場には、空間があり、力があり、法則がある。
 場を形成する空間には、物理学的な空間と、人為的空間がある。物理的空間は、座標軸によって形成されるが、人為的空間は、人間関係によって形成され、その一部は、契約によって成立している。故に、人為的空間には、範囲がある。その範囲は、人為的に作られ、人為的に維持されている。そこに、法の効力がある。
 スポーツは、その典型である。スポーツには、フィールドがあり、ルールがある。そして、そのルールが有効なのは、そのフィールドの内部においてである。ルールを守るのも、守らせるのも人である。神ではない。国家権力である。故に、経済の基本単位は国家である。経済の基本単位を確定するのは、国法が効力を発揮する範囲である。国法の範囲外、即ち、国法が効力を発揮しない区域は、国家間の契約、条約によって法が設定されている。
 飛行機は、日本の上空を飛んでも、中国の上空を飛んでも、アメリカの上空を飛んでも、北朝鮮の上空を飛んでも、物理的法則は不変である。しかし、国法は、違う。日本の上空を飛行する場合は、日本の国法に、中国の上空を飛ぶ時は、中国の国法を、アメリカの上空を飛ぶ時は、アメリカの国法を北朝鮮の上空を飛ぶ場合は、北朝鮮の国法に従わなければならない。さもないと、最悪の場合撃ち落とされる。
 人為的空間では、範囲が問題である。そして、範囲が設定されることにより、場には、内と外とが生じる。この範囲も、人為的に設定される。範囲も物理的空間とは、かぎらない。年齢や国籍によっても違ってくる。
 また、場に働く力によってその場の持つ性格が、形成される。また、場の力の作用によって法則が決まる。ただし、場に働く力は絶対的なものではない。場に働く力を支配するのは、人的な力、政治である。故に、場に作用する法則は、相対的である。また、政治と経済は不可分な関係にある。

 経済の場の基本単位は、国家である。そして、国家の範囲を特定しているのは、法である。貨幣経済下で力を発揮するのは、貨幣である。現行の貨幣経済体制下における貨幣の力の源泉は国家権力である。故に、場を支配する法則は、法と会計である。産業は、経済的場の中で形成される。
 故に、経済的世界は、複数の場と空間によって形成されている複合的空間である。

 産業の場とは、産業を成立させている空間を指して言う。産業の場というのは、市場が有名であるが、市場だけが産業を成立させている場ではない。産業とは、財の生産、流通、分配を目的として、複数の経済主体によって構成される集合体である。故に、産業とは、複数の経済主体によって形成される空間である。また、産業の場は重層的、階層的な空間となり、産業は、構造的な体系になる。
 座標軸は、人、物、金、そして情報であり、これらの座標軸に時間軸が交叉して形成されるv非線形的空間である。また、産業は過程である。

 産業が成立する前提は、社会的分業が確立されていることである。社会的な分業が必要とされることによって仕事が専門化し、独立して職業が派生し、それが発展して産業が形成される。社会的な分業が確立されていなければ、産業は成立しない。

 資本主義体制下の産業の場に働く力は、基本的に貨幣経済、また、市場経済を前提とし、会計制度に依拠している。その経済的構造は、会計原則に準拠した構造となる。

 社会的分業とは、水平的分業と垂直的分業がある。産業は、規模の効率(スケールメリット)を求めて生成発展を繰り返していく。
 規模の効率は、組織の効率でもある。組織の効率は、経済的効率、人的効率、物的効率がある。
 経済的効率というのは、貨幣経済、市場経済では、会計的効率を意味する。逆に言えば、会計的原則に基づかないところでは、即ち、家計や公共事業のような分野では、経済的効率は測定できない。
 何か経済活動を行えばいくばくかの費用が派生する。その費用をどの様に経済と結びつけて測定するのが鍵を握る。つまり、費用対効果の測定であり、それを利潤と結びつけて測定するのが会計制度である。会計制度的原則が適用されない、家計と公共事業は、故に、経済効率を測定することができない。ただ、家計は、現金収入によって制約を受ける。しかし、公共投資は、現金収支からの制約にも限界がある。その為に、財政は必然的に破綻する。
 費用には、変動的な部分と固定的な部分がある。そのうち、経済的、会計的な論理での規模の効率は、固定的費用を圧縮することに求められる。固定にかかる費用を投資という。固定費には、機械・装置・設備と言った物的投資と人件費・教育費と言った人的投資がある。それは、同一業務を集約することによって求められる。
 組織には、人的規模の制約を受ける。人的な規模は、意志の疎通、情報の伝達、分配(評価)の構造による制約がある。組織の人的な制約は、組織の階層性の限界による。人的な制約は、人的業務が、量的な側面より、質的な側面に準拠すること主因である。つまり、労働の質的違いをどう評価するかにある。
 労働の質的な相違(例えば、肉体労働と頭脳労働等。)によっては、職場を同一にすることができない場合すらある。

 職場は、業務の内容によって価値観や行動規範に差が生じる。特に、組織の指導者、管理者の仕事は、直接業務に携わらない分、業務の成果からのみ判断することができず。間接的な評価に頼らざるを得ない。また、一人の人間が管理・統率しうる人員の数には、一定の限界がある。その為に、組織の人的な側面は、階層的にならざるを得ない。また、管理しうる人員の数に限界、制約がある以上、人的組織は、規模が拡大するにつれて、階層が高くなり、それだけ、間接部分、管理部分が増殖する。ある一定の限界を超えると、人的組織効率は、低下するのである。つまり、スケールメリットには人的限界があるのである。
 組織の情報的側面にも、同様の制約、限界がある。

 指導者や管理者の職務は、差配(仕事の割り振りや段取り)支配(方針や規則の取り決め、業績の評価、分け前の分配)指導(教育や訓練)と言ったことである。なかでも、指導者、管理者の仕事の主たる部分は、人的な組織の保全補修、メンテナンスである。有り体に言えば、人間関係のゴタゴタや分け前を決める事である。この様な仕事は、定量的な部分だけではなく、定性的な部分を多く含んでいる。それ故に、指導者として要求される資質には、多分に、人柄や人格、人間性と言った要素がある。つまり、価値観の問題である。客観性と言うが、客観性と公正とは、同一ではない。ただ、実績を数量的に表せば済むというわけにはいかない。選挙で政治家を選ぶ基準にも政策的な面を重視する人、思想的な面を重視する人、人柄を重視する人、実績を重んじる人と千差万別なようにである。結局は、行動規範や価値観の問題に行き着くのである。ところがこういう側面から経済効率はあまり測られない。しかし、行動規範や価値観は、産業効率を考える時、決定的な要素となることが屡々(しばしば)あるのである。

 重要なのは、産業の場に働く共通した価値観や行動規範である。古来日本には、商業道のようなものがあり、それが近代日本経済の礎になっている。日本人は、商売すら修行のように捉える。それが、経済発展に重要な働きを果たしていることが見落とされがちである。

 多くの国では、金儲けというのは、邪悪なことであり、金儲けの神様を祭る国は、中国と日本ぐらいで、そう多くはない。しかも、それを修行のレベルまで高めているのは、日本ぐらいであろう。

 商業道においては、商売に成功する事が、最終的な目的ではない。商売を通じて世の為人の為に、役に立つ事が、求められる。その上、自己の研鑽に結びつかなければならない。こうなると、節約や吝嗇も修行である。この様な文化をもった国民は、少ない。それが、日本経済が発展した重要な要素であることを見落としてはならない。

 金儲けを邪悪な事だと思っている国民からみれば、日本人は、節操のない悪魔のような国民なのだろう。しかし、それは、価値観の問題である。

 経済的価値観というのは、功利主義的、利己主義的なものとは限らない。経済的価値観は、自我が中心であり、自分の利益のみを追求するものと錯覚していると言うより、決めつけている者がいる。しかし、それでは、経済社会は、成り立たないし、成長も発展もしない。経済が発展するには、それなりの文化的土壌がなければならない。
 経済的価値観の根本は、勤勉、勤労、遵法、協同、倹約、堅実、誠実、質素、効率、貯蓄、責任感、信用といった事柄である。利己主義的なものより、むしろ、社会的なもの、公共を重んじる精神である。なぜなら、産業や商業は、人間関係の上に成り立っており、社会秩序が保たれないと成功できない性格のものだからである。
 いい例が金融制度である。金融制度の根本は、為替取引を見れば解るように、信用制度であり、信頼関係が土台になければ成り立たない。利己主義が入り込めば、とたんに崩壊してしまうのである。 

 産業の場には、内的な場と外的な場がある。産業の内的な場とは、特定の産業の内部の場である。外的な場とは、産業を取り囲み産業を成立させている外的な場、環境である。産業は、経済主体の集合体である。それ故に、産業は、構造体でもある。
 産業の内的な場には、調達の場、製造の場、流通の場、集積・保存の場、分配の場、消費の場がある。

 個々の産業には、、個々の産業、固有の価値観がある。早い話、軍隊の行動規範、軍人の価値観は、民間企業の行動規範、サラリーマンの価値観とは、明らかに違う。しかも、産業や企業によっても行動規範は違ってくる。この様に、個々の産業が持つ固有の価値観があり、そして、その上に、個々の企業、事業体の価値観がのり、最後に自己の価値観に到達する。
 個々の企業が持つ行動規範は、企業文化を形成する根元的な力となる。

 産業の場は、この様な個々の企業文化が複合される事によって形成される。つまりは、企業家精神によって創られる。この様な産業の場は必ずしも市場という空間に限定的に表れるものではない。それは、経済のあらゆる局面において発揮される。

 産業の場というのは、基本的に、労働と分配の場である。それ故に、労働と分配を成立させる機能、構造を有するのである。

 労働をどう捉えるのかという点で現代では、貨幣的な価値に何でもかんでも還元してしまう傾向が多分にある。そこには、無償の労働と言う価値が入り込めなくなっている。
 指導者や管理者の仕事というのは、ある意味で、部下や上司の世話をやき、面倒を見ることである。子の世話をするとか面倒を見るという言葉が、最近、死語になりつつある。世話をやき、面倒を見ると言う事は、仕事だと一概に、割り切れない部分がある。なぜならば、世話をやくとか、面倒を見るというのは、他人に言われてすることではなく。自発的なものだからである。この自発的という言葉は、最近、都合よく使われる傾向がある。つまり、自発的というのは、自分がやりたいことをやるという具合にである。相手の自発性を重んじてと言う場合、多分に相手のやる気ばかりを重視する。しかし、本来自発性というのは、自己犠牲的な意味合いで用いられるものである。だから自発性を重んじるのである。好例は、ボランティア活動である。キリスト教やイスラム教のように、奉仕活動を当たり前のように捉える価値観が日本から失われてしまった以上、宗教的、道徳的な価値観から自発性など望みようがないのである。そうなると無償労働の意義がなくなる。無償労働をするのは、何等かの宗教にかぶれているか、物好きに過ぎない。後は、強要されるか、何等かの下心があるからである。こうなると、される方もする方も素直に受け取れなくなるし、苦痛である。今の日本では、無償労働など望みようがないのである。

 では、ボランティア活動をしたいと思っている者はどうするのか。報酬をもらうしかない。報酬をもらえば、とりあえず、自分の行為を受け容れてくれる。結局、金ではないと言いながらも金でしか自分の行為が認められなくなりつつあるのである。貨幣を受け取るという事は、割り切ることである。つまり、自分の行為は、無償ではなく、有償、即ち、代償行為だと認めることである。例えば、自分がボランティアで他人の子供の面倒を見たいと思っても金銭を授受すればそれは無償行為ではなくなるのである。そうなると、それは、単なる職業になってしまう。その対価が、その労働に見合うか、見合わないかは、別の問題である。そこには、お互いが世話をする面倒を見る、世話される、面倒を見られるという人間関係は生じない。当たり前に感謝する気持ちも起こらない。労働に見合う対価をもらって働いているに過ぎないのである。元々、ボランティアは、労働の対価に見合うだけの仕事をするわけではない。金銭に換算できない仕事をしているのである。そうなると、ボランティア的な仕事をする者がいなくなる。結局、ボランティアを強制的なものにならざるをえない。介護などがその典型的なものである。介護を放棄すれば犯罪とせざるをえなくなるのである。

 無償労働というのは、本来的な公の思想がなければ成り立たない。公に尽くす。この場合の、公というのは、単に、国家権力だけを指すわけではない。社会や家族、世界、人類と言った広い意味での公、私と対置すべき対象を意味する。公のために働くというのは、そう言った、自分を成り立たせている自分以外の対象に尽くすという意味である。それが、無償労働の本質である。公とは、何等かの共同体である。無償行為とは、共同体の一員として精神的行為であり、行為を通じて共同体との一体感を得るものである。故に、無償行為は、他人のためでもあり、自分の為にでもあるのである。一つは、他人のために、一つは自分の為である。だから、するものもだから、する者も、される者も感謝する。恩とは、そう言う思想である。それを軍国主義に結びつけるのは、穿(うが)ちすぎである。恩とは感じる者であり、強要する者ではない。
 しかし、そこに貨幣が介在するともはやそれは、無償行為にはならない。代償行為である。代償行為は、市場経済的行為である。共同体としての人間関係を否定したところに成り立つ。無償行為を認めない社会なるが故に、そこにある、相互に感謝するという行為や思想がなくなる。そのことが共同体としての人間関係をも喪失してしまうのである。そうなると市場的人間関係しか成立しなくなる。

 アマチュアリズムの問題もしかりである。最近、高校野球で選手が代償をもらって競技を行っているのではないのかと問題になった。そもそもアマチュアリズムとは何かという問題がある。一度、野球がプロとして成立するとそこには、アマチュアリズムの存在する余地がなくなるのである。本来、高校野球が、地域社会、地域コミュニティーという共同体を代表して戦うものならば、代償行為など存在し得ない。代償行為そのものが、本来の目的に反するからである。しかし、一度、代償行為を認めてしまうのならば、市場原理に委ねざるを得ない。それは、オリンピックが典型である。アマチュアリズムを一つの祭典として考えるのか、それとも、職業として確立された競技として捉えるかの問題であり、それは、主催者の根本的在り方、制度・機構の在り方の問題なのである。

 共同体としての場と市場としての場の均衡こそが、産業を成立させている場の最大の問題である。しかし、この問題は、決して対立的な問題ではない。ただ、人間の意志の問題なのである。現代社会が社会的分業を前提として成り立っている以上、それを成り立たせている人間の倫理、価値観が損なわれれば、いずれにしても、経済社会は成り立たない。その為には、構造的均衡が鍵を握っているのである。

 人や物、金、情報を最終的には、時間的に統一できる場であるかどうかが問題となる。そうなると、ただ貨幣的な価値観だけでは、産業の場は、捉えきれないし、統一することはできないのである。

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