使い切れないほどの金を儲け。馬鹿げた使い方をする。それが、経済というのならば、経済とは狂気に過ぎない。

 現代世界は、グローバリズム一辺倒である。全てを地球的規模で解決しようとしている。しかし、環境問題一つとっても実際には、個々の国の利害が政策が絡んで一向に事態は改善される方向に進まない。

 そして、国際市場は、M&Aによる寡占化、金融の自由化、民営化、規制緩和、証券化、会計基準の統一と言った事柄が静かに、また、華々しく進行している。走行している内に、石油をはじめとした原材料の高騰が新たな危機として持ち上がってきた。また、環境も劇的に変化しはじめている。我々は、気がつかない内にまったく異次元の世界に突入しようとしている。

 今、国際的な経済の混乱が金融システム上で起こっている。この事は、重大な問題を示唆している。
 グローバリズムの陰で一部の富裕層によるマネーゲームによって国際市場が賭博場的な様相を呈し、投機的取引に支配されるようなことになると経済は、悲惨な状況に追い込まれてしまう。そんな中で通貨危機や、サブプライム問題などが市場を混乱させている。問題なのは、過剰流動性である。

 水利は、流れによって活かされように、資金の流れよって活かされる。澱みは、資金の流れを停滞させる。過剰な流れは、洪水を引き起こす。

 投機的な動きが一概に悪いとは言えない。投機的な動きが派生するには、それなりの必然性がある。裁定取引により、市場の歪みが是正されるという側面も確かにある。ただ、投機的な動きが過剰となり、投機的な動機によって市場が振り回されるようになると話は別である。市場の歪みを拡大してしまうことさえあるのである。

 金融というのは、本来裏方なのである。それがいつの間にか主役の座に躍り出て。表舞台を引っかき回すようになった。
 かつて、銀行員は、床の間を背負って仕事をしていると言われ。晴れた日に傘を貸し、雨の日に傘を取り上げるとまで言われた。なぜ、金を握る者はここまで暴虐、横暴になれるのか。経済の実質的な担い手は、額に汗して働く者達であるべきなのに。
 本来、金融というのは、資金を万遍なく市場に行き渡らせ。金融は、余剰な資金を貯めているところから不足しているところへ橋渡しをするのが役割なのである。

 これだけ交通や通信が発達した今日、市場が統一される方向に向かうことは必然的かもしれない。しかし、問題は、その方向性である。

 金融は、実業と結びついてはじめて実体を持つ。実業と結びつきのない金融は、虚業である。その虚業が実業の世界を脅かしている。それは、裏付けを持たないマネー自体が独自の価値を形成するからである。

 現代、頻発する世界的な規模の経済危機は、何等かの形で金融問題が絡んで起こっている。つまり、地球的な規模の経済の混乱は、何等かの形で金融が原因となっている事を意味する。この事は、現在の金融の在り方を象徴している。

 何が、バブル崩壊後の日本の金融業界に最大の影響を与えたのか。それは、自己資本規制であることを忘れてはならない。そして、この自己資本規制は、ある意味で、純粋に会計上の指標だと言えるのである。そう考えると何が、一番景気や経済の変動に影響を与えているのかが見えてくるのではないのか。

 金融システムのグローバル化は、世界システムを標準化、平準化し、やがては統合化するための下地を準備する。それは、思想や宗教をも越えてしまう可能性がある。ただ、それが何等かの意図や原則に基づいているかと言えばそれが甚だ疑問なのである。そして、世界の統一的基盤を危うくしているのである。

 更に、国際会計制度が確立されれば、世界経済は、市場の統合に向かうことは火を見るより明らかである。しかも、インターネットの普及は、この動きを加速するであろう。

 経済には、内部経済と外部経済がある。例えば、家計には、家庭の内部経済と外部経済が、企業には、企業の内部経済と外部経済がと言う具合にである。金融にも、金融企業の内部経済と外部経済、そして、国内経済と国外経済という内部経済と外部経済がある。
 国際化に伴い、金融は、国内経済体制と国外経済体制の調和に苦慮している。

 金融制度にも国内の金融の仕組みと国外の仕組み、国家間の金融の仕組みの二つがあり、この内外の仕組みが相互に牽制しながら、双方の仕組みを変革してきた。この二つの仕組みは、相互に連結していながら、明確に違う。それは、それらがよって立つ基盤が違うからである。
 国内の金融の仕組みは、先ずその当該国の法的な基盤の上に立つ。法的な基盤は、それぞれの国の国家理念に基づくものである。つまり、市場制度が国ごとに違うことを意味する。商習慣、慣行も違う。又、金融の仕組みは、当該国の会計制度に依拠する。その上に、金融の基軸となる通貨単位が国によって違う。当然、貨幣制度は国ごとに固有な仕組みとなる。財政の仕組みも国ごとに違う。税制度も違う。財政や税制度は、ただ単に制度が違うというだけでなく、思想も違ってくる。当然、金融政策も国ごとに違ってくる。金利に対する考え方も違う。文化も違う。この様に、金融制度の基盤は、国ごとに違う。この様に、国には国の固有の金融システムがある。この固有の金融システム前提とし、その上で、国家間を繋ぐ国際金融制度が確立されるのである。

 内的経済の自律性を維持するためには、内的経済の範囲と外的経済との境界線を明らかにしておく必要がある。問題は、この範囲と境界線が不確かなものになってきたことである。

 国内経済の状況は、経常収支、資本収支、財政収支の上に現れる。それは、速やかに為替動向に反映され、国内景気に決定的な作用を及ぼす。資本取引の国際化が、これに輪を掛けている。そして、経済政策、なかんずく、金融、金利政策を左右する。

 為替相場が国内景気に重大な影響を与え、産業の消長を左右する国家的大事だとすれば、国家間で、金利や経済政策の整合性をとる必要がでてくる。その為に、超国家的な機関の必要性が高まってきたのである。

 かつては、各国の自律性、独自性、独立性がかなりの部分で認められてきた。金融政策や為替政策、経済政策などは、国家が独自に決定し、政策協定のようなことは、内政干渉であると排除されてきた。しかし、それが、経済のグローバル化に伴って近年崩れはじめているのである。一つは、為替問題である。変動為替制度化では、通貨の価値が、その国の経済、景気に重大な影響を与える。そして、その通貨相場に影響を与えるのが、金利であり、資本取引である。こうなると国外の状況によって国内の経済政策も制約を受けることになる。
 最近では、金融政策や為替政策で各国が足並みをそろえるのは当然のことと見なされるようになってきた。又、税制度もタックスヘブンのような国には、制裁的な処置までとられるようにすらなってきた。それは、国民の価値観、宗教観にまで影響を及ぼすことすらある。

 金融制度や会計制度の統合が進むに従って通貨の問題が浮かび上がってくる。去れは、通貨を通して現れてくる現象の原因は、その背後にある制度によって引き起こされているからである。

 金融システムのグローバル化というのは、経済の仕組みのグローバル化を意味する。グローバル化というのは、地球的規模での拡大を意味する。つまり、金融システムのグローバル化というのは、地球規模での経済の基礎構造、仕組みの統合を意味する。それは、貨幣制度や市場制度、会計制度、税制度、取引の在り方、価値観にも、早晩、及んでいくことになる。
 その好例が金利に対する価値観である。外来、イスラム教に代表される幾つかの宗教では金利を認めていなかった。しかし、何等かの形で金利を容認しないと金融制度は確立されない。その為に、政教分離政策をとる国が増え、また一方においては、何等かの妥協策が講じられるようになった。この様に、金融制度のグローバル化は、人々の暮らしや価値観まで根底から変えてしまう。

 タックスヘブンの問題は、経済制度の国際化を象徴している。

 国際市場の統合や企業の多国籍化により、納税義務をどの国に負うべきかも重大になる。また、税の属人主義か属地主義かも重要な問題として浮上してくる。
 その結果、国際市場の統合は、早晩、税制にも及ぶことになる。少なくとも、国際的租税回避行為の抑制や対抗策としてタックスヘブン対策税制や移転価格税制、租税条約など必要性が高まるであろう。
 この事は、国際金融システムのグローバル化と無縁ではあり得ない。国内法や国内制度も市場のグローバル化の波から逃れられない。そして、これが、世界の経済的インフラストラクチャーの基盤を形成していくことになる。この過程において、積極的に関わった国が、経済における主導権を握ることになる。

 金融機関の機能は、貨幣の流通の管理にある。
 貨幣経済と金融システムというのは、鶏と卵の関係に似ている。貨幣経済の発展とともに金融システムも成長発展してきた。金融制度が、貨幣経済を発展させてきたとも言える。つまり、貨幣が金融の仕組みを生み出したのか、金融機関が貨幣を育んだのか議論が分かれるところである。
 ただ言えることは、今日、貨幣経済と金融システムは、不離不可分の関係にある。貨幣経済と金融システムが不離不可分の関係にあるという事は、金融システムのグローバル化は、貨幣経済のグローバル化を意味し、それは、貨幣の情報化に起因していると言えるのである。貨幣の情報化とは、貨幣の記号化、数値情報化、信号化を意味している。

 現在、貨幣革命が進行中だと言える。貨幣革命は、情報革命と連動している。つまり、情報技術の発展に伴い、通貨の情報化が進んでいる事による。通貨の情報化とは、すなわち、通貨の記号化であり、信号化を意味するが、それは、経済空間から実質的に国境を取り除く事に結びついていく。
 また、貨幣革命は、情報化と伴に、グローバル化とも関係している。それは、通貨の情報化が進むにつれ、経済制度や仕組みが平準化、標準化されていくからである。それが金融制度の国際化と、平準化を促すのである。

 我々が考えている以上に金融制度の歴史は、それほど長くない。(「金融史がわかれば世界がわかる」倉都康行著 ちくま新書)

 インターネット、情報技術、金融工学の発達は、少なくとも、金融の世界から国境を取り除きつつある。貨幣の情報化というのは、通貨が、インターネットの回線上を信号となって瞬時に移動することを意味する。こうなると、通貨の動きを止めることはできない。事実上、インターネット上では、国境が意味をなさないのである。又、インターネットに何らかの規制を掛ければ、今度は、情報革命に乗り遅れることになる。情報を遮断することは、鎖国にも等しい行為なのである。

 このように、情報が、インターネット上を自由に往来すると言う事は、一つの国の情報がたちまちの内に世界中に駆け巡ることを意味する。情報を情報化した通貨に置き換えると、貨幣が引き起こす危機がたちまちの内に世界に伝播することを意味する。グローバル化というのは、危機のグローバル化をも意味するのである。

 天文学的数字の資金が動き回っている。
 金がどこからわき出すのだろうと言う具合に貨幣価値がわき出している。それは、貨幣革命と無縁ではない。貨幣の情報化が進行すると資金は、国境をいとも簡単に越えて移動することが可能となる。そして、ある国に余剰の資金が派生するとその資金は運用先を求めて国家間を浮遊するのである。この様な資金が集積すると莫大な資金となる。
 それが特定の国や地域に集中したかと思うと一斉に逃げ出したりする。投資家の動きは、鰯(いわし)の群によく似ているのである。それが、国際社会を縦横無尽に動き回っていろいろな問題を引き起こすのである。

 また、デリバティブなどの金融工学技術が発達すると資金を何倍にもふくらませることが可能となる。さらに、電子マネーの出現は、それまで、発券銀行に限定されていた通貨の発行が、所謂、発券銀行以外の機関でも可能となる。

 この事は、金融システムのとどまらず、経済の基幹をも揺るがす問題なのである。

 グローバル化は、実際は、アメリカ一極主義だといわれている。アメリカが良いと言えば、アメリカに無条件に従い、アメリカが、悪いと言えば、無批判に改める。アメリカの顔色ばかりをうかがって一国の経営に責任を持てるのか。また、それが日米双方にとって良い事なのか。

 経済というのは、元々ローカルなものである。金融も本来ローカルな機関である。と言うよりも、地球的な規模の金融と国家的な規模の金融、ローカルな金融、地域社会に根ざし、人々の暮らしにきめ細かく対応する金融とは住み分けをすべきなのである。それがグローバル化という名の下に統一されようとしている。金融が統一化されることにより、産業も、例えば、小売企業や飲食業のような本来、地元の個人事業者が担ってきたような産業までもが全国的チェーン、国際的チェーンに統合されつつある。それによって文化の多様性が失われつつある。多くの民族や宗教が共存できなくなり、紛争の絶えない世界になりつつある。

 小さなエリアの金融機関と地球的規模の金融機関とでは、役割や働きに、自転車と大型飛行機ほどの違いがあるのである。それを一律に統合してしまえと言うのは、全ての交通機関を飛行機に統一しろと言うほど無謀なことなのである。

 そして、世界的な金融権力は、門戸開放、金融の自由化、外資導入、資本取引の自由化、税制度の標準化、、各種規制緩和、市場の競争原理の導入、民営化、経済政策の国際協調、為替制度の統合、会計基準の国際会計基準への統合などを要求してくる。

 この様な状況の中にあって、いろいろな模索が世界中で行われているのは、唯一の救いでもある。例えば、グラミン銀行やイスラム金融である。

 グラミン銀行は、金融とは何か。金融本来の役割や機能に関して問題を提起しているように思われる。
 金融機関は、本来、必要としている経営主体、資金が不足している経済主体に資金を供給するのが役割である。それなのに、金融機関は、晴れている時に傘を貸し、雨が降れば、傘を取り上げると言われるのはなぜなのか。

 金融は、本来、弱者の味方であるべきなのである。力はあるが資金がない者に、資金を貸し。また、新興の事業を育成するために、資金を提供するのがその役目である。その為に、金融に携わる者に要求されるのは、事業を見る確かな目、プロの目である。そして、自分達が住む、社会、国家、世界に何が必要とされているのか、その確固とした構想、信念である。
 ホンダや京セラと言った企業が世界へ飛躍していった陰には、それを支えた金融人がいた。
 ところが今や金融そのものが権力者になろうとしている。弱者をいじめ、強者に媚びてばかりいる。
 かつては、どこの街にも質屋があった。今や、それにサラ金が取って代わってしまった。消費者金融の在り方が変わってきたのである。貸す側も借りる側も安易になった。そして、それが破滅的状況を招いているのである。それは金融の世界全体を暗示しているように思えてならない。
 金融にこそ、求められているのは、モラルであり。金融のモラルを維持できるような環境や制度の構築こそが必要なのである。それこそが経済の構造化である。

参考
「金融権力」本山美彦著 岩波新書



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金融システムのグローバル化