現在、経済を構成する主立(おもだ)った場、市場は、国際化している。明治維新以前、日本は、鎖国していた。鎖国をしている場合、一部の例外を除いて基本的に、市場は、国内に限られていた。現代社会においては、一国内だけで国内の需要を充足することは考えられない。基本的に不可能である。

 大体、我が国は、食糧の自給率は、平成十八年度、カロリーベースで39%、エネルギーの自給率にいたっては、4%しかないのである。自由貿易体制が維持されなければ、日本は、一日たりとも立ちいかないのである。
 では、無条件に自由貿易にして良いかというとそう言うわけにはいかない。為替の変動が激しく、その時その時の為替の変動によって国内の産業は好、不況を分けている。いわば、国際市場は、外洋であり、大きな波が打ち寄せているのである。ある程度の障壁、堤防を築いて、波をやわらげないと国内の産業は、壊滅的な打撃を受けてしまう。
 また、放置し続ければ、国内の自給率は、下がり続けてしまう。
 また、それぞれの国には、それぞれの国の事情があり、一概に、貿易障壁をなくせばいいと言うわけにはいかない。先に述べた自給率などは、その好例であり、自給率の低下は、両刃の刃なのである。自給率が低下すれば、国際間の交易を進めなければならない。しかし、国際間の交易を進めれば、更に自給率は下がるという具合である。そして、自給率が、下がれば下がるほど海外に対する依存度は高まり、国際情勢の変化に脆弱になるのである。

 国際分業が進んでいると言っても、それが、何等かの構想や理念に基づくものではなく。その時代、時代の国家間の力関係によって決められている。少なくとも対等な立場にあるわけではない。つまり、国家間の綱引きや闘争の結果にすぎない。

 国際分業の美名の下に国際間の格差が広がり、それが差別的なものになりつつある。それを端的に現しているのが南北問題である。そして、グローバル化は、国際間の格差を国内にも持ち込み、国内の差別を増長する傾向がある。

 差別というのは、垂直的なものだけではない。階級差別は、垂直的な差別であるが、国際間には水平的な差別が存在し、その差別は、人種、民族、言語、思想、宗教と言ったあらゆる要素を含んでいるのである。この様な差別は、国際社会の方が露骨に現れる。それ故に、国際分業と一口に言っても一筋縄にはいかないのである。結局、国際分業も支配、被支配・隷属の関係が生まれてしまうのである。そして、支配した側は、楽して儲けるように、隷属した側は、厳しい環境に置かれるのである。

 貧困は格差が生み出す問題である。なぜならば、貧困は、分配の問題の結果として現れる現象だからである。つまり、貧困は、相対的な概念であり、富む者がいるから、貧困が生じるのである。貧しい者の対極には、必ず富む者がいる。それが、国家間で生じるか、国内で生じるかの問題である。ならば、一律同等にしてしまうば、貧困はなくなるのかと言えば、それは、貧困という概念がなくなるだけで、物が不足すれば、全体が飢えるだけなのである。

 自由貿易が成り立つ前提は、物資が豊富である状況である。物資が不足すれば、必然的に分配上に格差が生じる。つまり、物資が行き渡らない部分が生じるのである。現代自由貿易が成立している背景には、生産革命があることを忘れてはならない。
 しかも同時に人口爆発も起こり、環境破壊も進行しているという現実である。食糧不足が現実となった時、自由貿易体制が維持できるか、どうかは、甚だ怪しいのである。無尽蔵に資源はあるわけではない。基本的に資源は有限なのである。

 もし、現代の石油のように、その物資が国家を維持していく上で不可欠な物資だとしたら、その物資の生産国を何等かの形で支配国にしたいという欲求を常に持つであろう。それが強国の覇権主義の直接的な動機だとしても何の不思議もない。

 石油製品は、連産品である。つまり、ガソリンが利益が良いからガソリンだけを作ろうというわけにはいかない。石油製品には、製品ごとに特率というものがある。そうなると、国内の重要構造と供給構造が合致していればいいが、バラツキやズレがあると、軽油は余るけれどガソリンが足りないなどという事態が起こる。それを国内だけで均衡しようとしても需要構造と供給構造に歪みがある以上、是正することはできない。しかもその歪みは、価格構造の歪みにもなる。
 ガソリンが余っている国からガソリンを輸入するか、軽油が不足している国に輸出して国内の需給を均衡させる以外にない。(「スタバではグランデを買え!」吉本佳生著 ダイヤモンド社)

 貿易に対する考え方は、基本的に保護主義と自由貿易主義しかない。
 保護貿易には、関税のような税制度や補助金を使った貨幣的な政策と数量規制、セーフガードのように直接的な規制とがある。
 報復関税の典型がアメリカのスパー301条である。

 保護貿易主義が高じると経済のブロック化が始まる。この様な経済のブロック化は、極端な財の偏りを生みやすく。戦争の原因となりかねない。

 経済の本質は、労働と分配であることを忘れてはならない。故に、単純に生産と消費や需要と供給の問題に経済問題を特化、集約することはできない。貿易政策を間違うと産業の空洞化を招きかねない。それは、貿易の本質が国際的分配を意味しているからである。
 交易の問題は、原価構成、原価構造による。特に、原価に含まれる人件費、労働費の比率が重要なのである。原価に含まれる人件費、労働費、更に、利益は、分配の比率を現している。その分配の比率は、即、家計を通じて経済に反映されるのである。
 そして、それは、各国の生活水準が背景にある。生活水準が上がれば、必然的に分配比率が高まり、相対的に、原材料費の比率が下がる。それが意味するのは、国際競争力の低下である。つまり、生活水準の上昇は、国際競争力を犠牲にすることによって成立する。

 この様に、交易の問題は、内部経済と外部経済の均衡の問題に還元されるのである。内部経済と外部経済の水準の間に格差があれば、それを調節するような形で、為替変動や資本の移動が起こる。それは、裁定取引のようなものである。そして、長期的には国内の経済水準も国外の経済水準も一定の水準で均衡する。それが購買力平価である。

 我々は、通貨を価値そのもの、絶対的な価値だと錯覚しがちだが、通貨は、交換価値を測る尺度、相対的な尺度だと言う事を忘れてはならない。通貨は、日々、変動しているのである。この変動によって、通常は、国際市場の荒波を緩和している。しかし、時として、例えば、1997年のアジア通貨危機の時のように、波を増幅して津波のように国内の産業金融制度に壊滅的打撃を与えることがある。(「1997年−世界を変えた金融危機」竹森俊平著 朝日新書)

 その他にも国家間には目に見えない障壁がある。
 例えば、国家間の制度的、特に、法制度な違い。商慣習の違い。各種の基準、規格の違い。検疫、防疫の必要性。考え方の違い。体制の違いなどである。

 現在、ブラジル、ロシア、中国、インドが驚異的な成長を続けている。かつては、アジアの国々の成長が話題になった。しかし、1997年アジア危機以来、アジアの国々の成長は、停滞気味である。それに対し、日本は、成熟した市場になりつつある。それが高度成長時代のような景気の持続を難しくしている。
 また、国際市場は、単一な市場で構成されているわけではない。各国の内部市場の状況も違うし、また、国際市場そのものもいろいろな段階の産業や企業が混在しているのである。各国間の市場の状況の差は、必然的に国際市場の水準の均衡に影響を与える。
 経済の本質は、結局、労働と分配である。それは、原価構成として現れる。分配の適正は、物価の水準と所得の水準の釣り合いにある。そして。物価は、内部市場において調達できる物と外部市場から調達しなければならない物との均衡によって形成される。
 国内の市場で衣食住と言った生活必需品が賄える場合は、生活水準そのものは一定に保たれる。しかし、家電製品や自動車などが普及し、それらが必需品になってくると物価の水準が変化してくる。この様に、内部経済と外部経済の均衡には、その時代その時代の生活様式が影響してくる。そして、生活様式の変化に応じて、消費構造や所得構造が変化する。
 現在成長期にあたる国の人件費の水準は、その国の生活様式の水準によって低く抑えられているが、生活水準の上昇に応じて所得水準、原価に占める労働費の比率も上昇し、やがて、成熟期にある市場と同じ水準にまで至ることが予測される。
 この様に、内部経済と外部経済、また、内部経済の中でも裁定機能が働き、市場は均衡していくことになる。それは、熱力学においてエントロピーが増大し、均衡した状態に向かうのに似ている。

 金融システムの国際化は、この様な均衡状態に向かうのを促す作用がある。同時に、内部経済と外部経済、各国間の経済を結び付けるのが国際決済制度であり。また、インターネットに代表される情報技術の発展は、各国間の市場の状況の差を瞬時に調整する機能も持たせるようになた。
 それは同時に、一つの国の市場の影響を地峡的規模に伝播させることにもなる。それを促しているのが、国際市場における資金の動きである。
 
 知的財産の問題がある。知的財産保護を遵守しない国の問題がある。この様な、知的財産や所有権に対する考え方の差は、自由な交易の妨げ要因である。

 また、食品の安全性や品質の保証も重要な課題となる。例えば、牛肉問題である。また、農薬問題もしかりである。製品に対する規制の在り方の違いは、貿易障壁と言うだけでなく、外交問題にも発展しかねないデリケートな問題である。同様の財には、情報のような最先端技術や軍事技術などがある。

 法的問題には、PL法の問題が典型である。一体、どこの国の企業が損害賠償をすべきなのか。流通経路が複雑になり、製造工程が多国間にわたると責任の所在が不確かなものになり、また、原因の特定も難しくなる。

 日本とアメリカでは、法に対する考え方が違う。また、考え方のみならず、裁判制度も違う。第一に、日本は制定法の国であり、アメリカは、コモン・ローの国でもあります。第二に、アメリカでは陪審員制度が機能しているが、日本は、裁判員制度が始まろうとしていますが、これも、陪審員制度とは異質な制度である。また、ロースクールに見られるようにアメリカの教育の仕組みも資格に対する基準も違う。報酬制度も違う。この様な差は、目に見えない形で貿易障壁になる。

 税の在り方、根本思想も然りである。属人主義をとるか、属地主義をとるか、相続税の問題でも税を課税対象が相続人なのか、被相続人なのかの違いが、租税回避行為に繋がる危険性がある。同様の問題は、タックスヘブン問題にもいえる。

 我々は、海外旅行に行く時、思わないところで問題にぶつかることがある。例えば、電力の差や機械の規格の差である。日本では、百ボルトが標準的規格であるが、二百ボルトが基準の国もある。また、コンセントの形状は国によって違う。その為に、持っていった電気用品が使えないという事がままある。使えないなら良いが、事故や故障にでもあったら大変である。

 これからは、世界の標準規格を征することが重要になる。それは、企業戦略であると同時に国家戦略ともなる。インターネットの国際規格やマイクロソフト社のウィンドウズの例を見ても明らかなように世界規格を支配できれば、その企業や国家は、圧倒的に優位な位置を占めることが可能となる。

 この様に、貿易体制と一口に言っても多岐にわたる問題を克服していかなければならないのである。

 更に、国際市場を複雑にしているのは、多国間にわたって事業を展開している多国籍企業の存在である。多国籍業は、国家間にある格差、制度上の違いを巧みに利用して利益や収入の最大化を計っている。
 多国籍企業の目的と国家の目的は必ずしも合致していない。1997年のアジア危機の際も企業は、企業の論理で行動する。その為に、国家経済が破綻しても、また、国民が塗炭の苦しみをしたとしても基本的には、企業の行動を抑止することはできない。国家経済や国民を護るのは、国家の役割なのである。
 戦争の際も、多国籍企業が敵味方双方に武器や物資を供与することはままあるのである。それを悪だと決め付けるのは、国家の論理に過ぎない。国家だって多国籍企業を利用しているのである。

 日本の未来にとって深刻なのは、これまで日本に日本にとって不可欠な食料や資源を輸出してくれてた国が、自国の経済発展によって自国の国内需要を賄うために輸出余力を失い、輸入国に転じつつあるという事である。また、その一方で、日本が必要な物資を輸入するために必要な外貨を稼ぎ出していた国内の産業が、生産拠点の転移によって空洞化しつつあるという事である。つまり、輸入したくとも物も原資も枯渇しつつあるという事である。それでありながら、食料もエネルギーも自給率が低下し続けているという実体である。これは、構造的な問題でもある。(「世界一身近な世界経済入門」角倉貴史著 幻冬社)

 一国家の都合だけで、国際市場の荒波を乗り切ることはできない。それは、国際経済が国家という枠組みを越えたところまで発展したことを意味している。そして、その国際市場の動向によって国内の経済が支配されようとしているのである。
 国家が、国家としての自律性を保つためには、国内の経済構造を国外の経済環境に柔軟に対応できる構造に組み替えていく必要性がある。その為には、国家経済の内部構造と外部構造を解明する必要があるのである。

 太平洋戦争において日本は、世界の大国を相手にして敗れた。そして、その敗戦から産業を再建し、今日の繁栄の礎(いしずえ)を築いた。日本に開戦を決意させた直接的動機は、日本に対する経済封鎖である。敗戦直後は、物不足から乞食(こじき)のような生活をし、餓死者まで出したのである。何もない時代を協力し、生き延びてきたのである。そして、今は、物は溢れ、飽食の時代と言われるようになった。しかし、考えてみよう。一見、物に溢れて見える日本経済も食糧の自給率一つとってもあの敗戦直後の物不足の時代よりも低いのである。それが何を意味するのか。それを自由貿易主義の恩恵ととるか、先人達の賜物としてみるか、議論の分かれるところである。ただ言えることは、金があるから、今の日本の繁栄があるといえることである。何が前提で今日の我々の生活が成り立っているのか。その前提が崩れた瞬間、我々の生活は成り立たなくなるのである。それを忘れてはならないということである。その前提を忘れたところに議論は成り立たないのである。

 どの様な貿易主義に立脚するかは、国家の未来を見据え、長期展望に立った構想の上に立案すべき、国家の大事なのである。国際社会の中に自国をどの様に位置付けるかの問題であり。それは、軍事的問題ではなく、外交的、経済的問題なのである。


 Since 2001.1.6
本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano

貿易主義