私の一つ前の世代は、食糧難の時代に育ってきた。私も子供の頃は、まだまだ、物不足であり、バナナなんて病気の時にしか食べさせてもらえなかったし、卵も然りである。NHKの朝のドラマで「おしん」が放映され、世界的にブームを沸き起こらせた。それこそ主人公のおしんは、大根飯か食べられない、食うや食わずの生活をしてきた。水飲み百姓というのは、文字どおり水しか飲めない様な生活をしていたのである。
 我々は、戦後の一時期を除いて食料や物資の絶対量に不足した生活を送ってこなかった。店に行けば、金さえあれば欲しい物は何で持てに入れることができる。あるとしたら、収入の問題である。金さえあれば何でも手にはいる。それが当たり前だと思い込んでいる。しかし、それは幸運なことであり、歴史的に見て、例え、金があったとしても、欲しい物が手に入らない状態の方が常態なのである。
 物不足を経験したことのない世代が、今や大多数を占めるようになってきた。彼等が食料の絶対量が不足した時、我慢することが果たしてできるであろうか。また、この問題を更に深刻にしているのは、生活水準の問題である。食糧難になっても生活水準が下げられれば、食糧難と言っても何とか耐えられるであろう。しかし、今のような生活水準を保とうとすれば、決定的な物不足に陥る危険性がある。

 日本人は、戦後、農業を衰退産業として軽んじてきた。そして、農業人口は減少の一途をたどり、食糧の自給率は低下し続けてきた。そして、今日、自給率は40%台まで落ち込んでいる。日本人は、金さえ出せば食料は手に入るという楽観論に支配されている。飽食の時代と言われるほど、日本人は、食にこだわり、テレビのチャンネルをひねれば必ずグルメ番組にぶつかると思えるほどである。
 しかし、産業革命の陰に農業革命があったことを日本人は見落としている。農業の飛躍的な生産力の拡大が、産業革命を裏から支えてきたのである。そして、一方で人口爆発と言われるほどの急激な人口の増加が地球的規模で起こっているのである。
 やがて、食糧難の時代が起こるかもしれない。そう言う前兆があるのである。

 最近、話題になっているのは、トウモロコシの急騰である。なぜ、今トウモロコシが急騰したのか。それは、トウモロコシやサトウキビを原料として作られるエタノールが、石油の代替えエネルギーとして注目されているからである。
 トウモロコシは、家畜飼料や食材として幅広い用途がある。その為に、トウモロコシの急騰は、他の産業にも大打撃を与えている。
 市場の原理からするとトウモロコシをはじめサトウキビなどは、石油価格が最低支持価格となる可能性がある。食料に廻すよりも燃料に廻すことの方が儲かるならば、農産物は、燃料に廻されるという事である。何千万という飢えた民がいようともである。

 農業や漁業が合理化する一方で餓死する者が増える。そんな矛盾が世界中に満ちている。それは、自給自足していた食料が、全て商品作物にとって代わられたからである。かつては、自分達が消費する食料を、自分達で生産し、その上で余った物だけを市場に供給していた。自分達の生活が主で、市場活動は従だったのである。ところが、今は、市場が主である。市場が我々の主人となったのである。結果、自分達が食べる分まで売らなければならなくなったのである。我々は、どんなに飢えても収穫物を一旦市場に出し、貨幣に換算しないかぎり生きていけなくなってしまった。なぜなのか。それは、世の中、社会の仕組みがそうなってしまったのである。その仕組みとは、何か。それが貨幣経済であり、市場経済なのである。
 しかし、貨幣経済や市場経済抜きに今日の経済体制は語れない。そうなると、貨幣制度や市場制度の仕組み、構造を問題にせざるをえない。

 私達の父祖の代は、戦後の食糧難を経験している。私が生まれたのは、敗戦から十年近く立ってからであるが、それでも、食糧不足は完全に解消されたわけではない。牛肉なんて食べらるのは、一年で数えるほどであったし、そばやうどんも掛け蕎麦か素饂飩、よくて狐か、狸で、天ぷらそばなど余程の時しか食べられなかった。戦後間際には、餓死した判事まで出た。食糧でも、エネルギーを自給できる国とできない国とでは、豊かさが違う。最近、オーストラリアを観光してきたが、その差を痛感させられた。とにかく出される量が違うのである。値段も安い。

 我々の次の世代は、物の溢れた時代に育ってきた。彼等は、物があることが自然なのであり、物のないこと、不足することを実感できない。無ければ買ってくればいいとなる。買いたくても物がないという事が理解できないのである。物を調達するために、戦争にまでなったということが解らない。特に、日本の若者はである。食べる物が無くて餓死すると言う事が理解を超えているのである。しかし、この様に物が溢れている時代、国は、ごく稀なのである。そのことを認識しておく必要がある。そして、その幸運な状況を維持するために、どれ程努力しなければならないのかを肝に銘じておく必要がある。

 私の祖母は、飢饉を経験していると聞いた。それこそ、ベルトや靴の底まで食べたという。私の父は、戦争で、飢餓を経験している。食べるなと言っても中毒になる蟹を食べて多くの戦友が死んだという。今でも父は、蟹が食べられない。見る夢は、食べ物の夢ばかりだったという。どれを程飢えがすさまじいかを知っている。しかし、私は、想像するだけである。次の世代は想像することもできない。それが怖いのである。

 日本の食糧自給率は、カロリーベースで40%に過ぎない。先進国の中でも極めて低い。しかも日本は島国である。一朝、事あれば、日本は、瞬く間に飢えることは必定である。日本は、自由貿易を堅持し、平和を維持することが宿命なのである。

 また、忘れてはならないのは、現代の農業は、石油や天然ガスを原材料にした化学肥料を大量に消費し、トラクターや農業機械に支えられたエネルギー高消費型産業だと言う事である。それは、エネルギー危機や環境問題が食糧問題や価格に直接跳ね返ってくることを意味している。(「ガソリン本当の値段」岩間剛一著 アスキー新書)

 食料は、経済の基本である。その意味で食料が戦略物資であることに気がついていない日本人が多くいる。戦略物資というと日本人は、何か、石油だとか、希少金属とか、兵器だとか、戦争に関係した物資だと勘違いしている。しかし、食料は、暦として戦略物資である。その証拠に、兵站は、食料、物資の輸送を一番の任務としているのである。

 第二次世界大戦の時、インーパル作戦や餓島という名が示すように、日本は、戦いに負ける前に飢えて戦意を喪失していたのである。日本人は、潔く戦うことばかり考えて補給の重要性を理解していない。腹が減っては戦にならないと言う格言を日本人の祖先は残しているのにである。

 産業革命は、農業革命だと言われた。そして、今日、農業、食料は、遺伝子工学の発達に伴って、また、新たな変革の時を迎えている。
 その代表がハイブリット米であるが、ハイブリット米は、一度使うと次からは必ず種を種苗会社から仕入れなければならなくなる。それは、従来の農業と違い、他の工業製品と同じように、農業が生産から供給までを含めた一貫産業へ変貌することを意味する。

 食糧自給率を気にするのは、思い過ごしであり、自由貿易を維持すれば、食料もエネルギーも確保できるというのが戦後の知識人の基本的な見解である。しかし、本当に、思い過ごしなのであろうか。地政学的な発想やある種の陰謀論に組みする気はない。しかし、本来、国家の独立自尊を考えれば、国民が生存していくのに必要な最低限の食料を確保することは、国家の存在意義でもあるのである。

 それは、欧米の農業事情を見れば歴然としている。日本の食糧自給率(カロリーベース)は、2003年に40%まで落ち込んだ。その一方で、農業大国のオーストラリア(2003年、237%)や米国(2003年、128%)、カナダ(145%)は40年間一貫して100パーセントを超え、また、フランスは、40年前に98%と100パーセントを割り込んでいたが、2003年には、122%を達成している。40年前に43%だった英国が70%、また、75%だったドイツが84%と回復しつつある。
 アメリカは、世界有数の食料輸出国である。それに対し、日本は、食糧を自給することができない国なのである。基本的条件が違うのである。アメリカは、他国からの輸入が途絶えたとしても国内で十分需要を賄いきれるのに対し、日本では、輸入が途絶えることは、国民の死活問題に直結しているのである。アメリカにとって食糧問題は、経済上の問題だが、日本にとって食糧問題は、国民の生命に関わる大事なのである。自ずと次元が異なっている。

 食料を政治戦略に結びつけることはありえないなんて考えるのは早計である。往々にして食料は、結びつけられてきた。
 大豆価格が暴騰した1973年には、米国が大豆の輸出禁止処置に踏み切り、輸入国は大打撃を受けた。それでありながら、日本の大豆の自給率は、55%と当時より低下しているくらいである。(日本経済新聞2007年6月21日朝刊)
 兵糧攻めは、戦略、戦術の常道であり、今でも経済制裁を受けている国は数多くあるのである。アメリカは、1980年、ソビエトのアフガニスタン侵攻に対抗して穀物禁輸処置を行った。この様に、過去において食料は、重要な切り札として利用されたことがある。食糧を資源としてみられないのは、重大な欠陥である。資源を単純に経済問題として片付けるのは、あまりにも世間知らずすぎる。

 また、食料というのは、一度、食料を他国に依存すれば、その国の国情に自国の運命が左右されかねないのである。しかも食文化というのは、その国の歴史や風土、文化の上に立脚している。日本は、古来、稲作文化の上に成り立ってきたが、食の欧化に従って米からパンや肉に主食の座を譲った。この様な依存は、麻薬的な作用を持ち、食文化が変わると、食糧の供給を食料の生産国に依存し続けなければならなくなる。それは、国家の独立に重大な影響を投げかけるのである。それでも、食糧資源の絶対量が確保されているうちは良い。その絶対量が確保されなくなったときが問題なのである。

 ところが、その資源である食糧に限界が見え始め、更に、現在の生産量にもかげりが見え始めている。
 我々は、飢饉や飢餓を知らない世代であるが、我々の曾祖父ぐらいの世代では、飢饉があり、我々の父母の世代は、戦後の食糧難を経験しているのである。けっして、そう遠くない話なのである。
 また、今日の繁栄と産業革命を結びつける考えは常識化しているが、その同時期に農業革命があり、飛躍的な食糧の増産があったことを知る者は少ない。そして、その食糧の大増産によって現在の食卓は維持されてきたのであり、もし、食糧の大増産がなければ、近代に入って以降の人口爆発に対応することはできなかったという事を見落としがちである。

 我々は、石油資源の枯渇に対して神経質になっているが、それ以上に食糧問題は、深刻であることを故意か見落としがちである。しかし、食料こそ、我々の生存に直結している上、自然の制約を受けている資源はないのである。単純に不足したら、増産すればいいというような物資ではない。

 さらに、食糧問題は、水利にも直結している。水争いは、ますます深刻の度を増すであろう。水資源の深刻さは、水源となる河が多くの国や地方を横断していることにある。川上の国がダムをたり、河川の汚染を放置すれば忽(たちま)ちの内に川下の国が深刻な影響を受けるのである。

 そして、一度これらの問題がこじれれば、国民の生命財産に直結しているが故に、武力衝突に発展しかねない問題なのである。

 食糧問題は、現物の生産量の問題であり、貨幣価値に換算しても何の意味もない。それは、いくら金があっとしても生産量が不足すれば、いずれは飢えるのである。また、食糧問題こそ、分配の偏りの問題である。一方において飢餓あり、一方において飽食があるのは、偏りの問題である。しかし、それでも絶対量の問題は避けて通れない。その最たる物が、海洋資源、漁業資源である。海洋資源は、乱獲と汚染の両面から危機的な状況が続いている。しかも海洋と宇宙が最後に残された領土問題でもあるからである。海洋資源と宇宙資源を巡って強国間の争いが激化するのは必定なのである。

 経済の問題は、金利や雇用の問題だけで捉えていては、本質を見ることはできない。経済は、日々の営みと生々しい利害関係の上に成り立っているのである。
 食糧問題は、環境問題でもあり、資源問題でもある。その点を正しく認識しておく必要がある。

 食糧問題を市場原則のみに委ねるのは、危険なことである。資源保護も環境保護も国際的な強力があってはじめて有効なのである。その為には、各国が自国の利益を超えて連帯、協力していく必要がある。その為には、市場や産業の国際的な枠組みが必要なのである。

 食料というのは、伝統的相場商品である。食料は、旱魃や冷害、現象と言った天候や台風や地震、洪水と言った災害などで作柄が変動する。しかも、価格の弾力性が低い。また、食料の中には、備蓄が可能な物と不可能な物がある。生鮮食品のように、鮮度が命である作物も多くある。そのために、作物の出来、不出来によって相場が、激しく乱高下するのである。この様に相場が乱高下するからこそ、先物市場が生まれたりである。
 
 食料は、堂島の米相場が先物取引の原型である例を見ても解るように、相場物の走りである。食料というのは、伝統的相場商品である。食料は、旱魃や冷害、現象と言った天候や台風や地震、洪水と言った災害などで作柄が変動する。しかも、食料は、価格弾力性が低い。かつて、梶山紀之によって小豆の相場は、「赤いダイヤ」と言う小説にもされ、映画にもなった相場商品である。
 なぜならば、食料は、価格弾力性が低い上、天候や環境に生産量が大きく左右され、それがすぐに市場に反映さるからである。また、海産物の様に冷凍保存技術が発達した現在とは違い、過去には保存が効かなかった物産もあり、新鮮の物が市場に出回る時期が限られている、即ち、旬がある商品だからである。

 経済を語る時、多くの経済学者は、生々しい現実を語ろうとはしない。あるのは、金利の話や公共事業、景気の話である。しかし、経済は現実である。
 日本が、アメリカと戦争をしたのも、そのキッカケは経済の問題である。経済を抜きにして、歴史や政治の話はできない。それなのに、経済学では、その生々しい現実がどこ換え消えている。戦争が政治の延長だとしたら、経済も政治の延長、ひょっとしたら政治こそ経済の延長線上にあるのかもしれない。しかし、いずれにしても経済は、生々しい現実の上に成り立っているのである。自然科学が自然現象の上に成り立っているように・・・。そして、食べることは、全ての生活、経済の基本なのである。

 私の子供の頃には、そんなにしょっちゅう牛肉なんて食べられなかった。しかし、今は、毎日でも食べられるようになった。それは、食肉の生産量が飛躍的に伸びたからではない。むしろ、食糧の自給率は落ちているのである。要するに、金によって海外から輸入しているのである。金がなくなれば、以前よりも少量は不足する。
 日本人は、考えてみれば、贅沢な生活に慣れすぎたのである。昔から見ると王侯貴族のような生活を国民全般でおくっている。生活態度を改めない限り、物不足を免れることはできないのである。

 なぜ、食料が潤沢かと言えば。海外から輸入されているからである。逆に言えば、輸入ができると言うことを前提としている。輸入が可能であるためには、第一に、交易路が確保されている必要がある。第二に、輸入元が確保されていてる必要がある。輸入元が確保されるという事は、輸入元に、輸出物資があるという事を意味している。第三に、資金があるという事である。

 従来の飢饉は、交易環境の不備によって起こった部分が多分にある。しかし、これから日本で、起こると予測される飢饉は、絶対量の不足と資金の枯渇である。特に、いくら金があっても絶対量が不足すれば、手に入らなくなる。その金さえも稼ぐだけの国力をなくしつつある。我々の祖先は、日本が、国土の狭く、資源に乏しい国であることを自覚していた。ところが現在の日本人は、物に溢れていることになれ、努力することを忘れ、贅沢な生活になれ、驕り高ぶり、危機感が薄れてしまった。

 食料品の価格は、家計を直撃する。故に、食料品の価格に、従来は、敏感に反応したのである。主婦は、最も、経済に詳しかった。ただ、今日でも、主婦のその感性は経済学に反映されていない。経済は、今でも、男のものだという先入観に支配されている。だから、経済学が経済の実体から乖離するのである。本当の経済、生きた経済を肌で感じているものは家計を預かるものである。そして、経済の動きを最も現すのが食品価格である。

 人間は、現在を敷延化して未来を予測する傾向がある。例えば石油の供給量は、一定に供給され続ける。また、食料の供給は続けられるという事を前提にして経営予算、家計を立てている様なことである。特に、成功体験に固執する。
 食糧問題で言えば、確かに、今までは、すくなくとも、高度成長以後は、豊富な食料に支えられてきた。現代は、飽食の時代と言われ、飢餓など非現実的な話し、どこか遠い世界の夢物語のように考え、今のように食料が満ちあふれている状況を前提として自分達の生活設計、人生設計をしているように思えてならない。
 しかし、半世紀ぐらい前には、今のように、食料が満ちあふれていることの方が、非現実的で夢物語だったのである。私の父は、戦争で飢餓の経験をしている。人は飢えると食べること以外、何も考えられなくなると言っている。それを食べれば確実に死ぬと解っているものさえ口にしてしまう。それが飢えると言う事である。そして、今でも多くの国が、多くの人々が飢餓に喘いでいる。それが現実なのである。
 今日の繁栄は、父祖の尊い犠牲の上になりたっている事を忘れてはならない。現代の日本人は、自分達の身の丈を超えた生活をしているのである。自分達の力によって築いたものではない。それなのに、あたかも、自分達の力だけで築き上げたように錯覚し、祖先の働きを馬鹿にしている。その報いは、遠からず受けることになるであろう。
 本当に、食糧不足、もの不足の時が到来した時、身の丈にあった生活水準に自分達の生活を合わせられるか、それが、問題なのでのである。その鍵を握っているのは、国民一人一人の意識・倫理観・道徳観なのである。そして、日本人としての自覚、誇り、魂である。



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