環境問題で派生する投資は負担で、技術革新から派生する投資は、ビジネスチャンスというのか。経済というのは、生産性ばかりを追求するものではない。さらにいえば、映画やプロスポーツのようなエンターテイメントは、ビジネスチャンスでありながら、環境投資は、負担が増えると考える。見方一つで、チャンスにも、ピンチにもなる。経済というのは、見方を変えると負担でもあるのである。
 消費にも経済は存在する。自分達のためになることをなぜ、ビジネスチャンスとして受け容れられないのであろうか。消費市場こそ、むしろ、多くのビジネスチャンスが隠されているのである。負担なのか、チャンスなのか、捉え方一つで全然違うものになる。

 環境も一つの資源である。我々は、環境そのものを一つの資源としてはみなしてこなかった。それは空気のような存在である。しかし、大気汚染や温暖化は、空気や環境を保持するのに、コスト、費用がかかることを我々に明らかにした。

 経済は環境である。それは自然環境という意味だけでなく。社会環境や生活環境、政治環境というあらゆる意味での環境である。

 環境問題では、石油だけが悪役にされている観があるが、環境を破壊するのは、石油だけではない。石油と言うよりも、人間そのもの、人間の行いそのものが環境破壊を招くのである。

 現代は、石油の負の面ばかりが強調されている。しかし、石油は、天からの恵み、神の賜物なのである。人類の今日の繁栄は、石油なくしてはあり得ない。石油文明と言っても過言ではないのである。その石油を浪費し、また、石油の利権を巡って醜い争いをしているのは、人間なのである。石油に罪があるわけではない。つまり、正すべきは人間なのである。
 環境は、経済である。その意味で石油問題は、現在の経済を象徴している。現在の市場経済は、大量消費、大量生産を前提として成り立っている。極めて特殊な経済体制なのである。それが資源問題を引き起こし、また、環境問題の原因となっている。言い換えると大量生産、大量消費型経済を改めない限り、資源問題も環境問題も本質的な解決には至らないのである。

 環境を経済的合理性だけで解決しようとしても不可能である。環境問題を解決するためには、経済構造そのものを改革する必要がある。

 人々の生活あって経済は成り立っているのに、経済があって人々の生活が成り立っているような転倒した考え方が支配的なってしまった。その様な転倒が経済問題の本質を見失わせ、解決を困難なものにしてしまっている。
 経済を司る者の多くが、経済効率と経営効率とを混同してしまっている。そして、経済効率を生産性や収益性という経営効率から導きだそうとしているしかし、生産性や収益性は必ずしも経済的効率を示すのに適正というわけではない。今日の経営効率は、大量生産、大量消費に支えられている。経営的効率から見ればなるべく少ない人件費で、大量の製品を生み出すことであるが、経済効率の面で見るとそれは雇用を効率的に生みだしているわけではない。また、経済性から見て資源の効率的な活用は、資源を節約し、資源の浪費を抑制することだが、大量生産による設備の稼働率を高めるという経営効率の観点からすると相反することとなる。
 故に、経済問題で重要なのは、生活環境である。この点を錯覚してはならない。自然環境もこの生活環境の延長線上で考えるべきであり、自然環境だけを切り離して考えると、経済の議論はかみ合わなくなる。
 むろん、だからといって全てに生活環境を優先すべきだと言っているわけではない。生活環境を議論する場合、その生活空間を作りだしている前提に確認する必要がある。なぜならば、、環境は、状況であり、状況は、相対的なものであって、状況を作り出している条件や前提に拘束、規制されるからである。
 また、生活状況は、生活者の考え方、文化や歴史、風俗、宗教、思想といったものが決定的な作用を及ぼす。つまり、経済は、経済を成り立たせている人々の暮らしとその考え方を土台として、前提として成立しているのである。つまり、何を必要とするかは、消費者の生活信条によるのである。故に、環境と言ってもその根底は、思想信条によって成り立っているのである。節約を美徳とするか、証拠を美徳と考えるかによって経済性の基準は左右されるのである。古来、節約は美徳であったが、大量消費時代には、使い捨てが美徳となる。しかし、その本来の価値観は、消費者の生活信条に委ねられるべき問題なのである。ただ、消費者の生活信条は、生活環境に左右されるため、経済は、環境によって左右されるのである。そこから、転倒した考え方が生まれるのである。環境が先か、生活信条が先か。

 環境問題を語る時は、冷静さが必要である。先ず環境とは何かである。日本人は、環境とは、自然な状態であり、自然とは、無為な状態だと短絡的に考えがちである。それは、日本人にある無為自然、つまり、無為と自然とを同一視する思想に起因している。第一に、無為と自然とは別である。また、自然と環境とも別である。環境にとって重要なのは、調和と均衡である。環境とは、状況であり、状況を作り出す仕組みや働きである。そして、良い環境を維持するためには、先ず良い環境、よい状況という物を定義、設定した上で、そのよい状況を作り出す仕組みを構築し、また、良い状況を作り出している仕組みや働きを制御する事が要求されるのである。

 温暖化を問題とする時も氷河が溶けているとか、珊瑚礁がなくなると言った情緒的な認識が先走っている。もっと、重要なのは、人間や生物にどの様な影響があるのかをただデメリットばかりでなく。メリットも併せて検討すべきなのである。
 環境問題は、もっと実際的な問題である。人々の生活に密着した問題なのである。景観や観光、可哀相と言った観念的、情緒的な問題ではない。実利的な問題なのである。だからこそ切実的なのである。

 先ず、考えなければならないのは、経済的に見て良い環境というのは、どの様な状況をさすのかである。経済というのは、人々の生業、生活活動である。故に、経済的に見て良い環境というのは、生活が、長期的に安定した上で、必要な物が必要な時に手に入る状況である。ただ必要な物なのか欲しい物なのかによって経済に対する受け止め方に差が出る。つまり、必要という場合と、欲しいという場合とでは経済に対する認識上に差があり、必要な物が手に入れられる状態というのと、欲しい物が手に入る状態というで経済体制を考える上で違いが出てくるからである。

 環境は、衣食住に関係した状況である。つまり、我々が生存していくために必要な空間を維持することである。その意味で自然保護という言葉は、当を得ていない。なぜならば、自然と言うのは、保護されるべき対象ではなく。自然に保護されるべき対象は人間だからである。

 自然環境と言うが、人間が生存できないような自然状態、自然環境はいくらでもある。むしろ、宇宙から見れば、人間が生存できる空間なんて微々たるものである。
 海底や月のような世界、空間では、人間は、自分達が生存できるような空間を人口的に作り出さなければならないのである。人間とって生存できないような環境になったとしても自然環境は、自然環境なのである。人間が生存できない環境の範囲を人間が自分の手で広げたに過ぎない。自然環境に原因があるわけではないし、人間が住めないような環境になったからと言って自然環境に支障があるわけではないのである。だから、自然保護と一般に言われているのは、自分達が生存するために、必要な空間を維持すると言っているのに過ぎないのである。
 自然保護というのは、人間の傲慢(ごうまん)さを表したに過ぎない表現なのである。

 産業にとって環境は、重要な要素の一つである。清浄な空気や水に支えられている産業は数多くある。

 海洋産物を主原料としている産業は、立地条件が重要な鍵を握ってくる。風力発電は、風が強いところでなければ成り立たない。環境は、産業によっては、産業が成立するための決定的な要因の一つでもある。

 住環境の変化も重要な問題である。住環境は、田園型から都市型へ、都市郊外型へと変化してきている。この様な住環境の変化は、それに伴う、ライフスタイルの変化、消費行動の変化をもたらし、それに伴って産業の在り方も変化させている。
 住環境の変化は、住宅産業にとって住環境そのものを財に変えた。つまり、個別の住居ではなく。住宅地全体を一つの商品として販売するようになってきたのである。これは、環境そのものが市場価値を持つことを意味する。

 これは、住宅に限らず、製造現場でも起こってきている。農地や工場の置かれている環境が産業構造や市場価値に重大な影響を与えている。例えば、農業は、小規模零細農業から大規模な農業へと変貌しつつある。この様な変化は、農村の環境変化を伴わない限り不可能である。

 空気や食料、水の安全性。かつては、浄水器やミネラルウォーターのようなものは、財として成り立たなかった。水は無料だと思われていた時代があったのである。
 排気ガスや化学物質による汚染は、自動車産業や食品産業に重大な変化を与えている。水俣病やイタイイタイ病に代表される公害は、環境に対する投資の重要性を再認識させた。また、昨今の雪印問題や不二家問題は、食品の安全に対する配慮や危機管理を怠ると企業の存亡に関わることになることを痛感させたのである。

 ゴミ問題や産業廃棄物問題は、避けて通れない問題である。
 ゴミ処理や産業廃棄物は、環境に深刻な影響を与えるとして社会問題化している。しかし、産業廃棄物やゴミ処理にかかるコストは、そのまま、市場競争力や市場価格に反映してしまう。この様な点を考えて環境会計という概念まで生まれている。

 いずれにしても今日では、環境問題は、極めて経済的問題だとみなされているのである。しかも、環境問題は一国で片付けられる問題ではない。河川の汚染は、その河川が流れる流域全体の問題であり、川上の国で汚染されれば、被害は、川下にまで至るのである。また、川上で大規模なダムが建築されれば、その水利や災害対策は、川下に重大な影響を与えざるを得ないのである。
 チェリノブイリ原発事故は、隣国の深刻な放射能汚染が他人事でないことを明らかにした。
 大気汚染や黄砂は、中国から太平洋の島々にまで及ぶのである。また、SARS問題や鳥インフレエンザでも明らかになったが、衛生、検疫問題も一国だけの問題ではない。

 また、温暖化問題で顕著になったように、環境問題は、地域的規模の問題でもあるのである。そして、その為に支払われる費用は、人類共同で負担すべき費用なのである。

【日本経済新聞2008年6月5日パリ=野見山祐史】
温暖化ガス半減目標達成、2050年まで4700兆円必要 IEA試算
 2050年までに温暖化ガス排出量を半減させるには風力発電や原発の増設、省エネ型住宅や自動車の開発などで、総額45兆ドル(約4700兆円)の追加投資が必要との試算を国際エネルギー機関(IEA)がまとめた。世界の国内総生産(GDP)の1%弱を毎年投じる規模で、国際社会には大きな負担となる。試算を受けて、主要8カ国(G8)は7日に青森で開くエネルギー相会合で、省エネを促す新たな国際枠組み創設で合意を目指す。

 IEAの田中伸男事務局長が明らかにした。昨年の独での主要国首脳会議(ハイリゲンダム・サミット)では50年までの温暖化ガス排出量の半減を「真剣に検討する」ことで合意済み。現状のままだと05年に二酸化炭素(CO2)換算で270億トンの温暖化ガス排出量は50年に620億トンに膨らむ見通し。これを同合意に基づき480億トン少ない140億トンに抑える方策を示した。(16:03)



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