自由も平等も人為的な概念である。人間が作り出した思想である。天然自然にあるものではない。最初から与えられた概念でも自然の法則でもない。人間が定義し、人間が規定し、制度化し、人間が生み出した概念である。だから、自由も平等も人間が守らなければ、維持できる概念ではない。所与の概念でも、自明な概念でもないのである。

 経済人は、合理的には行動しない。多くの人間は、流行(はやり)を追う。人間の大多数は、過去の経験に学び、過去の経験に捕らわれる。
 人間は、その場の雰囲気、力に逆らえずに押し流されてしまうことがある。人間は、自己の経験を絶対視して冷静な判断を失うことがある。人間は、独断と偏見に囚われて物事を色眼鏡で見る。

 なぜならば、分別は、差別をもたらすからである。我々の認識は、対象を区別することによる。しかし、対象自体には、区別は存在しない。区別や分別は、対象を認識し、識別する過程で生じる。つまり、観念であり、意識である。この様な認識は、絶対的なものにはなり得ない。つまり、対象と対象を比較することによってしか成立しないからである。しかも人間は、主観的な動物であり、客観的には成り得ない。つまり、人間の意識や観念は、相対的な物である。しかし、相対的な物は、人間の意識が生み出した観念である。対象そのものは絶対である。これは、対象の存在は、絶対的であるが、対象の認識は相対的にしかできないことを意味する。この事は、経済人が経済的な合理性に立ちえないことを意味する。なぜならば、人間の価値は、相対的であり、絶対的ではなく。差別的な物だからである。つまり、人間の価値観は、環境や状況に支配され、その環境や状況の上でしか成り立たないからである。その為に、人間は、経済的合理性を裏付ける絶対的基準を持ち得ないのである。

 人間が経済的合理性を追求するというのは、錯覚である。往々に、人間は、明らかに損だということを平気でやり遂げてしまう。なぜならば、人間は経済的合理性の根拠を持ち得ないからである。

 市場は、経済人の集合体である。つまり、経済人一人一人の力の総和が市場の力を生み出している。経済人一人一人の力には、方向があり、質があり、量がある。この方向と、質と量が、経済の場の力を成立させているのである。

 経済人が生み出す力の元は、人間の欲望であり、意志であり、理性である。欲望や意志や理性が、社会の場の力の質を決定する。人間の社会、言い換えると経済の場は、欲望の場であり、正義の場であり、倫理の場なのである。これらの力が錯綜しながら場の力は形成されている。

 産業の場に働く力とは、産業を実質的に動かしている力である。それは、石油や電気と言った物理的な力だけを指すわけではない。
 人間の欲望や倫理による力も市場を動かす重要な力なのである。

 市場を動かしているのは、人間の力である。自然の法則でも神の手でもない。市場を動かしているのは、紛れもなく人間である。人間の意志と欲望である。

 市場は、修羅場である。生き馬の目を抜くという格言がある。市場は将に生き馬の目を抜くようなところである。

 今日の産業の下地は、貨幣経済と市場経済によって形成されている。つまり、貨幣の力と市場の力が働いている。
 貨幣の力とは、交換価値の力であり、市場の力とは、需給の力である。交換価値の力とは欲望の力であり、需給の力とは、生産と消費の力である。
 それ故に、産業は、欲望によって左右され、生産と消費の均衡によって保たれている。

 また、経済の単位は、国家を頂点としている。故に、経済の場には、国家の力が働いている。国家の力は、軍事的な力、統治的な力、政治的な力、社会的な力、歴史的な力、物理的力などが働いている。

 国家の経済的整合性は、国家権力によって保たれている。それが、国家の統治力である。
 国内の経済秩序は、国家権力によって維持されている。故に、国家権力の是非を論じる前に、国家権力の機能を論じるべきなのである。通貨の効用は、国家権力によって裏付けられている。商取引によって生じる義務と権利は、国家権力によって保証されている。取引のルールは、国家権力によって確立される。そして、国家を統制する秩序は、統一されていなければならない。国内のある地方で取り交わした契約が別の地方に行ったら通用しなければ、国家の経済制度は維持できない。つまり、経済の原則は、統一されていなければならない。国家の統一性を維持するのは国法である。国法の統一性を保持するためには、政治的に統一されていなければならない。政治的に統一するためには、権力が統一されていなければならない。国家は、政治権力によって統一されている。故に、国家は、経済の基本単位なのである。経済に対する法や原則が分裂しているのは、国家が分裂していることを意味する。つまり、国家内部に権力が複数ある場合は、その個々の権力が及ぶ範囲が実質的な国家であり、経済圏もそれに準ずる。

 あくまでも政治制度、経済制度の基本単位は、国家である。故に、国家間を調停するのは、国家を基本単位とした力関係である。国家間の力関係は、協定や条約によって要約される。それが国際関係の基本である。

 国際社会の場に働く力は、国家間の力の均衡の上に成り立っている。国家間を調停する権力機構は存在せず。結局、最終的には、武力で決着がつけられる。つまり、力が全て、正義は強いものの上にあるのである。それが国際正義の本性である。もし、自国の正義や権利を主張したいならば、国力をつけなければならない。それが厳然たる国際社会の掟である。

 人為的な場の基礎に自然環境の場がある。自然環境の力は、人間社会を支える基礎的な場、基本的な場である。人間社会が自然を保護しているのではない。また、人間が自然を支配しているのでもない。人間社会が自然に保護されているのであり、自然が人間を支配しているのである。
 人間の奢(おご)りや思い上がりが環境問題を引き起こしているのであり。自分達で自分達が生きにくい環境を作っているのに過ぎない。その象徴的な現象が温暖化である。
 どんなに科学が発達したとしても人間は、自然を超える力を持つことはできない。なぜならば、人間の生み出した力の根元は全て自然の力だからである。


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