環境問題を論じるとき、気を付けなければならないのは、是非善悪の価値基準を不用意に持ち込むことである。
 温暖化問題でも、温暖化は悪いという結論ありきであるが、温暖化のどこが、どうして悪いのかという議論がなく。ただ、温暖化は悪いと結論付けているようなところが見受けられる。また、悪いとなると何でもかんでも温暖化に結び付けてしまう傾向もある。しかし、対策を考えるにしても、先ず、どこがどうして悪いのかを明らかにする必要がある。この様な問題は、先入観や偏見が最も危険なのである。
 また、自然保護と環境保護とは違うと言う事も、忘れてはならない。環境というのは、あくまでも人間にとっての環境である。人間にとって住み良い環境をいかに維持し、管理していくかが環境保護の考え方である。私は、自然は保護できる状態ではないと考える。人間が、自然を保護するのでなく、自然が人間を保護しているのである。人間が生存できない環境に陥れば、人間は滅亡するであろうが、人間が滅亡したからと言って自然がなくなるわけではないのである。自然を保護するという考え方自体が人間の思い上がりなのである。ただ、自分が住みにくい環境を作っているだけなのである。
 環境というのは、自分達で創り出す状況であり、それを責任を持って制御すべきなのである。その意味では、平和もまた、環境なのである。
 その為には、どの様な環境が自分達に適しているかを明らかにする作業が必要である。その上でその環境をどの様な仕組みで維持し、制御するかを決め、設計し、組み立てるのである。

 人間が作り出した環境と自然とを混同している者も多くいる。時には、故意に混同しているのではと思われることさえある。スポーツのルールを知らずに、スポーツを観察しても何等かの法則性は見いだせるだろう。だからといって、それを自然の法則と同一視するのは、お門違いである。スポーツは、人的なルールに基づいてプレーしているのである。それを自然状態と同等に見るのは明らかに、おかしい。

 産業や経済を考えていく上で、自然環境は、重要な要素の一つである。それでありながら、自然環境と産業を結びつけて考える発想が乏しい。ただ、近年、温暖化現象がマスメディアに取り上げられアメリカのゴア元副大統領が積極的に環境問題を取り上げることによって衆目を集めるようになってきた。しかし、自然環境というのは、実は、古くて新しい問題なのである。人間の開拓は、常に一方において環境破壊を伴っていたのである。

 高度成長の折り、日本は、水俣病やイタイイタイ病、四日市喘息問題と公害問題に苦しまされてきた。河川は、どす黒く汚染され、かつての美しい景観は失われ、全ての生物が死滅してしまった。それが高度成長の実体である。確かに、日本人は、物質的な豊かさを手に入れることができた。しかし、その一方で多くの物を失ってきたのである。
 朱鷺(とき)は、その象徴である。ただ、我々は、自然保護や環境保護を情緒的に捉えがちであるが、より重要なことは、実利的な面においても、環境保護は必要不可欠なのである。無原則、無計画な開発は、悲惨な結果しか残さないのである。
 この問題も無原則、無規制に市場原理にまかせていては維持できないのである。

 美しい景観を残したいから、環境保護をするのではない。環境保護というのは、自分達の住む空間を快適に維持することでもあるのである。
 我々が生存できる環境というのは、限られているのである。水や大気、温度が適度に保たれていない限り人類は生存できない。しかも、人間が活用できる資源にも限りがある。この有限な空間の中で人間は、生きていることを忘れてはならない。
 人類が、現在の生活を維持するためには、閉ざされた空間の中で、有限な資源を有効活用するしかないのである。

 乱獲や乱開発が招くのは悲劇的状況でしかない。
 環境汚染は、環境汚染をしている企業にとって致命的なダメージを与える。それは、環境汚染や公害の発生源とされただけで社会的制裁を受けるからである。また、その補償に莫大な費用を費やさなければならないからである。大気汚染にせよ、海洋汚染にせよ、一度汚染されてしまうと取り返しが付かないことになる場合が多い。失われた環境は、回復できない。温暖化が好例である。

 半導体や清酒は、水が命である。すんだ綺麗な水が大量になければならない。また、清浄な空気を必要とする産業もある。また、l良港に恵まれていることが重要な要素となる産業もある。こうなると自然環境も資源なのである。

 温暖化問題は、人類に自然環境の重要性を目覚めさせた。しかし、それは自然保護という観点においてである。だが、本来、自然は保護される対象ではない。自然に保護されているのは、人間なのである。我々は、市場価値のない物を資源として認めないが、市場価値がなくても重要な資源はいくらでもある。良い例が空気や水である。空気や水がなければ人間は片時も生きられない。ところが、市場価値がなければ資源とは言わない。それでも水は、市場で売買される物もある。故に、資源として認知されもするが、空気は、資源としては見なされない。
 排ガス取引は、環境が取引材料になったことを意味する。

 住宅産業においては、景観や水、インフラと言った環境衛生は、商品価値の一部を形成している。産業にとって自然環境は、物理的空間の土台になる部分なのである。つまり、個々の商品を問題にするだけでなく。その商品を生み出す過程や取り引きされる、また、置かれている環境全体から経済の在り方を構想する必要があるのである。

 一方で飽食の時代と言われ、日本国民全てが、かつての王侯貴族の生活よりも豪華、贅沢な生活をしている。その一方で、貧困と飢餓蔓延しつつある。貧困や飢餓が蔓延しつつある地域で人口爆発が起こっているのである。

 自然には境界線がない。チェルノブイリで起こった原発事故は、瞬く間の内に近隣諸国に放射能汚染をもたらした。海にも境界線はないのである。河川も然りである。川上の国の汚染は、川下の国に被害をもたらす。海洋資源は、人類共有の資源である。温暖化による被害は、人類等しく被ることになる。一度絶滅した種は、甦らす事ができないのである。

 環境問題とは何か、それは、最も人間的な問題なのである。つまり、人間の在り方や生き方、道徳観の問題なのである。

 環境問題は、産業にとってまた、違う意味でも重要である。綺麗な水を大量に必要とする産業にとって水源は欠かせないものである。
 海外に物を輸出する産業にとって天然の良港に近いことは、必須のことであった。自然環境が産業の有り様を決めてきたのである。
 自然環境を破壊することは、産業にとっても自分の首を絞めるようなものである。

 今日、交通機関や通信機関の発達に伴い。幾分必須条件は違ってきた。しかし、自然環境の重要性が薄れたわけではない。
 日本は、自然環境に恵まれてきたのである。しかし、それに甘えて、自然環境を破壊し続けていれば、国力が衰えるのは時間の問題である。自然環境は、一度失えば取り返しがつかない。そのことを肝に銘じておく必要がある。

 大量生産、大量消費というのは、環境や資源には、最もよくないのである。ある意味で不経済なのである。我々が子供の頃に言われた経済的というのは、節約であり、倹約である。祖母が何でも「もったいない。もったいない。」と大切に何でも使っていたことを思い出す。一度、買った物は、何度も修理、修繕して長い間使ったものである。中には、親子代々というような物まであった。現代は、それこそ、それが不経済だと言われる。何でも使い捨てである。それは、大量生産、大量消費経済だからである。

 大量生産、大量消費型経済から脱却するためには、コミュニティを重視した経済に変えていく必要がある。つまり、構造的な経済を構築する事である。

 今後、人間は、自然と共存していくことを考えなければならない。それは、競争の原理にまかせ、自然に調和するのを待てばいいという発想では実現不可能なのである。自然湯環境を維持するというのは、人間が自らも意志で行うことであり、その為には、一定の制度や規制が必要なのである。漫然としていたら、自然は、人間を保護してくれはしない。何せ、自然は、人類が滅亡しようとしまいと関係ないのであるから。環境を維持するのは人間が自分達の意志で行わなければならないことなのである。そして、環境を保護するのは仕組みであり、環境保護は、構造的に行わなければならないことなのである。


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