市場が確率統計的な世界だった事は、世界史上、一度もない。市場は常に修羅場であった。市場は戦場なのである。つまり、戦いの場であり、生存闘争の場であった。政治も経済も本来、生臭い世界、それも、血生臭い世界なのである。だからこそ、金の話をする事は嫌がられたし、品のない話、賤しいこととされてきたのである。
 だからといって経済学まで、高尚になることはない。経済も、政治も現実なのである。

 国際市場は、現在でも闘争の場、戦場である。大国の都合によって揺れ動いている。特に、アメリカは、一大生産拠点であると共に、一大消費地でもある。大量生産、大量消費にあって設備の稼働率を上げるためには、一大消費地であるアメリカ、そして、近年では、中国やロシアの動きは、世界経済に決定的な影響力を及ぼしているのである。
 国際環境を考える時、自国と市場規模や生産力と他国の市場規模と生産力を比較検討する必要がある。

 政略、軍略と言う言葉はよく聞く。しかし、経略という言葉はあまり聞かない。政治や軍事を尊び経済を卑しむ風潮が、こんな所にも現れている。政治や軍事に戦略があるように、経済にも戦略が必要であり、また、現にあったのである。人々は、経済的理由で政治や軍事が左右されることを好まないが、実際の世界において、社会を動かしているのは、経済である。それ故に、経済戦略は、政治戦略や軍事戦略に劣らないほど重要なのである。否、むしろ根本的な戦略である。
 なぜならば、経済とは、日々の営みに必要な財の生産と分配、消費に関わる過程を指して言うのだからである。つまり、国民生活に直結した問題が、経済だからである。戦争の多くの原因は、経済的自由に発する。食べることができなくなるから、生きていくことができなくなるから、生活が困窮するから人々は武器を取るのである。
 生活物資には限りがある。生きていく上に必要なものは無尽蔵にあるわけではない。それでいて、なければ生きていけないのである。しかも、その産地は、偏っている上、地理的条件に左右されるのである。故に、国は、人々の生活を維持し、守るためには、戦略的にならざるをえない。過去に起こった戦争の多くは、経済的な事柄が原因であり、その根本に経略が存在していたのは衆知の事実である。経済のために、もっと穿(うが)った言い方をすれば、金のために多くの国民や、又、近隣諸国の人民を犠牲にしたとは言いたくないし、認めたくないから経略とは言わないだけである。しかし、それが冷厳たる事実である。逆に言えば、それが経済的動機だというならば、平和に解決かる手段も残されているはずである。
 経済が原因だからこそ、経済の問題を軽んじている限り、問題は解決できないのである。経済的問題こそ直視しなければならない。
 国際紛争の直接的、そして、決定的原因は、経済にあるのである。軍略は、政略の延長線上に政略は、経略の延長線上にある。だからこそ、明確な経済戦略、経略が必要なのである。

 国際環境は、絶え間なく変化している。その変化は、国家間、あるいは、国際勢力間の力関係に依るのである。
 よく国際的陰謀の話がでてくるが、それは当然の話であって、善良な人間の慈善事業のような考え方をしていたら、政治や経済の実体は見えてこない。現実の国際関係は、食うか食われるかの生存競争の場なのである。

 よく普遍主義者や平和主義者の中には、国際間の信義を信じていれば、平和は続くと信じている者がいる。これは、一種の信仰であり、思想である。宗教や理想としてならば、通用するが、国際関係の中では、かえって危険思想である。
 それは、国民の善良を信じて、国家警察が非武装化するのに相当する。我々は、警官を怖れるあまりに、警官の武装を解除することを望むであろうか。警官の武装を解除すれば、犯罪はなくなり、無法者はいなくなると、本気で信じているであろうか。もし仮に、それを信じて警官から武器を取り上げたら、国家の治安と国民の安寧は維持できるであろうか。それを理想主義者と国民は、称賛するであろうか。むしろ危険思想としてみなすのではないのか。

 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」(日本国憲法 前文)

 これは、日本国憲法前文である。これを制定した者達にとってこれは理想かもしれない。しかし、仮に国際社会の現実を反映したものでないとしたら、これは、日本国民にとって理想でも何でもない。ただ、日本国民を危険にさらしている危険思想である。

 重要なことは、理想や理念ではなく。現実である。国家も、政治も、経済も現実なのである。戦前、世界制覇を夢想して、国家を敗戦の憂き目にあわせたのも、戦後、観念によって国民を危険にさらしているのも、結局、同根な発想なのである。要は、現実を直視する勇気がないだけなのである。そして、現実を見る勇気がないから、国民を戦争に巻き込み、危難から回避させることができないのである。

 国際環境の枠組みは、それほど速い速度で変わっているわけではない。長期的な展望に立ってば見えてくるものである。
 国際的な枠組みは、それほど速いスピードで変化しているわけではないが、表面に現れてくる変化の裏では、激しい動きがあり、それが時として表面の現れ国際的な枠組みまで変えてしまうのである。

 一国の産業は、国際環境によって常に翻弄(ほんろう)されている。これは、厳然たる事実である。国際情勢や国際環境、その中における自国の立場や力を抜きにして、経済の話はできない。
 政治や経済というのは、国内の事情だけでは解決できない問題なのである。それをあたかも、経済を内国的問題であるかのごとく思わせようとしているのは、悪い冗談か、ある種の陰謀ではないのかと疑りたくなる。

 金利にしろ、通貨にしろ、国際関係の中における力関係によって決まるのである。物理学的力学の様な法則で決まるわけではない。もと、生臭い力関係で決まるのである。だからこそ、戦争の火種にもなる。

 万国が一律の経済環境にあるわけではない。また、同じ経済政策で、同じ効果が得られるわけではない。国際間には、地域差や環境の違いが歴然としてあるのである。石油でも、持たざる国と産油国では力関係が違いすぎるのである。
 平等と言うが、自ずと格差があり、その格差を無視したところには、平等な関係などあり得ないのである。

 格差は、個人の力ではいかんともしにくい問題なのである。
 仮に、格差をなくすことができるとしたら、とっくの昔に実現したであろう。この格差がなくならないから問題なのである。
 しかし、反面、格差があるから経済も社会も成り立っているのである。

 産業の空洞化。通貨の暴騰や下落。貿易摩擦。これらは、否応の問題ではない。現実なのである。認めようが、認めまいが、現実は、これらの関係によって支配されている。通貨が、下落すれば、輸入業界は、痛手をくらうのである。逆に、輸出業界は、潤うのである。賃金の格差が、国際競争力を左右するのである。
 しかも、国内価格というのは、硬直的であるのに対して、為替は流動的である。いくら国内情勢を優先しようとしても国際的変動の方が急激なのである。
 そうなると、国際的変動から、いかに国内の産業を護ることができるのか、それが重要な課題となるのである。
 

国際環境

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