サッカーがプロ化されると、優秀な人材がサッカーのプロを目指すようになり、競技人口が格段に増える。なぜ、プロ化されることによって優秀な人材が集まり、成長していくのであろうか。それは、インセンティブ(動機付け)の問題である。動機には、いろいろある、例えば、高収入、異性にもてるといった実利的な動機、精神的な動機、人気、名誉といった精神的動機である。しかし、いずれにしろインセンティブというのは、実体的なものである。観念的なものではない。教育の成果も実体的な動機付けによって左右される。それが最も影響を及ばすのが制度である。それも実利的な制度である。そう言う意味で、教育においていくら高邁な理念を並べたところで、教育によって目指すべき社会像、国家像が示せなければ、何の実効力もない。空理空論に過ぎない。そして、その目指すべき社会像や国家像に基づいて教育制度は、構築されなければその効果を発揮することはできない。

 サッカーがプロ化されてサッカー熱は一気に高まった、全国に多くの青少年を対象としたサッカーチームやクラブが創られ、また、高校サッカー全国大会も甲子園並の人気を呼ぶことになる。サッカーは金になり、地位と名誉、人気をえることができるという実利的な動機付けによって教育機関の裾野は広がったのである。サッカーのワールドカップは、愛国心を目覚めさせ。サッカー熱を煽り立てる。かくてサッカーは、産業となった。

 プロ化というインセンティブが、教育の在り方そのものにも影響を与える。制度は、本質をも変えてしまう力がある。重要なことは、実際的な利益である。実際的な利益が、実際的な行動の誘因となるのである。何事も、金が、全てというわけではない。確かに・・・。しかし、だからといって経済的な動機を否定しきるわけにはいかない。

 もともと、受験体制そのものが所謂(いわゆる)サラリーマン社会の登竜門としての動機付けを行ってきた。それが、大企業を中心としたサラリーマン社会を構築することに一役かっている。その為に、自営業は、衰退したのである。プロスポーツは、狭き門であるが、受験体制というのは、全国民的な仕組みである。それが、価値観を構築するための動機付けになっていることは歴然としている。

 優秀な人材が大学の医学部に集まるのも、医者は儲かるし、資格によってある程度一生、生活が保障されているからである。資格が、誰にでも、簡単にとれて、医者が儲からなければ、医学の技術は急速に低下するであろう。その前に、医者のなり手がいなくなる。

 一国の経済力を支えるのは、労働の質である。労働の質を担うのは、国民である。経済力の差は、個々の働き手の労働力の質の差に負うところが大きい。あえて、ここでは、労働者という用語は使わない。労働者という場合、賃金労働者を指して限定的に使う場合が多い。しかし、労働は、賃金労働のみに特定できる性格の者ではない。故に、あえて労働者という言葉はここでは用いない。

 労働の質は、国民の行動規範にかかわる。行動規範を維持するのは、教育である。現在、教育の成果は、試験の結果として測られる。また、現実には、教育の成果が最も現れるのは、受験の結果である。しかも、それは、就職活動を決定的に左右する。就職、および、その後の昇進のコースは、卒業行の格付けによって決まるとすら言える。また、医師に代表される国家資格は、大学に入学した時点で定まる。故に、教育の成果が、受験教科に偏る傾向があるのは、必然的帰結である。つまり、現代、我が国の経済力の基盤は、受験制度にあると言っても過言ではない。

 つまり、受験課目を何にするのか。また、どの様な基準に基づいて、どの様に評価するのかによって教育の成果は、実体的になるのである。いくら差別のない平等の社会を目指すといったところで、選別的、差別的な受験体制の中では、意味のない空論になってしまう。もし、本気で、全てを同等にするというのならば、受験制度どころか、試験制度そのものを廃止する以外にない。

 現代の受験課目が、国民国家の国民としての自覚、民主主義国としての基礎素養、また自由主義経済における経済人、良質の労働力を提供できる知識と技能を習得させる目的、機能を果たしていると言えるであろうか。その点が問題なのである。

 現代の受験課目は、国公立大学と私立とに分類される。国公立大学の一般選抜を受験する人は、センター試験受験が必須である。私立でも多くの大学がセンター試験を利用している。(私立大学の443校、私立短大164校)センター試験の出題教科「国語」「地理・歴史」「公民」「数学」「理科」「外国語」で配点は、「国語」が、200点、「地理・歴史」が、100点、「公民」が、100点「数学」が、100点、「理科」が、100点「外国語」が、筆記200点、リスニング50点である。センター試験では、6教科28科目出題されます。受験生は、このうち最大で6教科9科目まで受けられます。ただ、自分の志望大学が指定している教科・科目だけを受ければいいのである。そして、国公立大学では、5(6)教科7科目を指定している大学がほとんどである。私立大学では、文系は、外国語、国語、地歴又は、公民で一科目。理系では、外国語、数学、理科が標準となります。(「大学受験案内」晶文社)極端な話、数学を全然勉強しなくても私立の経済学を卒業することができます。
 受験教科の中で最も重視されているのは、英語です。つまり、日本の教育制度の目的は、英語に堪能な人材を育成する事に置かれている。しかし、皮肉なことに、日本人は、世界で最も語学の苦手な国民とされている。しかも、日本人は、会話力が特に弱い。為に、実用英語なるものまである。実用でない語学とは何なのであろうか。

日本人・中国人・韓国人のTOEFL平均スコア比較
(1987-89) (1997-98)
日 本 485点 498点 〔+13点〕
中 国 509点 560点 〔+51点〕
韓 国 505点 522点 〔+17点〕
資料:『国際文化学と英語教育』阿部美哉編
国際教育交換協議会日本支部代表部 TOEFL事業部

 戦後教育の成果がここに表れているとしたら、戦後教育とは何だったのか、問い直されることになる。結果や、成果は明らかに表れている。戦後教育で最も重視し、力を傾けた英語がこの体たらくであるのならば、英語教育なんて無意味な事である。反面において、経済が発展する一方で英語の成績がこの程度であったのならば、英語教育以外のところで成果が表れていることを意味する。いずれにしても、教育論争が、教育では無縁のところで繰り広げられていることの証左でもある。

 去年、多くの高校で必修科目の履修漏れが判明した。多くが受験課目ではないか、受験であまり重視されていない課目という理由でである。この事件は、極めて象徴的な事件である。第一に、これほど受験課目というのが教育に多大な影響を与えているという証左である。第二に、受験と言う目的が、教育本来の目的を見失わせているという事実である。受験に関係ない教科は、受験生は勉強したくないし、学校も教えたくない。それが本音である。これが教育現場の実体である。
 こうなると教育の目的とは何かが解らなくなる。

 成人式の前後には、必ずと言っていいほど新成人の素行の悪さが問題になります。礼儀作法がなっていない。常識がない。モラルがない。世間知らずだ。躾がなっていない。行儀が悪い。新成人に対する批判の多くは、この様な社会性の問題です。しかし、これらは、公教育にはない。少なくとも、受験教科ではない。英語や数学では教えられないことである。

 教育は、本来、合目的的なものである。目的が、曖昧な教育ほど危ういものはない。過去において、間違った目的によって国が重大な危機に瀕したとしても、だからといって、目的を持つことそのものが悪いと教育から目的を奪うのは、愚行である。

 良質な労働力を確保維持するためには、教育が明確なビジョンと目標を持つべきなのである。

 教育というと学校教育を想定するが、日本の産業の発展を支えていた教育は、学校だけで行われてきたわけではない。むしろ、社会に出てから、本格的な教育がなされていたといもいえる。
 学校教育が、主として未成年者、就職前の者を対象としているのに対し、社会教育というのは、社会人を対象とした教育であり、より実践的な教育である。職業教育、所業訓練であり、直接的な生活に結びついた教育である。
 職業訓練は、職人の世界では、徒弟制度によってなされてきた。又、戦後の産業界では、企業内教育として系統的に、組織的になされてきた。

 徒弟制度は、技術の継承や技術の質の維持という点では、欠くことにできない制度であったが、戦後、封建的という事で、壊滅的な打撃を受けた。しかし、徒弟制度は、何も日本だけに存在するのではなく。世界各国に同様の仕組みがある。又、それが、職業組合や同業者組合の基礎ともなっており、必ずしも、封建的と決め付けるわけにはいかない。
 確かに、親方と徒弟という関係の中で、近代的な雇用関係と相容れない部分が有りが、技術の継承や質の維持という観点から見て、徒弟制度を近代的な雇用関係に則って再構築する事も、今後、必要になってくると考えられる。

 徒弟制度と並んで、企業内訓練の重要性も高まってきた。

 戦後の日本の高度成長の下地を作ったものの中に、産業訓練がある。特に、MTP(管理研修プログラム)の果たした役割は大きい。 つまり、近代的合理主義経営の基礎、基本を確立するための教育訓練計画である。
 この教育訓練によって指示、命令の出し方、報告、連絡の仕方、文章の書き方、並びに、手続と言った組織運営の基本的技術を習得させたのである。

 この様な企業内訓練や職業訓練は、教育という観点からは、不当に低く評価されてきた。しかし、実践的教育、訓練だけで、むしろ、学校教育よりも進歩発展しているとも考えられる。ところが、産業訓練や職業教育を正規の教育とは、見なさない傾向が教育界にはある。
 これも、産業や職業を不当に低く見なす、蔑視する風潮の現れだと言える。しかし、職業や仕事は生活に直結している行為である。故に、その為の教育は、生きる為の実践教育とも言えるものであり、本来、重要視すべき教育である。故に、職業訓練を蔑視するが如き点は、改められるべきである。

 社会に出てからは、職場での教育が中心になる。職場での教育は、逆に極端に、実利実用を中心とした教育となる。特に、企業にはいると企業内教育が核となる。学校教育が、実用を度外視しているために、実務、実用を基本からたたき込む必要が生じるからである。企業内教育は、OJTとOFFJTとがある。OJTとは、職場内教育を指し。仕事を通じて教育をしていく事を意味する。OFFJTは、職場外教育をいう。即ち、職場から離れて集団研修をするような教育をいうのである。これらの教育を通じて、組織行動や専門知識の習得を行う。
 また、企業理念や創業者精神が教え込まれる。理念を共有することで、集団の価値観の統一を計り、組織への帰属意識を高め、一つの目的に対する仕事の凝集力を高める効果がある。

 自分が、板前になろうと志したら、板場で修業した一流の板前の下で料理の修業をしようと思うが、一流大学を卒業しているとしても料理を作った経験もない者の下で修業をする気にはなれない。なのに、今の社会では、猫も杓子も大学を目指している。それでいて、大学で履修した教科が、実際の社会では何の役にも立たないことを多くの人は知っている。価値の多様化と言うが実際は、価値が単一化(モノ化)していて、狭い範囲の選択肢しか与えられていないのが、実情である。一つの座標軸でしか仕事を捉えられていないのである。社会は多様である。学歴という一つの座標軸でしか見れない、しかも、限られた教科でしかない。そうなるととたんに社会も、経済も硬直化する。

 かつて、日本の職業教育は、徒弟制度が基本であった。徒弟制度では、技術や知識のみではなく。仕来りや礼儀作法も教え込んだ。むろん、それは封建的な考え方に基づいた仕来りや礼儀作法であった。しかし、教育の目的は、現代社会よりも明確であり、現実的なものであった。それが日本に良質な労働力をもたらしたのである。民主主義社会となった今日、健全な国民国家における国民としての素養や民主主義の基本を踏まえつつ、国家目的に合致した職業教育を社会的に施すべきなのである。かつての教育が、封建的だったからと言って、体制が民主主義に代わった今日においても、反体制的で、反社会的な教育をするのはお門違いである。


備考
必修漏れ、24年前から 03年度の総合学習新設で拍車(2006年12月13日17時33分朝日新聞)
 高校の必修科目の履修漏れは、遅くとも82年度から続いていたことが13日、文部科学省の調査でわかった。漏れを認めた高校のうち4割以上が、情報や「総合的な学習の時間」(総合学習)が新設された03年度に、一斉に「偽装」を始めていたという。
 調査対象は、「今年度、履修漏れがあった」と申告した46都道府県(熊本県を除く)の公立と私立の計663校。最も古いのは、82年度からの私立。世界史が必修となった94年度以前には計11校あり、いずれも私立だった。
 94年度以降は公立でも始まり、公私合わせて毎年度、10〜46校の割合で増えた。特に、指導要領の改訂で情報や総合学習が新設された03年度には、公立170校と私立123校が始めたと回答している。
 履修したように見せかけた「偽装」を教科別に分類すると、地理歴史が公私合わせて460校とトップ。以下、情報247校、公民106校、理科76校、家庭74校と続く。
 

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