二十世紀は、思想の時代、イデオロギーの時代と言われた。1917年、ロシア革命に端を発し、1922年ソビエト連邦共和国が成立、第二次世界大戦を境に、ソビエトを核とした社会主義圏が成立した。そして、それが本格的な東西冷戦のはじまりであった。

 それが、1989年のベルリンの壁の崩壊によって脆くも潰えさり、民主化、自由化の波が旧社会主義圏に襲われた。
 他方、2001年9月11日に起こった同時多発テロは、イスラム圏の台頭を、明らかにした。

 では社会主義思想や共産主義思想は、意味が失われたかというとそうではない。むしろ、社会主義や共産主義が提示した問題は、これから重要な意義が出てくると思われる。それは、現在生起している経済問題の多くが、自由経済か、社会主義経済かと言った二者択一的な問題ではなく。構造的な問題だからである。

 我々は、政治体制にせよ、経済体制にせよ。自由主義か、社会主義かと短絡的に色分けをしてしまうが、イスラムの台頭は、それ以外にも選択肢のあることを明らかにした。
 その好例が、イスラム金融である。確かに、その原形は欧米の金融制度にあるのかもしれない。しかし、重要なのはその根底にある思想なのである。欧米で作られた枠組み、仕組みだけが唯一絶対的というわけではないのである。
 イスラム金融は、産業の論理と哲学や道徳が結びついているかの証左である。我々は、経済の仕組みを通じて欧米の思想に順応させられてきた。その為に、個々の国や民族の文化や伝統がないがしろにされてきたのである。
 イスラムやインド、中国にも偉大な文明があり、文化や社会を成立させてきたのである。
 イスラムは、イスラムで独自の政治、経済思想を持っている。近代では、科学万能主義に毒され、宗教を迷信の一種として侮る傾向がある。しかし、宗教は、宗教として独自な政治、経済思想を持ち。それを長い期間成立させてきた実績があることを忘れては成らない。

 形態的に見ると政治体制には、基本的には、第一に、中央集権的体制。第二に、寡頭的体制。第三に、民主的体制の三種類がある。
 中央集権というのは、一切の権力を中央に集中させる権力構造を指して言う。寡頭政治というのは、一定の集団や機関に権力を集中させる体制である。封建主義体制や地方分権、また、連邦主義にも通じる思想である。民主主義とは、主権在民を国是として、権力を国民一般に持たせる思想である。そして、それを実体化しているのが選挙制度、代議制度である。最も、民主主義本来の姿は、直接民主主義である。

 経済体制から考えると一般には、資本主義、自由主義体制と共産主義、統制経済主義と大きく二分されてきた。しかし、もう少し、細かく分類すると第一に、私的所有権を認めているか。第二に、資本主義的民営企業が主体か、国営企業が主体か、それとも混合体制か。第三に、自由主義的か。平等主義的か。第四に、保護主義か、自由貿易主義か。第五に、統制的・計画的か、市場主義か。第六に、固定相場主義か、変動相場主義かと言った点で分類できる。
 経済体制は、政治思想の問題によって歪曲されて考えられる傾向がある。しかし、経済体制に政治思想を持ち込むと問題が複雑になり、ややこしくなる。
 経済体制は、経済体制の問題として、政治体制と切り離して考えるべきである。
 体制の問題は、倫理的問題、道徳的問題と言うより、実利的問題なのである。

 つまり、民主主義的な政治体制と社会主義的な経済体制と言う組み合わせも可能であり、選択肢の中に入れておくべきなのである。また、現行の社会主義的な政治体制、即ち、中央独裁体制下でも資本主義的な経済体制を敷くことも可能なのである。
 自由主義的な経済体制には、民主主義的政治体制しか、適合しないとか。中央集権的体制には、統制的経済体制しか適合しないと言うのは、偏見であり、先入観である。

 また、一党独裁という政治思想が、共産主義であるという間違った認識が支配している。それが、社会主義の経済体制や共産主義思想をも狭隘な思想にしてしまっている。

 社会主義というのは、基本的に社会的平等を重視する思想であって、一党独裁や統制的経済、計画経済に短絡的に結びつけられる思想ではない。

 逆に、資本主義、自由主義、自由貿易主義、市場主義を一体的に考えがちだが、これも一体的だとは言い切れない。資本主義体制下でも統制的な経済を敷くことも可能なのである。また、独占的市場は、価格の制御が一方的になるために、実質的には、統制経済的な体制に陥る。

 共産主義にも、社会主義にも、それが、理論として成り立つ理由がある。そして、共産主義的、また、社会主義的発想や体制は、現代になって成立したのではなく。人類の歴史が始まってからずっと連綿として続いてきたのである。
 元々、土地を国有化し、それを均等に分け与えるという思想は、周の井田制を理想とする孟子の井田思想に見られる。そして、井田思想は、前漢においては、限田策、王莽の井田制、魏(曹魏)の屯田制、西晋の占田制、課田制、北魏、隋、唐の均田制へと受け継がれてきた。
 土地を等しく農民に分け与えるというこの様な中国の土地制度の変遷は、共産主義的な体制といえなくもない。(「宗教から見る中国古代史」渡邉義浩著 ナツメ社)
 そして、この様に大土地所有を制限し、又は、全ての人民を分け隔てなく統治すべきだという思想は、目新しい思想ではない。また、この様な体制を維持するためには、強力な国家権力を必要するという思想も古くからあったのである。それに、易姓革命主義を加味すると必ずしも共産主義思想というのは、西洋的で近代的とは言えない。

 むしろ、ある程度自由な活動を制限しても国民生活の均等化を推し進め、平等を重視すべきだという考え方とあくまでも国家政府の国民に対する制約、干渉を極力抑え、国民の自由な活動に委ねるべきだという考えが鬩(せめ)ぎ合ってきたというのが実情である。
 前者は、大きな政府を後者は小さな政府を前提とする傾向がある。そして、それは、どちらか一方が絶対的というのではなく。その国が置かれた状況や背景を複合的に勘案して一定の手続によって決められるべき事である。そして、その手続こそが民主主義なのである。

 市場経済を何の規制もせずに放任し、放置すれば、やがて、独占的、頑的な状態になるというのは、ある意味で歴史が証明している。よしんば、幾つかの市場において自由競争が維持されたとしても、主要な市場が現実に独占的状態になる可能性がある限り、市場を無規制に放置することは許されない。
 では、全ての格差をなくし、均一にしてしまえばいいかと言えば、それでは、市場の機能は失われてします。だからこそ、市場は構造的に制御される必要があるのである。

 民主主義を絶対視し、民主化すればどんな問題でも片づくと思いこんでいる人達をよく見かける。特に、冷戦終了後、自由主義を民主化に置き換え、民主化さえすれば、何でも解決できると、なにがなんでも民主化せよと強要する勢力まで現れた。しかし、民主化は万能の手段ではない。民主主義は、色々な要素が複雑に絡みあって形成される一種の仕組みである。しかも、広範囲な国民の合意の上に成り立っている。民主主義的体制を構築すること自体、非常に希有な、奇跡的なことなのである。民主主義を無条件に信奉するのは、ある種の信仰に近いことなのである。
 民主主義は絶対ではない。民主主義も一つの仕組みに過ぎない。最終的には、国民にとって、なにが、幸せであるかである。衆議をもって決することが問題の解決に繋がるならば、それは正しい選択である。

 現代世界は、民主主義に対する幻想に支配されているようである。民主化運動の背景には、民主主義化すれば何でも解決する。即ち、科学万能主義に対する幻想と同じような思い込みが、民主主義にも働いているようである。しかし、民主的状況というのは、無政府的状況と紙一重であることを忘れてはならない。
 ことわっておくが、思想として、理念としての無政府主義と無政府な状況とは違う。無政府主義的世界とは、権力機構がなくてもおさまる世界を指して言うのであり、ある種の理想郷である。それに対し、無政府な状況というのは、統治する機関も仕組みや制度も喪失した状況を指すのである。つまり、無秩序と混乱、無法、無統制な状況であり、状況を支配するのは、暴力だけな状態である。つまり、力による支配、自分の力以外頼ることのできない世界である。
 無秩序と混乱、無法な状況、民主主義とは、その様な状況を制度によって制御する思想である。制度が機能しなくなったり、適合しなくなれば、たちまち、無法な状況に陥りやすいのが、民主主義である。故に、民主主義の対極に衆愚政治がおかれているのである。

 民主主義が称賛される一方で、集権的体制は、集権的だと言うだけで排斥される傾向がある。それは、民主主義は分権的であり、独裁や全体主義は、集権的だという誤った認識による。民主的でも集権的体制はあり得るのであるし、多くの集権体制は、民主主義によってもたらされている。しかし、中央集権的な体制が成立するには、成立するだけの状況、原因がある。
 権力を集中させることでのみ克服できる状況があるという事である。変革期や非常時、緊急時がそれである。つまり、異常な状態で、速やかな判断を必要とする場合、集権的な体制のほうがより、機動的なのである。
 無政府な状況は、独裁者を生むというのは、必然的なことなのである。それを一概に否定する事は正しいことではない。ただ、権力を集中することによって起こる弊害が問題なのである。
 権力の集中は、政治的、経済的格差の根元となる。権力を集中させることが常態化すれば、社会の格差が固定化し、社会が階層化、階級化される危険性がある。尚かつ、権力は、抑制力を失えば腐敗する。故に、権力が長期間によって、特定の個人や機関、集団に支配されることは嫌われるのである。
 アメリカは、この権力の集中と分散を両立するために、大統領制と議会制民主主義を敷いているのである。
 経済体制や政治体制を思想やイデオロギーに結びつけて考えるからおかしくなるのである。経済体制や政治体制は、合目的的な機構であり、仕組みである。それぞれを期待すべき機能によって選択すべきなのであり、状況に適合できるような仕組み、チャンネルを体制の中に組み込んでおけばいいのである。

 民主主義は、民衆の力をエネルギーとしている。エンジンが、ガソリンの出すエネルギーを動力に変えているのは、エンジンの持つ仕組みである。同様に、民衆の活力を国家の動力に変えているのは、民主主義体制の制度、仕組みである。中央集権体制も同様である。国民国家のエネルギーを引き出すのも権力の機構である。民主主義も集権主義も国民の力をエネルギーとしている機関、機構なのである。それは、イデオロギーとは別の次元の問題である。石油にせよ、ガスにせよ器や装置がなければ制御することは不可能である。そうなるとただの危険物なすぎない。国家の活力も使い方を誤れば国民を凄惨な状況に追い込んでします。車が凶器となるのは、運転する者の責任である。同じようにどの様な体制も動かし方一つで凶器となるのである。体制に善悪の価値観を当て嵌めても仕方ない。体制の問題は機能の問題であり、性能の問題である。国家理念、建国精神とは、国民が決める問題なのである。

 どの様な国家体制をとるかは、それぞれの機構をどの様に組み立てるかによって決まるのである。

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