我々がよく言う競争の原理は、速く、遠くへ到達した者が得をするか。または、目的地に早く到着した者が勝つことを意味するのに対し、闘争の原理とは、相手を打ち負かし、潰すか。また、より多くのものを奪い取った者が生き残るという生存闘争を意味する。
 競争と言っても生存競争と言う意味での競争は、市場原理で言うところの競争とは違う。なぜならば、市場は、独占や寡占を嫌うからである。ならば、市場の原理で言うところの競争というのは、独占、寡占に至らないような競争でなければならないことになる。競争の結果、独占、寡占状態になったら、市場の原理そのものを否定してしまう結果になるからである。

 それ故に、市場における競争は、規制によって保障され、保護されている。闇雲に規制を緩和することは、競争の原理に反するのである。
 徹底した競争には、共存共栄や妥協の余地はなく、生き残りをかけた闘争の道しか残されていない。

 市場の状態には、飽和状態に達していない状態と、飽和状態に達している状態とがある。市場が飽和状態になると流量と在庫が過剰になる。この様に、過剰になった物が市場に溢れていることを過剰流動性という。過剰流動性は、物的市場、人的市場、貨幣的市場いずれにもある。
 物的市場や貨幣的市場の流量が不均衡になり、物的、貨幣的のいずれかが、又は、双方の流動性が高くなる、あるいは低くなるとインフレ、又は、デフレという現象を引き起こす。
 特に、貨幣は、市場における媒体であるために、貨幣的市場が過飽和になり、過剰流動性が高くなると、いろいろな障害を引き起こす。
 通風という病がある。血中の尿酸が過飽和状態になり、結晶になって身体の節々にたまり、悪さをする病気である。風が吹いてもいたいというので痛風と言われるのだが、投薬か食事療法によって治す。それから生活習慣をかえることが大切になる。過剰流動性も似たようなところがある。
 市場の働きは、市場の状態に左右される。それ故に、市場の状態と、その状態を引き起こしている前提条件を明らかにしないと、対策は立てられない。前提条件には、市場に期待する機能も含まれている。市場の状態を無視して、一律に、競争が良いというのは、野蛮な発想である。
 飽和状態に達していない市場は、成長によって維持されている。しかし、飽和状態に達した市場は、成長力が障害になることもあるのである。成長にある人と成長が止まった人とでは、条件が違うようにである。そして、市場の状態では、成長期よりも、成熟期の方が長く、また、難しい問題が多いのである。

 日本でも高度成長が続く間は、競争の原理が機能していた。しかし、成長期が過ぎて、成熟期になると競争の原理が、闘争の原理に変質してきたのである。そこで、無原則に規制を緩和すれば、市場が寡占、独占的になるのは、必然的帰結である。

 市場は、需要と供給、及び、物流の調整の場であり、交換価値の裁定の場である。そして、貨幣経済下では、交換価値を貨幣価値に換算する場である。市場は、それ以上でもそれ以下でもない。市場に必要以上の幻想を抱くのは間違いである。市場は、資本主義固有の場ではないし、社会主義に適合しない場でもない。市場は、あくまでも一つの場なのである。

 バブルの発生は、相対的価値の均衡が崩れた時に発生する。資産価値は、それをを購入した時点から複数の価値基準が生まれ、それぞれ独自の価値を形成するようになる。例えば、土地は、取得原価、相場、路線価、売値と言うようにである。土地は、一物五価とも言われている。かならずも一物一価ではない。株になると、分秒単位で価値が乱高下している。株は、企業のもつ本来の価値から乖離し、それ自体が市場を形成し、市場価値を持つ。
 また、石油は、実物商品から市況商品、政治商品へと変貌を遂げている。今や、石油価格は、市場の需給だけでは、決まらなくなってきた。それが石油の実物市場に深刻な影響を及ぼしている。それを今更、市場の原理に任せきればいいと言うのは、暴論にちかい。2008年の石油の暴騰は、一種のバブル現象である。バブルの背景には、一つの財を構成する価値の乖離がある。

 競争原理が何が何でも正しく、規制はすべからく撤廃すればいいと言うのは、乱暴である。競争も規制も相対的である。不況が深刻化した場合は、競争を抑制するような政策をとり。市況の活力が奪われ、不活性化してきた場合は、規制を緩和して競争を促す政策をとるべきなのである。

 所得は、貨幣で支給される。消費は、所得を下回る。それだけでは、需要は、所得を上回ることはない。重要なのは、負債である。つまり、借金の技術であり、余剰資金は、貯蓄と投資に向けられる。投資乗数効果は、貯蓄と投資によってもたらされる。

 所得を上回る資金不足は、借入、借金によって賄(まかな)われるのである。故に、金利が重要となる。
 そして、金利は、資産価値に時間の概念を結びつける。金利によって時間の経過が価値の中に刷り込まれるのである。また、資産の交換価値を分割することも可能となる。

 資本主義経済、および、その延長線上にある構造経済は、利益と借金の経済であり、利益と借金を罪悪視している限り、理解することはできない。

 通常、消費は所得、可処分所得の範囲内で行われる。他から、資金を調達しないかぎり所得と貯蓄以上の消費はできないのである。

 人間の社会の活力は、差によって培われる。つまり、人と人との本質的な差が活力を生み出すのである。この格差から生まれる活力をいかに上手く活用するかが、社会を活性化する鍵を握っている。
 近年、社会の活力を奪っているのは、学級制度的、平等主義とその背後に隠れている成績による差別である。
 戦後の日本における社会に対する基本的認識は、学級制度が基調としてある。戦後生まれで義務教育の先例を受けた者は、どうしても、学校生活の悪弊が拭いきれないのである。学級というのは、同年齢の者が同じ環境(社会から隔離された閉鎖的状況)で、同じ事を、同じ教科書に基づいて一律に教育されている。教えられたこと以外は、やってはいけない。教えられていないことの全てが、悪い、間違いとは言わないまでも、少なくとも正解ではない。
 しかも、休みと休み時間は、予め周期的に与えられている。この休み時間というのがくせ者なのである。自由意志と言うが、時間的に拘束することが一番自己を抑圧することである。
 学級型社会というのは、極端な平等主義と閉鎖主義である。しかもその閉鎖的な世界で、一人の教師が絶対的な権力を振るう。独裁的な世界なのである。しかも、学年間の格差、成績による序列がハッキリとしている。全てが成績や学齢によって差別化されている極めて、差別的社会なのである。不可解かもしれないが、平等的状況と差別的状況が混在している極めた特殊な状況である。この環境下に十年以上置かれている。
 そして、そのまま社会に放り出されるわけである。まるで長い間、水槽に変われていた魚がいきなり大海に放り出されるようなものである。大海に戻されても、結局、水槽にいた時と同じ行動をするしかない。それが、社会生活の節々に現れている。
 学級社会で培われた行動規範によって現代社会は支配されつつある。
 言われたことを言われたとおりにしかできない。教えられたこと以外何もできない。しかも、それが一律均等にである。それが社会の活力を奪っているのである。

 自由と平等が、現代社会の基本である。しかし、自由も、平等も国家理念としてはあっても、建国にあたって明確に定義がされているわけではない。特に、平等の概念を同等の概念、結果の平等によって定義しようとする傾向がある。
 共産主義の失敗の原因は、需給を調整する場としての市場の機能を否定したことである。そして、この点は、公共事業も同様である。資本主義経済が失敗するとしたら、この市場機能、つまり、収益を中心とした市場経済主義、商賤主義を否定した公会計によるであろう。つまり、財政の破綻が、資本主義の破綻に繋がるであろう。皮肉であるが、資本主義は、資本主義体制内部に資本主義に従わない部分を持ち、しかも、それが国家の中枢にあることによって破綻することが予測されるのである。
 平等と同等とは違う。平等を同等という概念で定義するのには無理がある。平等の概念を、同等主義、同一主義によって成り立たせるためには、財の出し手の認識と受け手の欲求、双方が、同質、同量であることが前提となってしまう。もし、双方が均一均質でなければ、平等は成立しなくなる。格差を認めない平等主義の落とし穴がそこにある。しかも、認識や欲求の源は、個々の対象であり、個々の主体であるから対象と主体の属性に支配されている。
 均質の均一の財を求めても、全ての財を均質の規格に当て嵌めることは困難である。均質、標準化という条件を満たしているのは、大量生産方式の工業製品である。しかし、それでも全ての品質を均一にすると言うのはかなり難しい。中国で服装を人民服に統一した時期がある。しかし、されでも素材によって違いはでざるをえない。また、仕立てによっても違いが出る。大体人民服を誰がデザインするのかが問題になる。また、着物というのは、デザインを統一すればするほど個体差が浮き彫りになる。結局、市場の需給による均衡に基づかなければ、無作為で分配するか、力のある者が一番上等な部分を独占してしまうのである。
 反対に受け手の側から見れば、常夏の島と酷寒の国と住むところで、住宅も服装も違う。条件が違えば、必要とする物も違ってくるのである。大体、人間は、好み違うし、体格も違う。肉が好きな人間に魚を与えても差別されていると感じるであろうし、魚が好きな者に肉を与えても同様である。体格が違えば、必然的に着る服も履く靴もサイズが違う。相手の好みや体格に合わせようと思ったら、明らかに差を付けなければならなくなる。

 また、能力に応じて働き、必要に応じてとると言っても、それは、無制限のビュフェ形式の料理のようなもので、料理の質も量も均一にする事は不可能である。市場の需給による調整、均衡に基づかなければ、全ての欲求を予測するか、ただ、供給する物を同じ物にするしかない。結局、料金だけが同等なのだと成りかねない。負担や取り分は、最初から差が生じるのである。
 突き詰めると、同等な社会というのは、禁欲的、モノ、単一的な社会に成らざるを得ない。それは、誰一人満足させることのできない、不平等な社会に成らざるを得ない。それが、共産主義の失敗の一因である。
 社会主義的な社会ほど、格差を前提としなければ成り立たない。社会的平等の上に、いかにして差を付けるかが、社会を維持するための鍵を握るからである。平等の概念というのは、格差の水平的、垂直的の均衡の上に成り立っているのである。それは、結果の平等ではなく。存在的平等なのである。そして、同等の概念の中で最も危険なのは、学級的平等である。学級的平等とは、共産主義的平等である。学級的平等は、差別を内包しながら、固定化し、体制化してしまうからである。

 市場は、均質から異質へ、統一から分散へと変化してきている。それは、生産様式や消費様式(ライフスタイル)の変化からきている。

 市場に流通させる貨幣の量を調整するためには、市場の規模を特定する必要がある。

 市場の規模は、市場に流通する財の量で決まるのであり、通貨の量で決まるわけではない。経済とは、本質的に配分の問題なのである。しかし、市場規模は、貨幣価値に換算されて表示される。

 市場規模とは何を指して言うのか。株式市場を言えば、株の時価総額を指して言うのか。それとも取引高、出来高を指して言うのか。

 市場の規模は、市場の場の表面に現象として現れてくる取引の総量を指して言うのか。それとも、その背後にある潜在的財の価値の総量を指して言うのかが、問題となるのである。つまり、株で言えば、時価総額を指して言うのか、取引高、出来高を指して言うのかである。
 それを特定するためには、何のために市場規模を知りたいのかが重要となる。
 資本主義を成り立たせているのは、収益と資本である。資本主義を成り立たせているのは、収益と資本であるが、実際に経済を動かしているのは、資金である。その資金の源がどこかが問題となる。それは、市場の背後あるストックの部分にある。しかし、そのストックの価値を決めるのは、市場の表面に現れるフローの部分である。故に、市場規模を特定するためには、ストックとフローをとを結びつける仕組みを知る必要があるのである。

 市場の規模は、生産力と消費量によって確定する。生産力は、供給力として、消費量は、需要量として市場に現れる。

 水準は、生産力と消費の問題である。全員が金持ちになるのか、貧乏になるかの問題である。水準とは、生活水準である。我々は、現在ある生活水準を基本にして物事を考える傾向がある。しかし、ほんの50年ほど前には、今のような生活水準は、想像すらできなかったのである。テレビも、冷蔵庫も、クーラーもない。道路だって舗装すらされていない。高層ビルもない生活、それが、平均的な生活だったのである。この様に生活水準の差は、時間的、空間的な差として存在する。
 需給は、市場の均衡の問題である。市場は、需要と供給を調整し、均衡させることで、生産と消費を制御する。需要と供給によって、生産と消費を調整するための媒体が貨幣である。本来、貨幣価値というのは、交換を媒体するための基準であり、交換価値を象徴する情報である。ところが、貨幣価値が、需要と供給という実体的市場価値が分離し、独自の価値を形成することがある。それが投機的価値である。投機的価値は、市場の機能を低下させ。状況によっては、破綻させる。それがバブル現象である。
 その国の生活水準は、生産力と消費量によって決まる。それに対し、貧富の格差は、分配から生じる。格差は、それぞれの経済単位の働きによって裁定される。しかし、格差が機能するのは、格差が是正する範囲内である。格差が固定的なレベル、絶対的なレベルになると格差は、無意味となり、その働きが機能しなくなる。即ち、極端な格差は、分配機能を破綻させる。

 社会資本を変動するのは、相場(不動産相場)や資本市場の動向である。
 社会資本を形成する資産には、第一に、時間的価値が減価する資産。第二に、時間的価値が何等かの相場や物価と連動している資産。第三に、時間的価値が金利と連動している資産がある。そして、第四に、時間的価値が働かない資産がある。

 資金の調達は、ストックに依り、資金の運用は、フローによる。 相場が時価総額を引き上げる。フローがストックの価値を増幅し、ストックがフローの資金調達を拡大する。相場そのものの取引はゼロサムである。
 ストックが資金の源なのである。ストックとなる資産は、実需によってのみ変動するのではなく。投機的な動きによっても変動をする。それが、時として実体的経済に捻れを引き起こす事がある。しかし、投機的な働きを否定的にとらえてばかりいたら経済を理解することはできない。経済の原動力となる仕組みは、投機的な活力が担っているからである。つまり、経済を変化させるのは、貨幣の時間的価値であり、その時間的価値を機能させているのが投機的動きだからである。
 投機的動きは、見かけ上の価値を拡大し、資金源を豊富にする働きがある。例えば、不動産市場が好例である。市場に出回る不動産の需給の均衡が崩れ、不動産の時間的価値が高騰した場合、不動産全体の価値を高める。それは、潜在的な不動産の担保価値を高め、資金調達力を上昇させる。それが金利を刺激して、貨幣の時間的価値を高める。
 その結果、1990年代の日本のように東京都区内の土地でアメリカ全土がかえるなどと馬鹿げた話がでる。しかし、それは、必ずしも実需と結びついた動きではない。著しく実需と不動産の資産価値が乖離すると実需そのものが減少し、やがて、取引高を減少させる。それが、何かのキッカケで暴落すると資金の調達力を減退させ、実体的経済にも影響を及ぼす。
 それがバブルである。

 この様な現象を抑制するためには、市場に規律を持たせる必要がある。経済の異常な上下動によって市場の仕組みが破壊された時は、競争の原理を不況カルテルのようなもので一時的に抑制し、市場全体の規律を回復する必要もあるのである。



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