産業の論理とは何か。それは、産業が何を前提として成り立っているかの問題である。つまり、産業を成立させている前提は、産業の効率性や、生産性、または、企業の収益性なのか、それとも、産業の社会的な機能なのかなのである。それを明らかにするためには、産業、又は、産業を構成する企業は、誰のために、また、何のために存在するかを解明する必要がある。
 産業や企業は、株主のためにあるのだろうか。つまりは、投資家のためにのみ、産業や会社は存在するのか。産業や企業は、社会や国家を構成する要素に過ぎない。産業や企業が存在するのは、本来、社会や国家を成立させるためにである。ところが、資本主義社会においては、社会や国家が、産業や社会のために存在するような転倒、価値の転倒がある。
 その為に、企業の生産性や効率性、収益性が国家の利益や社会の利益よりも優先される場合が多く見られる。それでは、投資家のために、国家社会が存在するようになってしまう。

 産業や企業の目的は、国家、社会の目的に準じるものでなければならない。例えいくら、収益性が高くても、海賊や山賊、強盗、麻薬と言った犯罪は、産業や企業としては成り立たないのである。

 哲学や倫理観と経済は結びつかないのか。違う。違う。哲学や倫理観と最も結びつかなければならないのが経済である。仮に、金になるのならば何をやっても善いという考え方が蔓延してしまったら、社会など一日も成り立ちはしない。

 何でもかんでも、民営化してしまえばいいという発想がある。ならばなぜ、民間でできて国家や公共機関ではできないのか。それは、競争の原理が働かないからだと短絡的に決め付けてしまう傾向がある。しかし、それほど、事は単純であろうか。
 なぜ、公営、国営企業は赤字となるのか。この問題は、自由主義経済と統制主義経済との問題の裏腹にある。そして、財政問題でもある。この問題が片づけば、逆に言えば、この問題が片づかなければ、財政赤字は解決できない。
 なぜ、財政は、赤字になるのか。それは、極めて、構造的な問題なのである。財政赤字の原因の根本は、経済上の問題と言うより、元々、公営、国営企業、国営企業に経営という思想があるのかという問題に行き着く。
 財政赤字を引き起こす原因は、多分に、倫理的、意識的問題である場合が多い。第一の原因は、共同体意識が希薄だと言う事であり、その為に、政府、公共団体の組織は、機関化してしまっているという事である。
 機関化すると、共同体の成員としての責任感が喪失してしまう。つまり、組織は、自己実現の場でなくなり、組織を健全に維持するための動機が失われ、組織活動に消極的となる。無責任であることが保身に繋がり、日和見主義、事なかれ主義が横行する。
 不正を糾すよりも自分の年金の支給を気にするというようなことが頻繁に見られるようになる。こうなると組織は、自浄作用を喪失する。
 第二に、考えられるのが、組織の規模が巨大化してしまい、個々の成員が全体像を把握することができなかったり、共通のビジョン、全体像を組織が共有できなくなってしまっているという点である。また、組織的仕事の成果と自分の役割とが結びつけられない、結びつけにくいという点である。つまり、成員が仕事から疎外されているという点である。
 組織が巨大になり、組織の成員から、本来の機能が見失われると、組織の成員にとって組織の維持、拡大自体が自己目的化してしまう。
 また、第三に、第二の点とも関係してくるが、自分の労働の成果、仕事の実績と評価、報酬が結びついていない。この事は、労働の評価が絶対的評価、客観的基準に基づいてされる根拠とされ、それによって、ますます、実績と評価が乖離してしまう傾向が生じる。極端な例で言えば、仕事の実績よりも昇級試験の結果の方が重視されるというような形で現れる。
 また、生活も保証され、仕事も固定的になり、一定の時間を勤めれば、一定の所得が確保されるとなれば、目新しいことや、冒険的な仕事、野心的な仕事に挑戦することは危険極まりない。何事も平穏無事に、前年、先例に準じてただ、与えられた仕事をこなすことが利口な生き方なのである。年金、定年まで、無事勤め上げることが根本的目標となる。
 第四に、労働の比率が、管理業務や事務業務と言った非生産的業務に偏っていると言う労働の質的問題である。 
 第五に、意識、倫理観、認識の問題がある。公益事業に携わる人間においては、金銭を蔑視する風潮が強く、金銭的問題を議論すること自体、下品な行為と見なし傾向があるという事である。また、自分達を、何か特別な仕事をしている、選ばれた者という、特権的意識、エリート意識がある。その背景には、権力がある。
 経営センス、また、金銭感覚がなければ、必然的に収支、損益にも疎くなる。その為に、経営責任という発想が乏(とぼ)しくなる。民間企業が破綻すれば、財産は没収され、最悪の場合には罪に問われる。公営企業が破綻しても、退職金を平然としてもらい。罪悪感が見られない、ひどい場合は、自分も被害者だと言わんばかりの言動をとるのは、自分が経営責任者だという自覚が欠如しているからである。
 この様な金銭に対する蔑視とエリート意識は、見せかけの清貧思想を生み出している。またそれが、贈収賄の原因ともなっている。つまり、エリート意識が高い癖に、生活は質素であることを求められる。つまり、求道者的生き方を強要されることになり、それが逆に、裏表を生じさせる結果を招いているのである。
 また、エリート意識は、労働に対する蔑視にも結びつく。つまり、単純労働は、奴隷労働として差別する思想である。しかも、金銭や労働に対する蔑視は、無自覚であることが増長する。この様な思想は、休日の無原則な増加という形で現れる。彼等にとって、働くのは奴隷であり、労働を強要すること自体が差別だと考えるのである。
 この背景には、極端なな平等主義がある。平等というのは、本来、平等の権利と義務を指して言う。その限度においては、妥当である。それが、所得や所有権にまで及ぶと、主観的、恣意的評価をきらい、客観的、無作為な評価を公正、中立な評価として、労働の質よりも労働の量によって全てを一律に評価すべきだという思想になる。そして、それは、官僚機構のような非生産的な組織の評価体系の基盤となり易い。
 平等思想は、相対的評価をきらい絶対的評価は、基礎とする。競争の原理を導入する必要性というのは、この絶対的評価を脱し、評価の相対化をする上で有効だと言う事である。ただ、評価の相対化は、競争の原理を導入するだけで得られるわけではない。競争の原理と言っても試験制度にも競争の原理はあり、実績とかけ離れたところに試験制度を導入すれば、競争の原理はむしろ逆効果になる。
 相対的評価は、仕組みで成立する。つまり、仕組みが重要なのであり、その仕組みの根本理念こそが重要な思想なのである。
 官僚は、実質よりも名目を重んじる傾向がある。それは、平等主義的傾向により、実質よりも名目的、外形的な要素が評価されるからである。
 第六に、巨額の税収、予算によって利権が発生すると言う事である。収益性と結びつかない、つまり、経営感覚と結びつかないところに巨額の資金があれば、必然的に利権化する。つまり、仕事に対する評価基準がないところでは、仕事の成果と資金が結びつかないからである。外形的要素(過去の実績、資格、人間関係、見積金額等)でしか、仕事の実績評価がされない。
 一旦利権が生じると、不正は、不正の大小を問わず、組織の隅々まで浸透してしまう。組織の腐敗が始まるのである。
 無目的な仕事は、コントロール、抑制することが困難である。成果は、目的から測られる。故に、あてのない仕事、目的のない仕事は、成果に対し責任がないから不正の温床となる。利権を抑止するためには、無目的な仕事を排除し、合目的的な予算に切り替える必要がある。
 第七に、単年度予算主義がある。年度末になると、やたらに道路工事や公共事業が始まる。それは、未達予算の消化にある。予算を消化しきっていなければ次年度の予算が削減されるからである。これなどは一種の犯罪行為である。
 この例を見ても解るように、単年度均衡予算主義が、予算を硬直化させ、融通をなくさせる。
 この様に見てくると、財政が破綻するのは必然的帰結である。

 大多数の人間は、なるべく余計な仕事はせずに、適当に言われたことだけをこなして、決まった日に、そこそこの給料をもらえればいいと思っている。余分なことをして責任を問われてもつまらない。なるべくならば、厄介で、面倒臭い事から解放されたいと思っている。
 組織が巨大になれば、別に、自分一人くらい手を抜いたところで大勢に影響ないと思い込んでいる。それが良いとは思わなくとも、かといって、自分に責任があるとも自覚していない。
 この様な人間に仕事をさせようと思ったら、仕事をしなければならない環境、状況に追い込むしかない。
 しかし、志のあるものは違う。やらなければならないと一度決めたら、何が何でもやり抜く。ただ、志だけでは、実現する事は難しい。仕事を成就させるだけの能力。技術が必要なのである。ただ、いずれにしても志のない人間は信用しきれない。志のない者は、信用できない。

 社会の活動力の源は、格差である。その格差の幅が極端に大きすぎたり、固定的であったり、意味不明なものだとその効力を発揮できないのである。
 どんなに努力しても、ある一定以上は望めないとしたら、望むことそのものをしなくなり、活力を失う。また、一度、序列が定まるとそれが固定してしまい、実績や結果に対する評価がなされなくなれば、つまり、やってもやらなくても評価が同じならば、人はやる気をなくして活力が削がれる。根拠のない理由で差が付けられれば、人は納得ができず、活力をなくす。
 だからといって、格差が悪いと、全てを均一にしてしまうと、社会の活動力は失われるのは、共産主義国によって実証された。もっとも、何もかも、均一、同等にせよと言う事を社会主義が意味しているわけではないが・・・。
 経済の源となり活力を生み出すのは、格差である。その格差は、絶対的な格差ではなく。相対的な格差である。

 つまり、経済体制は、水平的均衡と垂直的均衡からなる。このバランスを採ることが経済政策にとって重要なのである。

 格差にも位置エネルギーから形成されるストック部分と運動エネルギーから発せられるフローな部分とがある。

 流通の合理化と言うが、わざわざ、仕事をシェアしてまで雇用を確保しようとしている国もあるのである。それは、経済に対する見方が違うのである。仕事をシェアしようと言う考え方は、経済を需給という観点からのみ捉えているのではなく。労働と分配という観点からも捉えていることを意味している。

 教育者という仕事は、やればやるほどきりがなくなる。しかし、手を抜けば、これほど暇な仕事はない。この場合、単位あたり労働というものをどう捉えるかが、重要となってくる。つまり、労働を量的側面だけで認識していたら、労働の質は認識できなくなってしまうのである。

 自分達に与えられた仕事を天職と見るか、ただの労働として捉えるかによって産業の有り様も違ってくる。しかし、それを現代人は認めようとしない。

 客観的であるという事と、公平、公正であると言う事は、同義語ではない。客観的基準によって全てを推し量ることは不可能である。人間は、主体的動物であり、人間の認識は、本質的に主観的なのである。

 日本では、自分達の職場は、自分達で清掃をしていた。今では、掃除は、別の業者がやる。お陰で雇用が増えると考えるようになってきた。

 しかし、それでは、職場に対する愛情が持てない。職場の持つ価値は金銭的な価値以外の何ものでもなくなる。その為に、職場はただの箱に過ぎなくなる。

 職場を、ただ生活費を稼ぐ場として考えるのか。自己実現の場として考えるかの違いである。それが経済に対する根本的な考え方の違いでもある。つまり、職業観の違いである。

 犯罪の動機の大多数は、経済的原因にある。盗賊・夜盗の類と産業を我々は、同列に語りはしない。しかし、現実には、海賊や山賊に等しい行為が産業として成り立っていた、あるいは、現在でも成り立っているという事実を無視するわけには行かない。特に、国家や国家権力による強奪は、防ぎようがないのである。だから近代国家は、国民に主権を与えることによって国民の主権を擁護しようとしたのである。この主権の根本にあるのは、所有権である。
 所有権の対極にあるのは、無所有なんかではない。盗みである。所有の反対は、所有権を否定し、奪い取る事、強奪、略奪である。無所有というのは、自己の側の問題だが、所有権を認めないと言うのは、所有権を主張する側から見ると所有物を奪い取られることなのである。
 つまり、無所有というのは、ただ、自分の所有権を放棄したに過ぎないのに対し、他人の所有権を否定する事は、他人の所有物を奪い取ることを意味する。つまり、汝、盗むなかれと言うのは、所有権を認め、保障することを意味するのである。
 つまり、所有権の否定は、国家による強奪、他人による盗み、他国による侵犯と言った一切合切を含んでいる。つまり、所有権にて対する最大の脅威は、国家や、国家に準ずる組織なのである。故に、世界宗教と言われる宗教は、先ず、窃盗と詐欺を禁じ、所有権の確立と保障をするのである。
 そして、所有権の範囲の認識と特定が経済の出発となるのである。この点に関しては、経済は、宗教的価値観に根ざしている。ただ、それを現実に運用するとなると、絶対的な基準では立ち行かなくなる。故に、我々が実際に生活していく上での行動規範、経済的価値観は、相対的なものとならざるをえない。

 経済は、現実である。家計にしても、観念的な理屈を繰り返すだけでは、生活実態を反映する事はできない。家計は、生活実態を反映したものでなければ成り立たないのである。

 忘れてはならないのは、宗教的価値観が経済に与える影響である。金利問題は、古くて新しい問題である。金利を取ることは罪悪であるとする宗教は結構ある。労働観も然りである。以前、味の素が豚の成分を誤って使って重大な問題を引き起こしたことがある。
 宗教的倫理観が経済に与える影響は大きい。また、それ以外に宗教的対立が引き起こす事件、災害も経済に重大な影響を与える。その好例がオイルショックである。経済とは、生活である。日々の生活は、宗教的規範に支配されているのである。故に、宗教的倫理観抜きに経済は語れない。

 経済的価値観を、思想や道徳のような絶対的価値観だと錯覚している者が多くいる。経済的価値観というのは、相対的価値観であり、そのとき、その場の状況、環境、条件によって変わってくるものである。
 規制を緩和しなければ、何が何でも駄目だ。規制を緩和すれば、何でもうまくいくというのは、乱暴すぎる。これなどは、合理的な理念ではなく、宗教的ドグマに近い。規制は、単独に存在するものではない。規制を成立させている前提や経緯、目的、市場環境等といった事からその妥当性を問うべきものである。規制、規制と言うのもおかしいが、規制を全て取り払えというのも極論である。何が何でも一方が悪くて、一方が正しいというのは、暴論である。

 経済を科学するという。また、科学的な経済と言うが、実際には、経済学は、科学と言うよりも思想や哲学に近い場合の方が多い。それを科学の名の下に正当化するのは間違いである。
 フィスカルポリシィーをどう考えるにせよ。マネタリストにせよ。自由貿易主義にせよ。市場絶対主義にせよ。民営化論者にせよ。彼等は、それが科学的、合理的論理に基づくと言うが、その本(もと)を糾(ただ)せば、思想的な飛躍である。認識の相違になる。
 それを突き詰めていくと、ある意味で、思想と言うよりも信仰に近くなる。

 実は、経済政策ほど、なぜ、どうして、どこが、悪いのか判然としないものはない。なぜなら、経済政策は、相対的なものであり、単独で成立する性格の命題ではないからである。

 現行の経済学を見ていて感じるのは、経営分析が、経済に結びつかない不思議さである。現実の実務と経済学とが直結していないのである。経済の現実は、個々の企業の現実の動きやその根本にある規範によって確定する。それなのに、経営の実体や経営者の行動規範がないがしろにされている。それでは実効力のある政策が実行されるはずがない。

 現代の産業を成立させたのは、会計固有の論理である。会計固有の論理は、決算にある。決算とは、一時点の財政の状態と一定期間の経営の実体を表すためになされる会計上の操作である。決算は、一時点の財政の状態と一定期間内の経営の実体を現す目的のためにある。一時点の財政の状態を確定するためには、決算の時点における資産の価値を確定する必要がある。そこで問題となるのが、未実現利益、非貨幣性資産、費用性資産、無形資産の処理が問題である。また、決算によって発生する勘定科目であるから決算整理事項・繰り延べ勘定も重要な意味を持っている。更に、それに、資本の論理が加わることによって資本主義は成立している。。

 会計の数字に実体的裏付けがあるわけではない。また、貨幣に実体があるわけでもない。実体はそのもの自体にあるのである。その意味では、会計的数字というのは、二重に実体からかけ離れている。ところが会計の数字が一人歩きを始め実物経済を支配し、振り回している。

 重要なのは、市場の透明性である。ところが、市場の透明さは、いろいろな関係者の思惑によって確保されないでいる。市場経済は、基礎としていながら、市場の透明さが保証されていないのである。それでは、経済が現実離れしてもおかしくない。

 製造や消費の現場では、貨幣的な問題よりも、現実には、基準や単位の方が。問題なのである。いくらであるかよりも、品質はどうか、役に立つか、必要としているかが問題なのである。それを価格面ばかりに気を取られていると見落としてしまう。いくら安くても役に立たない物では何にもならないのである。必要でない物はいらないのである。無駄なのである。
 実際に必要とされるのは、現物であり、貨幣ではない。そうなると規格が重要な意味を持ってくる。
 規格には、デファクトスタンダードの様に、市場が決めるものがある。それに対し国際機関のような公的な機関が決めた規格をデジューレスタンダード、デジュールスタンダード、デジュアスタンダード (de jure standard)という。いずれにしても、現物的規格を支配した者が、現実の経済では、圧倒的な力を発揮するのである。

 かつては、経済性という意味の中では、節約や倹約という意味があった。今は、この節約や倹約という意味が薄れ、逆に、浪費や使い捨てという意味に取って代わられている。それは、経済の論理の本質が変質したことの証左である。
 しかし、その為に、実体的な経済が本来の目的を喪失し、不経済な体制になりつつある。つまり、資源の無駄遣いや環境破壊が経済性の名の下に行われるようになってしまったのである。


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産業の論理