりも換算できない。つまり、米と言う現物で支給されても米の持つ実物的価値しかないからである。米の価値は、値上がりしたり、値下がりすることはあっても、米の持つ価値しかない。また、多少保存できるとしても実物的価値は、時間と伴に陳腐化、即ち、減価してしまう。
 貨幣も当初は、金、銀、銅と言った貨幣の素材となる物の実物的な価値しか持たなかった。しかし、貨幣は、実物的な価値以外に象徴的な価値を附加されるようになる。そして、その付加価値に時間的な価値が加わることによって今日的な貨幣価値が確立されるのである。貨幣とは、市場で貨幣に表示された額と同量の財と交換する権利を表象した物、又は、情報である。重要なのは、貨幣は、権利を表記した物、ないし、情報だと言う事である。

 仮想通貨が出現したのは、貨幣価値が情報化した事を象徴する出来事である。貨幣の情報化、記号化、信号化は、これからどんどん進化することが予測される。そして、それは、新しい経済体制の現れでもある。現代は、その過渡期にあると考えても良い。

 現物的、物々交換的経済よりも、持ち運びが可能で、保存がきく貨幣の方が、利便さにおいて優れていた。また、現物は、腐敗、腐食と言った陳腐化、減価が付き物なのに対して、貨幣価値は、基本的に不変だと見なされた。これらは、会計公準においても明記されている。貨幣価値が不変というのは、錯覚であり、今日では、貨幣価値は変動することを前提としている。

 経済が実物的単位に依存していた時代は、土地も活用しなければ、価値がなかった。しかし、貨幣価値が実物的単位に貨幣価値が取って代わると土地は、時間的価値が附加され、時間と伴に経済的価値が上昇する。
 キャピタルゲインは、資産の時間的価値の変化によってもたらされる。このような資産としての貨幣価値が成立することによって担保としての資産価値が生じた。担保としての価値を土地が持つことで、乗数効果が派生する。

 景気の動向は、財の総量と通貨の総量によって決まる。通貨が、余剰となって物資が不足すればインフレになり、また、特定の物に集中するとバブルが発生する。
 実物経済は、物資の過不足によって左右される。物資の過不足は、基金や天災、戦争、また、輸送上の障害などによって引き起こされる。しかし、景気は、物資の過不足だけに左右されるわけではなく、通貨の量によっても影響を受ける。

 流通する財の量と通貨の量の量との均衡が保たれていれば景気は安定する。流通する財の量に見合う通貨が流通していれば、景気は均衡するが、流通する財の量にたいし通貨の量が不足すれば、不況となり、逆に過剰になればインフレとなる。通貨の量を調整する仕組みとして金融制度がある。
 通貨の量は、所得と支出によって決まる。

 大量の資金を調達することを可能としたのが、資本である。それ以前に、貨幣制度の確立がある。つまり、交換価値を現物から抽出し、それを象徴化することによって交換価値のみを表象する貨幣を成立させた事に貨幣経済の意義がある。

 財の総量は有限なのに対し、貨幣は、無尽蔵に造れる。それが時として、現物経済から乖離し資金の異常な流通という現象を引き起こす。

 それが、過剰流動性であり。金余り現象である。この様な過剰流動性は、金が金を生むという現象から発生する。過剰流動性が発生すると信用の揺らぎが起こる。貨幣価値の信認が揺らぐのである。貨幣価値の信認が失われ、貨幣価値が不安定になった時、その不安定な状況に便乗して利益を上げようとする者が現れる。

 この様な、バブルの様な貨幣価値の信認の揺らぎは、経済構造の変革に、経済体制の歪みによって生じる場合が多い。
 南海バブルの時は、資本市場が現出したことによって大量の資金が資本市場を介して出回った。大恐慌前夜においても資本市場の急速な拡大が見られた。これらは、実物経済と言うよりも貨幣経済上で引き起こされた貨幣的現象といえる。

 バブルは、貨幣それ自体が商品価値、即ち、貨幣価値を持つことによって派生する。貨幣が商品価値をもつのは、資本市場と金融市場においてである。それ故に、資本市場と金融市場は規律が求められるのである。
 

貨幣の働き

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