孫子曰く、凡そ兵を持ちうるの法、馳車(ちしゃ、戦車)千駟(せんし)、革車(かくしゃ、輸送車)千乗(せんじょう)、千里に糧を饋(おく)れば、内外の費、賓客(ひんきゃく)の用、膠漆(こうしつ)の材、車甲の奉、日に千金を費やす。然る後に十万の師挙(あ)がる。其の戦を用うるや、久しく師を暴(さら)せば、即ち国用足らず。知者有りと雖も、其の後を善くする能わず。

 孫子は言った。一度、軍事行動を起こせば、大量の戦車を動かし、大量の物資、食糧を遠方で危険な戦場、敵地に輸送しなければならなくなる。その為に、徴用する物資に費やす国内の費用や海外遠征に伴う費用は莫大なものになる。細かい物から、大きな物まで含めて一日に千金を必要とする。この様な兵站があってはじめて十万の兵隊を動かすことができるのである。この様な莫大の費用を刻々費やすのであるか、長期間、遠方の敵地に兵を駐屯させることは、国家財政に多大な負担を強い、圧迫する。こうなるどの様な知者を持っても後始末をすることはできない。(「孫子の読み方」山本七平著 日経ビジネス人文庫)

 戦争とは、経済である。戦争には、巨額の軍資金が必要となる。日露戦争の折り、日本は、軍資金を得るために、国債が発行され、国債を引き受けるために、イギリスの中央銀行であるイングランド銀行が生まれた。また、軍人に支払う給与から紙幣も生まれたといわれているのである。(「金融vs.国家」倉都康行著 ちくま新書)
 また、戦争や革命の背後には、経済的破綻や原因がある。経済の歴史を紐解(ひもと)くと国家にとって都合の悪い話や失敗が山ほどでてくる。だから、なるべくならば、経済の歴史は隠しておきたい。ところが、その都合の悪い話や失敗にこそ経済の本質が隠されている。

 強国が経済的危機に陥れば平和は危うくなる。強国は、経済的に安定しているからこそ、寛容に振る舞えるのである。
 日本のような小国が世界経済を制御できるなどと考えるのは、愚かであり無謀なことである。大国の都合に振り回されて自滅するだけである。だからといって日本が自らの権利を主張しなければ、国益を保つことはできない。どちらにしても覚悟が必要である。

 戦争は、哲学的理由によって引き起こされるわけではない。

 戦争は、最初に政治的な問題、そして、軍事的な問題、そして、最後には、経済的な問題が残る。最後に残った経済的な問題が、国家に決定的な打撃を与えるのである。
 例え、戦争に勝利しても経済的に敗北することもある。そして、経済的敗北は、国民に塗炭の苦しみを味わあせ国家を存亡の淵に追いやる。また、戦後の処理を間違えば、第一次大戦後のヨーロッパのように次の戦争の準備をすることになる。
 王政時代、国王は、財布の中味を見ながら戦争をしたのである。それは現代も変わらない。国家財政を破綻させる最大の原因は、歴史的に見て戦争である。その為にも戦争は、膨大な借金、即ち、国債の元となった。この国債の償還が、皮肉な事に、近代経済の枠組みを築くのである。
 国債が契機になって創設されたものには、議会、中央銀行、紙幣、税、証券、株などがある。これらの事象が成立する過程で資本という概念が生まれ、資本主義が形成されていくのである。この様に、戦争と近代経済とは、切っても切れない関係にある。戦争が近代という時代を形取ったと言っても過言ではない。だからこそ現代でも戦争が経済に暗い影を投げかけているのである。戦争を度外視して経済を語る者がいるとしたら、それは経済学者としては三流である。

 かつて、日本は、安全保障のために国費の大半を費やしてきた。そして、最後には、世界を相手に戦争をしかけ、敗戦したのである。戦艦大和の最後は、大日本帝国の最後を象徴している。

 逆に、戦後、日本人は、空気と安全はただと思い込んでいるとよく言われてきた。米ソ冷戦の狭間で米国の軍事力の傘、庇護の下、戦後の日本は、第二次世界大戦後、長い平和を享受してきた。その平和が、今日の日本の礎となっていることは、間違いない。
 しかし、日本の平和と繁栄の陰には、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争と世界各地では、数多くの戦争が繰り返されてきたのである。

 それらの戦争に、日本は、直接的、間接的に関わってきたのである。
 戦争に巻き込まれなくても、朝鮮戦争によって朝鮮特需がおき、戦後の日本経済に僥倖となったし、湾岸戦争の際には、資金の拠出を迫られたり、また、第四次中東戦争の折りには、オイルショックに見舞われたり、ベトナム戦争によって学生運動や政治的混乱を引き起こしたりと、戦争と無縁でいることはできない。

 直接的にせよ、間接的にせよ、戦争は、日本の経済に甚大な影響や被害を及ぼしてきたのである。安全は決してただではないのである。

 戦争の原因は、表面に現れた、政治的、外交的な原因よりもその背後にある経済的原因の方が本質的である場合が多い。
 いずれにしても、戦争は、政治的破綻、ないし、経済的破綻によって引き起こされる。つまり、異常、非常事態である。戦場に働く作用は、通常の場に働く作用とは違う。

 クラウゼビィツは、「戦争は、政治の延長だ。」と言った。しかし、戦争は、経済の延長でもあるのである。

 帝政ロシアは、不凍港を求めて南下し続けたし、また、イラクがクウェートに侵攻したのも石油の利権を求めてである。
 戦争は、生存を賭けた戦いなのであり、戦争を起こしたくて、起こす者はいないのである。

 戦争は、独裁者の妄想や征服欲、国民の熱狂が原因で起こるわけではない。独裁者の妄想や国民の熱狂が沸き起こる原因があるのである。戦争の背後には冷徹な実利的計算が働いている場合が多い。そうでなければ、国家や軍という巨大な装置を動かすエネルギーは、おこらないのである。

 逆に言えば、平和憲法があれば、戦争から逃れられると言うほど甘い世界でもない。戦争は、相手のある事なのである。こちらが望まなくてもあいてが望めば戦争は起こされるのである。我々は、大東亜戦争、太平洋戦争を日米戦争と思い込んでいるが、日本とアメリカだけが戦場となったわけではない。むしろ、米国本土は戦場にはなっていないのである。戦場となった国々は、アメリカと日本の間にあった国々なのである。それらの国々は、日米戦争の巻き添えとなったのである。
 一度、戦争となれば、当事者国だけでなく周辺国も無傷、無事ではいられない。中立を維持するのも非武装で維持した国はない。あるとすれば、強国を宗主国と頼んでいるに過ぎない。国家の独立は、自国で維持せざるを得ないのである。

 日本の周辺も常に危機がある。イラン、北朝鮮の核問題が象徴しているように、核兵器や生物化学兵器は、戦争の在り方を根本から変えようとしている。また、テロリズムの横行は、戦争の概念そのものの変更をも要求しているようにすら見える。
 また、ベルリンの壁の崩壊、ソビエトの崩壊によって東西冷戦がひとまず収束した。東西冷戦後の世界で改めて浮き彫りになってきたのは、南北問題である。また、宗教問題や民族問題が、イデオロギーに変わって主要な問題として表面化した。その典型が、ユーゴスラビア問題であり、中東問題である。これらの問題が象徴的に現れたのがアフガニスタン内乱である。イデオロギーに変わって宗教問題が、そして、民族問題が前面に現れ、それが、近代という時代に鋭く問題を投げかけている。
 イデオロギーという観念的なものが宗教と民族と言うより、現実的、日常的な事柄に転化する事によって、紛争や戦争がより、現実的、日常的なものに変質した。それは、戦争や紛争を日常生活の中に持ち込むことにもなる。
 その為に派生する経済的負担も莫大なものになっている。物理的にも、精神的にもその被害は計り知れない。

 また、冷戦と言われたように、イデオロギーを中心とした戦争は、冷酷な計算が働いていた。しかし、宗教や民族の争いというのは、ある種の熱狂が潜んでいる。つまり、ホットな戦いなのである。それが自爆的テロのような殉教的、また、狂信的行為を生み出すのである。しかも、それが圧倒的強者に対する弱者の戦法であり、正規軍同士の戦いからゲリラや民兵と言った非正規軍、また、非戦闘員を巻き込んだ戦いにもなっている。
 それが無差別テロや虐殺にも結びつくのである。また、自国の安全のみを維持しているだけでは、限界があり、他国に軍隊を駐留させざるを得なくなったりもする。こうなると紛争は、底なしの様相を呈することになり、セキュリティコストも際限がなくなる。

 また、エネルギーや情報、通信、交通機関の発達は、それだけ、社会を脆弱なものにもしている。局地的な紛争や事故が世界経済に決定的なダメージを与える可能性もあるのである。
 たとえば、オイルショックの例が示すようにエネルギーを武器にされると、とたんに政治体制だけでなく、経済も大混乱に陥る。また、インターネット社会においては、インターネットを狙った、攻撃やプロパガンダが予測し得ない打撃を社会に与えることもある。テロリストのデマが瞬く間のうちに世界中を駆け巡ってしまう。また、交通機関、電力施設、水道を狙った攻撃は、社会を大混乱に陥れる。
 社会主義体制の崩壊の原因の一端として、西側のメディアの働きがあったと言われている。ちょっとした噂が、金融恐慌を引き起こしたと言われているが、インターネットやメディアの影響力は、戦前の比ではない。

 我々は、交通機関や飛行機に乗る際、セキュリティチェックを受けるのが日常化している。この様に、我々の生活に戦争や紛争は色濃く入り込んでいるのである。もはや、日常的空間が戦場と化しているのである。

 日本は、島国である上に、食料やエネルギーという生活必需品の自給率が極めて低い。仮に、この自給率をいくらか高めたとしても、自ずと限界があり、日本は、自由貿易や国際交易の安全を積極的に維持していく必要がある。隣国との国際関係、国家間の関係も絶えず危機に瀕している。そして、危機の度合いによっては、現実の通商路にも影響がでてくるのである。この様な国際社会の中にあって日本は世界平和が不可欠なことであり、国際平和に日本は積極的に寄与していかなければならない。通商路、交易路、世界平和は、日本の生命線でもあるのである。

 戦争が産業に与える被害というのは、どの様なことがあるであろうか。戦争の規模や機関にも依るが、第一に考えられるのは、当然物理的な被害、戦争による破壊的被害である。ここで言う、物理的な破壊というのは、生産手段を指して言う。更に、第二に、人的被害もある。第三に、交易上、通商上の被害である。第四に、生産に及ぼす被害である。第五に、資産財産に及ぼす被害である。

 先ず、戦争が与える影響を考える上では、自国が、戦争とどう関わっているかが、重要である。先ず、自国が戦争の当事者国であるか、どうかである。次に、交戦国の一方が同盟国であるか、否かである。また、どこが戦場となっているかである。そして、自国が戦場にたいしてどこに位置しているかである。それが、交易や通商の安全や供給にどう影響するかである。
 島国である日本は、交易路、通商路に支障が生じると即影響を受ける。それを自覚しておく必要がある。
 
 ただ、我々は、戦争による負の要素しか考えない。考えたくない傾向があるが、戦争は、儲かるのである。と言うより、戦争に直接かかわっていない者にとっては、交戦国か、戦場とならない国にとっては、戦争は儲かるのである。ハッキリ言えば、戦争で儲ける者が多くいるのである。早い話、株の世界には、戦争は買いという格言があるくらいである。そして、戦争が儲かるという要素が、戦争を更に複雑にしてしまっているのである。
 戦争が儲かるのは、戦争は、一大消費行為だからである。消費によって成り立つ社会である限り、戦争は利益を生み出すのである。本来、経済は必要性こそが基盤であるべきなのである。戦争は、損だ。儲からない、そう自覚できる経済体制を築かなければならない。その為にも、消費型経済を克服する必要があるのである。

 戦争が経済にとって有効な効果を上げるというのは幻想である。ただ戦争で儲ける者がいる。得する者がいると言う事である。戦争は、ビジネスになる。それだけである。
 では、戦争に経済にとって良いことがあるかといえば、戦争が物理的、人的破壊を伴う以上、経済的には、常に負の効果しかない。それを忘れるべきではない。戦争で得する者や国は、当事者や当事国ではない。馬鹿みたいな話である。当事者は得をしないのに、漁夫の利で戦争で儲ける者がいる。そう言う人間は、影で戦争を仕掛ける。当事者達にとって戦争は良い事など何もないと言うことを自覚すべきなのである。戦争をする奴は馬鹿なのである。

 戦争を真になくしたいのならば、戦争の原因となる経済的な原因の芽を摘む必要がある。理想や理念だけでは、戦争は防げないのである。

 軍は、凶器である。軍は、一大産業である。軍は、矛盾した存在なのである。つまり、一方で、最強の楯を求め。もう一方で、最強の矛を求める。相手国が新鋭兵器を開発すれば、更に強い兵器を開発しようとする。常に、相手に優位に立とうとして軍拡競争に陥りやすいのである。軍事技術が先端を行く理由がそこにある。軍人は、事、技術に関しては、革新的であり、新しい物好きなのである。故に、軍事費を野放しにすれば、際限がなくなる。そして、戦争ほど儲かる商売はそうざらにはないのである。軍は、産業なのである。利権や既得権の温床なのである。つまり、腐敗しやすいのである。
 その上、軍は凶器である。公に武器を携行できるのは、警察と軍だけであり、装備から見たら、警察は軍の足元にも及ばないのである。そうなると、軍は、最強の暴力装置となる。軍が高い忠誠心と倫理観を失えば、軍を抑制できる力は、国内にはないのである。
 これらを善く熟知した上で、国防理念を明確に確立する必要があるのである。

 戦争は、状況が引き起こすものである。一部の権力者だけが起こすものではない。また、一部の権力者によってのみ戦争は起こせるものでもない。戦争の背後には、戦争が起きる状況や仕組みが隠されているのである。その状況や仕組みを排除しない限り、戦争は不可避的に引き起こされる事象である。

 戦争や革命は、経済体制を劇的に変化させ、人々の生活基盤を根本的覆してしまう。それは、その国に住む者全てを巻き込むのである。戦争が起こってから、こんな筈ではなかったと思っても遅いのである。

 戦争は厭だから、自分達は、戦争に反対しているのだから、戦争は向こうから避けて通ってくれる。そう本気で信じている者がいたら、余程のお人好しか、馬鹿かのいずれかである。しかし、事戦争に限って言えば、人が善いというだけで片付けられない問題である。戦争をなくしたいと思うのならば、戦争の真の原因を明らかにした上で、対策を立て、実行するしかない。また、侵略者が自分の行動を抑止するように、戦争に備えなければならない。また、自分達が、経済的事由によって戦争をせざるをえない状況に追い込まれないことが肝心なのである。

 戦争も経済である。戦争は、資源が自足できない地域から、資源が豊富な国に対する侵略という形で始まる。要は、軍事力に訴える前に、経済的に解決する方策を模索することである。戦争が政治の延長線にあるとするならば、戦争は、経済の延長線上にも位置するのである。

 勝者の驕り。敗者の卑屈。何に対し、誰に対し詫びるべきなのか。それは、人類に対し、神に対し詫びる以外にない。勝者には、勝者の正義があるように、敗者には、敗者の正義がある。勝者が、勝者の正義を振りかざせば、戦いの真の原因は見失われてしまう。戦争にの惨禍には、勝者も敗者もなく。ただ、弱者の犠牲だけが無惨なのである。

 国際正義というのは、勝者の正義に過ぎない。敗者の正義は認められない。ただ、勝者の憐憫を頼る以外にない。これまで、人類の歴史は、争いの歴史だった。それが経済が直接絡んでいればいるほど、えげつなく、また、醜い争いとなってきたのである。

 戦争の原因のほとんどは、内政問題、即ち、国内にある。外圧による原因、つまり、仕掛けられた戦争もあるが、その場合でも相手国が戦争を仕掛けてくる原因の多くを自分達で作り出している場合が多い。そして、その多くは、漠然とした不安や脅威が、即ち、疑心暗鬼や恐怖心が作り出している幻想である。自国が、自分の国だけで成り立つのならば、他国を侵略しようとはしない。自国が現に成り立っていないか、成り立っていけなくなるのではないのかという脅迫概念が戦争を引き起こす最大の要因である。(「軍事学入門」別宮暖朗著 ちくま文庫)
 戦争の原因となる漠然として怖れや不安の芽をなくさなければならない。

 戦争が、現実ならば、平和も現実である。つまり、平和は、現実を直視して、認めないかぎり実現することは難しい。戦争を起こすのも、平和を維持するのも本質は同じ力、権力である。権力を否定したところで、この現実に変わりはない。厭なことに目を瞑り、あるいはなかったこととしても何の解決にもならない。むしろ、事態を拗(こじ)らせるだけである。



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