我々は、過去の歴史に何を学んだのだろう。近隣諸国の善良さだというのだろうか。それとも、暴虐であろうか。なぜ、国民は、国を守るために、武器を取り戦ったのか。彼等は、戦争狂のパラノイアだったというのか。それとも愚者だというのか。

 なぜ、多くの若者達は、戦場で死んでいったのか。それを後世、愚かだと笑うのは容易いことである。本当に、彼等は愚かで犬死にだったのであろうか。本当に、彼等は、上官に逆らえず、ただ、言われたままに死んでいったのであろうか。命令されたから黙って死んでいったのだろうか。
美化することでもなく。また、悲惨さを強調するのでもなく。事実を直視することである。彼等に責任を問うのではなく、彼等の志を問うべきなのである。生き残った者が、贅沢三昧をし、快楽に溺れ、後ろめたさから、彼等を無視するか、侮辱している。しかし、今日の日本の平和と繁栄の礎を築いたのは、間違いなく彼等なのである。

 歴史から学ぶべきは、真実なのである。夢でも願望でもない。事実である。
 経済は、歴史的産物であり、歴史的に経済制度は作られたものである。なんのプロセス、過程もなく出来上がった機構ではない。しかも、経済体制は、自然になるものではなく。意志的に創り出された体系である。そこには、何等かの人間の営み、意志があるのである。それを忘れてはならない。
 その時、その時代の人間の営み、意図、思索、意志がいかなるものだったのかを解き明かさない限り、経済という現象を解明することはできない。経済というのは、極めて、人為的なものであり、天然自然に出来上がった、つまり、なったものではないのである。

 現代の経済学の多くは、政治と経済とを切り離して考える傾向がある。しかし、政治と経済は、不離不可分の関係にある。その延長線上に戦争もある。つまり、経済の問題は、政治の問題であり、戦略的問題でもあるのである。

 国際社会は、常に、戦いの場、戦場であった。ただ、その戦いの手段が、政治的手段によるか、経済的手段によるか、軍事的手段によるかの違いに過ぎない。その根本にある本質は変わらない。何をもって平和的な手段というのか。ただ、言えることは、常に何等かの意思が働いているという事である。その根源にある意思を正さない限り、この世から争い事はなくならない。その根源にあるのは、人間の欲望であり、正義であり、理想であり、国家の意志なのである。しかも、表に現れるものは結果にすぎない。何事も勝てば官軍なのである。敗者に正義はない。それが国際社会の冷徹な掟である。

 経済を政治的に中立にあらんとすることほど愚かな試みはない。その様な試みをするものは、何等かのはかりごとを隠しているか、他国に利用されるだけである。もし、正義を行うつもりならば、政治的に中立たらんとするより、自らの依って立つところを明らかにする以外にない。なぜならば、正義は、個々人が依って立つものによって変化する相対的なものであり、普遍的なものではないからである。

 この世界が、ただ、隣人の平和のために、自己犠牲も厭わない人間達で構成されているとしたら、なぜ、奴隷制度があり、阿片戦争が起こったのか。
 なぜ、フランス革命やアメリカ独立戦争が起こったのか。なぜ、ユダヤ人は、虐殺されたのか。

 陰謀だ、謀略だと騒ぎ立てるのは、勝手である。しかし、真実から目を背けるべきではない。彼等は、戦わざるをえなかったから戦ったのである。その現実は今も変わりないのである。

 小国は、常に、大国の都合に振り回されてきた。国家の盛衰は、常に、人々の生活を左右してきたのである。ただ、己(おのれ)の欲望のためだけに人は、命をかけて戦ってきたわけではない。ただ、好(す)き好(この)んで命を賭したわけではない。愛する者のため、愛する家族のために人々は戦ってきたのである。戦うには、戦わなければならない、動機や原因があるのである。その要因、要素を取り除かない限り、戦争はなくならない。そして、その多くの要因、要素は、経済にある。だからといって金のために戦っているとは言えない。だから、政治と経済とを切り離そうとするのである。しかし、ほとんどの戦争の原因を辿ると経済に行き着く。だからこそ、平和を実現するためには、経済の問題はさせて通れないのである。

 しかも、我が国、日本は、小国なのである。経済大国と驕(おご)ったところで、食料もエネルギーも自給すらできない。自給どころか、そのほとんどを海外に依存せざるを得ないのである。日本は、世界で孤立すれば、忽ち、飢え、かつ、渇くのである。それが現実である。アメリカが風邪を引けば日本は肺炎になる。それが経済の実体である。国内の景気は、海外、特に大国の需要に依存しているのである。金利一つとっても、自国の都合だけでは、決められないのが実体なのである。自国の都合を海外に押し付けるわけにも行かず。かといって、近隣諸国に依存しないわけにもいかない。それが日本の置かれている現状なのである。海外の消費が陰れば日本の産業は立ちいかなくなる。産油国で紛争があり石油価格が高騰すればすぐに物価に反映される。海外の戦争や災害、紛争は、日本経済に重大な影響を与える。国際政治を無視したら日本経済は成り立たない。(「ガソリン本当の値段」岩間剛一著 アスキー新書)あの戦後の食糧難の時代でも2007年現在よりも食糧自給率は高かったのである。それが、現実である。日本経済を将来を占う時、大国の動向は、排除できない要素なのである。(「世相でたどる日本経済」原田泰著 日経ビジネス人文庫)

 人間は、有限な世界に生きているのである。限りある資源、限りある付き合い、限りある時間、限りある命。我々の世界は、限りがあるのである。無限の世界に生きているわけではない。その有限な資源を分かち合って生きていかなければならない。それが宿命なのである。
 戦後、我々は、豊かさの中で生きてきた。だから、我々は、豊かであることに慣らされている。しかし、多くの人々は、いまだに飢え、貧困の内にいることを忘れてはならない。先ず生き抜かなければならない。それが前提なのである。

 諍いや争い、戦争、不正の背後には、金がある。即ち、経済的問題が隠されている。金と女と言うが、現実は、金である。経済的問題を克服しない限り、この世の中から、犯罪や不正、戦争はなくならないのである。そして、その経済の問題は、欲望の問題でもある。

 我々は、国際情勢を正しく見極めなければならない。必要なのは、楽観でも、悲観でもない。事実である。自分達が生存していくために必要なものは、何か。何が必要なのか。それを冷徹に見抜かなければならない。

 我々の、祖先は、奢(おご)れる者、久しからずと常に自らを戒めてきた。しかし、今日、我々は、繁栄の極にいながら自らを律することすらできずにいる。この世を動かす力は、残念ながら、善良さよりも、妬みや嫉妬、恨みの方が強い。善意や愛情によって施しをする人は少ないが、憎しみや恨み、妬みで人を害するものは多い。それが現実なのである。

 国を守ると言う事は、家族を守ることである。それは、どの国においても命懸けの仕事である。
 小泉八雲が日本の若者を称賛した文がある。その中で、近くの若者を招いて白飯を馳走したところ、涙を流して感激したが、一膳で止めた。もっと食べろと進めたら、折角ですが、これ以上食べると贅沢の味を覚えると辞退したというくだりがあった。それを聞いて、日本、恐るべしと八雲は実感したという。それが経済である。
 イギリスの食事がまずいのは、どの様な環境でも生きていけるようにするためだと聞いたことがある。同様に、スイスのパンがまずいのは、備蓄した小麦粉を使っているからだとも。それこそが経済の実相なのである。

 イラクは、なぜ、クウェートに侵略し、湾岸戦争が起こり、そしてイラク戦争となったのか。そこに石油がなければ、アメリカをはじめ大国は、あれだけの犠牲を払ってまで進攻したであろうか。
 我が国は、なぜ、自衛隊を派兵したのか。本当に大義のためだけだったのであろうか。石油の多くを湾岸諸国に依存しているという事実は、意味がないのであろうか。

 経済を直視し、為すべき事を見極めない限り、日本は、世界の孤児となり、やがてまた衰退の道を歩むだろう。世界は、有限の資源しかかなく。更に我が国は、世界の中でも資源が乏しい国の一つなのである。

参考図書
「石油で読み解く完敗の太平洋戦争」岩間 敏 著 朝日新書 57


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