所有権の対極にあるのは、無所有なんかではない。盗みである。所有の反対は、所有権を否定し、奪い取る事、強奪、略奪である。無所有というのは、自己の側の問題だが、所有権を認めないと言うのは、所有権を主張する側から見ると所有物を奪い取られることなのである。
 つまり、無所有というのは、ただ、自分の所有権を放棄したに過ぎないのに対し、他人の所有権を否定する事は、他人の所有物を奪い取ることを意味する。つまり、汝、盗むなかれと言うのは、所有権を認め、保障することを意味するのである。
 つまり、所有権の否定は、国家による強奪、他人による盗み、他国による侵犯と言った一切合切を含んでいる。つまり、所有権に対する最大の脅威は、国家や、国家に準ずる組織なのである。故に、世界宗教と言われる宗教は、先ず、窃盗と詐欺を禁じ、所有権の確立と保障をするのである。

 その意味でも、経済を支配しているのは、宗教的倫理観である。宗教的倫理観が、経済に与える影響は、我々が一般に考えている以上に大きいと思わなければならない。典型は、金利の問題であり、金利に対する宗教的倫理観が、資本主義経済の発達の形態を大きく支配している。その意味で、世界宗教と言われる宗教の全てが、私的所有権の保障をしていることは重大なことなのである。

 近代国民国家は、この所有権を保障することによって成り立っている。この所有権を保障する一方で、土地、及び、資本財の不均衡の是正を計ることを使命としている。ここで言う資本財こそが、資本主義の根本理念である。
 故に、資本主義は、所有権の保障の上に成り立った思想体制なのである。
 同時に、私的所有権は、累積すると格差や階級差別の原因となる。その為に、私的所有権の制限の問題がある。それが自由主義体制では、相続の問題になる。

 社会主義や共産主義は、私的所有権を認めない、即ち、私的所有権の否定の上に成り立っているとみなされている。しかし、社会主義や共産主義の全てが私的所有権を否定しているわけではない。生産手段の国有、公有、共有と言う考え方をしている思想もある。また、資本主義体制下でも修道院のような生活共同体の中には、私的所有権を認めていないような集団も見受けられる。ただ、宗教的な確信に基づかないとトラブルの原因になっていることも確かである。いずれにしても、社会主義や共産主義の全てが私的所有権を否定しているわけではないし、また、資本主義体制下でも国有、公有、共有財産はあるのである。
 ただ、あくまでも、所有権の確立が近代社会の礎でなのである。この所有権が近代資本主義のコア、核となる概念である。同時に、資本主義においては、生産手段に対する私的所有権の制限が重要な課題となる。それが株式主義でもある。株式会社は、経営権と所有権を分離する事によって生産手段の私的所有権に制限を加えようとする思想である。

 近代資本主義は、所有と経営の分離し、究極的には、サラリーマンと資本家による社会を構築することにある。それは、資本主義の思想なのである。思想ならば、思想として認識すべき事である。それが暗黙の了解事項、合意のように作用することが問題なのである。
 資本主義とは何かである。資本主義とは、何等かの資本を元手にして成り立っている経済体制を指して言う。つまり、資本主義の核は、資本である。故に、資本を定義すれば必然的に資本主義は定義される。そして、資本は、経営主体の所有権に密接に結びついている。だからこそ、投資に意味があるのである。所有権に結びつかない投資は意味がない。それは投資ではなく、寄付である。

 自由主義や資本主義は、所与の原則として、また、自明な事としてそれ自体を明確にしないのが問題なのである。なぜ、カルテルはいけないのか。なぜ、規制を緩和すべきなのかは、資本主義の根本理念から導き出される要件である。自由主義の根底、資本主義の根本を明らかにしないで、カルテルはいけない、規制は駄目だというのは、論理的ではない。それを合理的というのは、欺瞞である。

 では、資本本来の意味とは何か。資本とは、元手となる財である。この財は、有形の物もあれば、無形の物もある。では、元手と何か。経済活動を行う上で原資となる物である。原資とは何か。拠り所となりもの、ないしは、基礎となるものである。つまり、資本は、経営主体の種である。

 資本を製造で例えれば、何等かの製品を作るための元となる、原材料または、装置のような物である。

 今日、資本とは、原資であると言ってもおそらく通用しないだろう。資本と言えば、株が思い浮かぶからである。限に、資本金、純資産と言った場合、株の時価総額であったり、資本金を指している場合が多い。こうなると、資本主義というのは、株式会社による経済体制と同義語に成りかねない。しかし、資本主義体制を構成しているのは、株式会社と限定されているわけではない。故に、株と資本は、同義語ではない。この点の錯覚が資本主義にはついて廻る。その為に、資本主義と社会主義とは、並び立たない体制で有り様に思われがちである。しかし、株式会社による経済体制と資本主義体制とは、同義ではない。

 では、資本とは何か。やはり、それは、原資である。そこに資本主義の原点がある。
 資本には、実体があるようでありながら、考えてみると曖昧なのである。資本とは、仕組みである。
 会計上における資本の概念だけでも、資本金、資本の部、自己資本、株主資本、純資産とちょっと数えただけでも五つある。言葉だけなら、総資本も資本の一種といえないことでもないし、また、元手、資金、元本も同様である。なぜ、こんなに多様多種となるかというと、ここで言う資本という概念に実体がないからである。つまり、資本主義というのは、かなり曖昧、いい加減なところで定義されている。それでいて、資本主義はどうのこうのと議論されている。それが先ず最大の問題なのである。

 こうなると資本主義とは何かという問題に突き当たる。俗に言う資本主義というのは、資本と経営が分離し、それに伴って、資本家階級が独立して他の他の階級、特に、労働者階級を間接的に支配する体制を指して言う。ここで問題なのは、資本家階級とは、どの様な実体を持つのかという事になる。
 今日では、資本家、イコール、投資家、つまり、株主と言う事になる。しかし、単なる株主というのならば、いくらでもいる。また、株主と言っても大口の株主は、機関投資家を指す場合が多く、一般株主を資本家と同一視する者は少ないと思う。また、居たとしてもごく少数である。この様な一般株主が世界を支配管理する体制という図式は成り立たないであろう。
 つまり、資本家階級と労働者階級とに世界が、分裂して相互に階級闘争をするという図式はなかなか成立しがたい。むしろ、自由主義か、平等主義か、即ち、垂直的均衡を重んじるのか。水平的均衡を重んじるのかの問題の方が当を得ていると思われる。

 政治体制によって資本主義の在り方も違ってくる。

 資本主義というのは、本来は、資本、つまり、生産手段を広く大衆から集めることを可能ならしめた体制を意味するのである。大衆から、生産手段を集めることを可能としたのは、貨幣経済である。つまり、生産手段を一旦、貨幣価値に還元し、貨幣を媒体として資本を形成することによって可能となったのである。この事によって大規模な事業を国家に依存せずに興すことが可能となった。

 しかし、この様な資本も出資する者を特定することによって資本主義の本質が変化する。広く大衆から資本を募れば、民主主義的な体制になるし、特定の特権階級にしか許されなければ、階級制度的なものになる。資本主義そのものが、民主的であるとか、階級主義的であるというのではない。つまり、資本は仕組みなのである。

 ただ、資本主義を経済的効率から見ると、必ずしも、階級的分離を良しとはしない。階級的分離は、財の環流を妨げるからである。また、市場の機能も阻害する。

 資本財の遍在が一定の次元を越えると財の環流が一定方向にしか流れなくなる。富める者は、ますます富み。貧しい者は、ますます貧しくなる。生産財だけでなく、消費財の環流も阻害され、社会の分配機能に齟齬が生じる。そうなると、強権を持って分配を行うか、革命をもって社会の構造を変革しない限り、社会の底辺部分は、壊死してしまう。
 適正な分配を市場経済に依拠している資本主義体制は、階級的分離を前提としたものではなく、一体的な社会を前提としたものである。その証拠が、市場が寡占的、独占的になることを忌避するためにある独禁法の存在意義である。

 プランテーション作物は、商品作物しか作れない。いくら農地があっても自分達の食料となる作物は作れないのである。これでは、自給自足を前提としたコミュニティーは、崩壊する。この様な体制を資本主義は是としては居ない。なぜならば、生産者と消費者が一体であって資本主義は成り立っているからである。ただ、この様な体制を防げないのが資本主義体制の弱点なのである。放置すれば、資本主義体制は、階級的な分離を引き起こす。特に、市場競争に全てを委ねれば、市場の独占、寡占を防げないのである。

 資本にはいろいろな顔がある。第一に、資本金という言葉に象徴される元手、元金という側面である。
 資本主義の本質は、投資にある。人や、物、金を出し合って一つの事業を興す。そこに、最近では、情報や権利、知恵が加わる。それぞれが持てる物を持ち寄って一つの事業が成立する。その最初に持ち寄った物を元手にするのである。その元手を資本というのである。その元手を貨幣が代行するようになって、資本が変質するようになる。しかし、本来の資本主義は、複数の者が、それぞれが持てる物を持ち寄り、それを原資とすることから始まったのである。
 社会資本という言葉が意味するように、事業や組織の基礎となる生産手段をも意味する。
 第二に、純資産という側面である。純資産というのは、簡単に言うと、総資産と総負債との差額である。資本の概念が、資産、負債、資本の概念からできていることの証拠である。資産と負債には、何等かの実体的裏付けがある。それに対し、資本には、その実体的な裏付けがない。つまり、資本は、仕組みなのである。
 この度(たび)の、新会社法の制定により、資本の部という名称が、純資産の部という名称に変わった。これほど重要な変更がいとも簡単に行われたのは、不可解なことであるが、しかし、純資産というのは、資本を意味すると言う事を象徴している出来事とも言える。
 第三に、繰越利益である。利益の概念も雑多である。企業の損益と収支は必ずしも一致しているわけではない。利益も収益と費用の差額を指すのか、前期純資産と当期純資産の差額を指すのかによってまったく違ったものになる。
 収支、収益の悪い企業をどう再生していくかが問題なのであり、収益力のない企業は、存在価値がない企業なのだから、全て淘汰してしまえと言うのは、乱暴な話である。
 多くの人が、利益をただ単なる儲(もうけ)けと錯覚している。むろん、儲けること自体を悪いとは言わない。ただ、自分だけが儲(もう)けるとなると話は別である。また、儲けとは、なんらかの得を相手から受け取ることを意味する。しかし、利益というのは、分配の結果であり、ただ相手から、受け取ることのみを意味するのではない。
 利益は、単なる儲け(もうけ)ではなく。分配の結果、基準、比率なのである。価値の指標の一つである。
 利益は、配分の問題である。取り分の問題である。収益から、必要な費用を差し引いた差額である。それは、配分の結果なのである。収穫の配分の結果である。収穫を独り占めにすることは許されないが、利益を上げる事自体が悪いわけではない。不当に過大な利益を上げることは、配分の均衡を乱すが故に咎(とが)められるのである。
 第四に、株主資本と言う顔である。株というのは、資本それ自体が市場価格を持つ商品であることを意味する。資本そのものが商品価値を持つことが、資本の意味をより複雑にしいてる。その反面、資本主義社会を多様で、発展的なものにしている。
 株主資本は、資本の一側面に過ぎない。それも抑止すべき側面である。株価が、企業の実態から乖離し、それ自体が相場を作ることが、いろいろな問題を孕むのである。
 第五に、保証金という側面である。株の取引で言う、委託保証金的な意味合いである。
 つまり、事業を継続していく上で、必要となる保証金のようなものである。故に、資本が減少し、また、債務超過に陥った場合は、増資することが要求される。
 この保証金的機能が、所謂(いわゆる)梃子(てこ)の原理として働き、企業価値、企業の経済的価値を倍加する。それによって調達資金の量を増やすことができるのである。この事によって、巨額の資金を必要とする事業が可能となったのである。この端緒が運河であり、鉄道である。
 第六に内部留保という側面である。内部留保というのは、いざという時に対する内部への蓄えである。
 内部留保は、企業を継続させ、再投資をさせるための準備金である。また、企業を構成する者への積立金でもある。株主資本では、これらの内部留保は、一方的に投資家のものであるから投資家に還元すべきだという思想がある。しかし、元々企業は継続を目的としている。故に、企業がその主体性と独立性、継続性を保つためには、ある程度の内部留保は不可欠である。
 株価を維持するために、増収増益を、常に、経営者に要求していくことは、企業本来の在り方から乖離してしまう危険性がある。増収増益を維持するために、無理な拡大を続け、あるいは、内部留保を極限にまで抑え込んでしまうと、企業は、継続力を喪失してしまう。企業収益が悪化するのには、悪化するだけの理由がある。それを一概に経営者の責任に帰すのは、短絡的である。逆に、利益が上がったら、上がったで、今度は搾取していると言われたら堪(たま)らない。それでは、最初から、経営者は悪人だと決め付けているようなものである。
 企業は、投資家、株主のためにのみ存在するわけではない。企業は、本来社会的存在なのである。特に、資本主義体制においては、生産の拠点であり、分配の拠点であり、労働(雇用)の拠点でもあるのである。

 平等か、自由かという問題を突き詰めてみると、実は、最低限の保障の追求か、それとも最高限の欲求の追求の問題に行き着くのである。そして、生活水準、所得水準とこの最低限の生活保障と最高級の生活の追求をどう調和させ、折り合いをつけていくかの問題なのである。最低限の生活と最高の生活の実現の均衡の追求なのである。

 ただ、かつての極端な同等主義、即ち、共産主義国のように全てを同等にしろと言うのは、確立統計的世界を否定した上で、尚かつ、独裁者も一般庶民も全て平等だと言い切れる上に、信じる事のできるお人好しだけである。
 つまり、同等も、平等も、自由も、認識の問題であり、主観によって左右されるからである。何もをもって平等とし、何をもって自由とするのか、当事者にしかわからない問題なのである。
 しかし、全てを均一化し、作業を標準化して、大量生産された工業製品の世界であれば、全ては、等しいと言えるが、(ただ、その場合でも何等かの誤差は生じる。)そうでなければ、全てを均質に保つこと自体不可能なのである。例えれば、自分の好きな食べ物というのは、個人の嗜好上の問題であり、好き嫌いは均一化できないという事である。同じ食べ物でも、好きな者と嫌いな者とがおり、それを一意的に与えれば、必然的に差別が生じるのである。これは、服装も然りである。また、作る側からしても、料理の腕には、明らかに違いがあり、同じ料理でも作り手によって天と地ほど違ってしまうという事である。こうなると、あらゆる人間性を剥奪して、純粋に工業製品化してしまうか、差別を認める以外になくなる。例えば、全てを同等にしていると言っても腕のいい仕立て職人と料理人を独裁者が独占してしまえば、それ自体、あからさまに差別なのである。故に、際し世から、実現不可能なのである。
 問題は、選択の手段と交換の手段の問題であり、概して、市場を介した方が、平等を実現しやすいという事なのである。ある意味で、市場は平等である。不平等なのは、分配上の問題であり、交換の場である市場の場の問題ではない。市場は、所得の多い者にとって有利に働くと言う事なのであり、それは、どれだけの所得を得たかの問題なのである。

 資本の対象となる物は、人、物、金、そして、最近は、これらに情報や権利のような物が加わった。原始的な資本主義では、人と物だけで、十分、資本となり得た。しかし、近代資本主義は、実体と貨幣が融合することによって成立している。故に、貨幣経済抜きには、近代資本主義は語れない。

 更に、資本主義を考察するために、資本主義が成立するのと同じ時期に、同じ地域で発達、発展した思想や体制を見てみよう。同時期、同地域で発達した思想や体制は、必然的に、近代資本主義体制と不離不可分な関係にある。しかし、同じ物ではない。この辺が、資本主義を曖昧にしている原因でもある。つまり、資本主義にとって何が絶対的条件となり、何が付随的条件になるのか、何と、対立し、二律背反的な関係にあるのか、それが、判然としていないのである。それを明らかにするためには、資本主義とその周辺の思想を明らかにする必要がある。
 資本主義は、常に、その対極として共産主義や社会主義が対置されてきた。そして、共産主義と社会主義と対立する体制として、自由主義経済や市場経済が位置付けられてきた。その場合、計画経済や統制経済、管理経済と社会主義経済は、一体的なものとして見なされてきた。しかし、ここに問題がある。果たしてこの図式は正しいのであろうか。そこから検証する必要がある。
 資本主義は、市場経済とイコールなのであろうか。結論から言えば、資本主義と市場経済は、違う。資本主義は、貨幣経済とも、同じものではない。ただ、資本主義は、市場と貨幣と不可分に結びついている。つまり、市場経済にとって、資本主義は十分条件ではあるが必要条件ではない。貨幣経済も同様である。では、資本主義内部においては、全て市場経済によって賄われているかと言えば、明らかに違う。例えば、資本主義内部にも公共事業のようなものは、計画経済であるし、不況カルテルの様なものを容認すれば、それは、統制経済、管理経済となる。また、かつての食管法みたいな在り方は、明らかに管理経済である。何の規制のない市場経済という事自体考えられないことである。今日、市場経済が資本主義体制の全てだとしている者は、明らかに転倒している。つまり、市場というのは、資本主義を構成する上で不可欠な要素ではあるが、全てではない。貨幣経済も同様である。
 また、市場の原理と競争の原理は同義語ではない。競争というのは、市場行動の一形態に過ぎない。市場では、競争と言うよりも、むしろ格闘的行動の方が多いくらいである。競争というのは、市場行動を一部、抽象化し、美化している。故に、市場の原理を全て競争の原理に置き換えるのは、無理がある。更に、それを規制の撤廃に結びつけるのは、無理を通り越して、無謀である。市場は、規制されてはじめて有効に機能するのである。問題は、規制そのものではなく。規制の内容、在り方である。規制で言えば、その究極的なものが会計であり、規制が悪いという者は、会計制度そのものを否定するようなものである。それは、ある種の共産主義に通じる。しかし、共産主義が機能しなかったのも、市場を否定し、その延長線上で会計制度を否定したからである。
 近代資本主義にとって近代会計制度は、文法のような存在である。経済学を科学と同列に扱う人はいても、会計を科学と同列に扱う人はあまりいない。しかし、近代経済学を考える上で、会計制度は、科学と同じくらいの影響力を持っている。つまり、会計制度を土台にして資本主義体制は成り立っているのである。逆に言えば、会計制度が理解できない者は、資本主義経済も理解できない。
 資本主義とは科学的なものである。しかし、科学ではない。科学とは、法則を前提としているが、資本主義は、あくまでも人為的な法律を土台にして成り立っているのである。故に、処方的には、科学的な手法に基づいているとしても資本主義は、科学たりえない。その点を誤解してはならない。だから、資本主義は劣るというのではない。資本主義と科学とは、本質が違うと言いたいだけである。それを科学的合理精神によって説明しようとすることが間違いなのである。資本主義は、基本的に合意と契約に基づいた恣意的な体制、世界なのである。
 資本主義は、民主主義とも違う。多くの人間は、資本主義において民主主義は必要要件の一つに考えているが、必ずしも民主主義でなければ、資本主義は成り立たないとは言い切れない。現に、独裁体制下やも君主体制、封建体制でも資本主義体制は成り立ってきた。
 資本主義と国家主義、独裁主義は、排反的な体制ではない。つまり、民主主義でなくとも資本主義は成り立つ。ただ、常に、資本家は、国家による略奪、強奪の脅威にさらされていると言うだけである。
 資本主義と自由主義との関係はどうであろうか。社会主義経済の対極に自由主義経済をおき、そして、自由主義体制と資本主義とを同列に扱う傾向がある。その場合、社会主義と資本主義を二律背反的な思想として捉え、自由主義と資本主義とを同列に扱う。しかし、まず、資本主義と社会主義とは必ずしも対立的なものではない。また、資本主義と自由主義はイコールではない。ただ、資本主義は、一つの局面として、自由主義的な要素を持っていると言うだけである。これも、社会主義を自由と対置することによって生じた誤解である。
 アメリカンドリームの意味するところは、成功する者もいれば、失敗する者もいると言うことである。それが自由である。しかし、この様な自由を無制限に容認すれば、段々に社会は、分離し、また、市場は、寡占、独占的状況に陥る。そこで、独占禁止法があり、公正取引法が存在するのである。つまり、自由と言えども方の規制は免れず、法によって自由は保障されているのである。
 資本主義と平等主義は、対立概念ではない。これも、社会主義を資本主義対置することによって生じた誤謬の一つである。福祉国家、所得の再分配、大きな政府と言った思想を標榜する正統は、概して社会主義的である。しかし、だからといって彼等が資本主義に否定的かと言えばそうではない。要は、分配の公平を重視しているだけである。つまり、市場や産業の効率化か、社会の国民生活の均質化かの選択肢の問題である。いずれも極端な場合を除いて、資本主義体制を根本から否定するような思想ではない。
 この点から見ても、資本主義と社会主義とを相反する、対立的なものと決め付けるのは早計である。要は、生産手段を何に帰属させるかの問題なのであり、所有権の問題なのである。資本主義と社会主義体制を対立的に捉えるのは、経済体制上の問題と言うより、政治体制上の問題である。その証拠に、独裁体制下でも充分に資本主義は機能しているのである。しかし、独裁体制は、決して、資本主義体制だけではない。社会主義体制にもある。つまり、共産主義体制が、国家成立当初、政治的に、独裁体制を敷いたために、共産主義や社会主義と独裁体制が同一視されたに過ぎない。本来、共産主義も社会主義も独裁体制以外の選択肢があったのである。かつて、フランス革命がナポレオン独裁体制に移行したように、ロシア革命が、スターリン体制に移行しただけなのである。
 資本家の置かれているところを、社会やコミュニティーに置き換えることは可能な選択肢である。また、現に、国営企業や公営企業はいくらでもある。国営企業や公営企業が非効率なのは、国営企業や公営企業が市場の原理に従わないからである。その点を考慮すれば、充分に、資本の国有、公有は可能なのである。

 右翼、左翼が論じられる時、何をもって右翼と言い、何をもって左翼というか、日本では曖昧なところが多い。欧米における右翼、左翼は、時代によって多少の曲折はあるが、現今の認識は、右翼は、自由主義的で、左翼は、平等主義的傾向が強いという見方である。ここにも幾分の錯覚がある。我が国では、右翼は、保守的、民族主義的、国家主義的で、左翼は、革新的、世界主義的だと考えがちであるが必ずしも、欧米においては、一概に規定できない。平等主義というのは、社会主義に通じる思想であり、どちらかと言えば全体主義的傾向を持つ。そして、社会福祉という観点から大きい政府を志向する。それに対し、自由主義というのは、文字通り、自由放任を目指し、傾向的な無政府主義的、小さい政府を志向する。この様な点を鑑みても一概に資本主義は、自由主義的だと規定することは出来にない。むしろ、資本主義を土台にして、社会主義は、発展するという見方があるくらいであるから、資本主義と社会主義は、排反的な体制と考えるのは短絡的である。

 最近、とみに金融工学が盛んである。金融工学は、ある意味で、これからの資本主義体制を象徴している。金融工学は、本来、リスク管理の一貫として、リスクヘッジ、保険的な役割を期待して設定されたものである。それが投機的なものに結びつくことによって、資本が本来の機能から乖離して、資本そのものが投機の対象とされた。この様なことは、過去にも何回かあった。そして、資本を投機の対象として見なすことによって、物としての実体を持たない資本は、歯止めを失い、水脹れをしてしまう。それがバブルである。この資本の独特の運動が、資本主義体制を揺るがす事態にもなっているのである。それが、資本主義のコア、核心となるべき資本によって引き起こされていることが問題なのである。

 この様に、昨今の資本主義の問題点は、資本と実体が乖離して、資本が、一人歩きし始めたことに起因するのである。
 商品としての資本が、資本本来の機能から乖離し、独自の価値、市場価値を持ち、それが投機の対象、いわば博打のようなものに変質していることなのである。実体の伴わない株価が、市場を席巻している。それは、丁度、昔、チューリップの球根が、意味もない高値に踊ったような現象である。

 また、公共企業は、資本主義の問題を象徴している。公共事業の問題は、資本主義において、もっとも資本主義的でない問題なのである。つまり、資本主義の病根は、資本主義的な法則が働かないところにある。資本主義的でない部分だからこそ、資本主義的原則が働かないが故に、資本主義を歪め、それが是正できないのである。

 なぜ、公共事業が減らないのか。それは、政治家が、土建屋を財布代わりに使っているからである。つまり、無法なのである。つまり、資本主義体制は、その核心、中枢の部分に資本主義的でない部分、資本主義の法則が及ばない部分を持っており、それが資本主義体制を危機的な状況に追い込んでいるのである。

 同様に、株を政治資金に利用している限り、資本市場は正常にならない。この背景には、社会が経済を一段低く見る傾向があるからである。清貧の思想が、悪い作用を及ぼしているのである。聖人や高潔の士は、経済や金銭のような俗事にこだわるべきではない。志ある者は、清貧に甘んじるべきであると言う思想である。確かに、政治や官僚が贅沢を望み、奢侈に走り、国民より一段高い生活を望むことは、国民生活は破綻する。だからといって、政治家や世の中の指導者は、貧しくて良いというでは、有為な人材を得ることはできない。恣意的にそれが決められないとすれば、それは、市場の原理を導入すべきなのである。

 財政は、絶対的な基準に基づいているのに対し、市場は、相対的な基準に基づいているという点である。必然的に、倫理観が違ってくる。経営をする意志がない者に、経営責任を問うこと自体無意味である。経営責任を持たぬ者が経営をして、収益を上げる事を期待することが馬鹿げている。公共事業は、発注する側に最初から収益事業であるという認識すらないのである。こうなると、公共事業が経営的に破綻したとしても、責任を自覚させようがない。当事者に責任感そのものが欠如しているのである。運が悪かった程度しか責任を感じない。それ故に、財政の規律を保つことが難しいのである。財政に規律を持たせようとしたら、仕組みそのものを帰る必要がある。

 また、資本主義を構成する主要要素である企業にも問題がある。経済主体と言いながら主体性がもてない。その為に、自制力がない。我々は、経済主体たる企業に何を期待しているのかである。

 資本の問題は、産業の主体がどこにあるか、主体の所在の問題でもあるのである。

 ただ収益の追求だけを企業に課せば、環境や資源の保護、社会的責任、雇用の維持などの役割が果たせなくなる。その上で企業の社会的責任を問うのは酷である。

 社会に対して何等かの機能、働きを持っているのは、企業自身であって、投資家ではない。その事をもっても、企業の主体を形成するのは、投資家ではないことは明らかである。ところが、その企業を構成する労働者、社員が、経営の実体から疎外され、その為に、企業の主体性が削がれる結果を招いている、それが、企業の自律性を崩壊させているのである。つまり、共同体としても企業の主体が、企業の外部に置かれているそれが深刻な問題を引き起こしているのである。

 現在の資本主義体制は、公共事業から見ても、市場側から見ても、欠陥だらけなのである。市場を規制しなければ、市場の原則も規律も守れないのである。市場を放置すれば、独占、寡占状態に陥る。だから、構造的に市場の規律を保つしかないのである。つまり、市場の構造が問題なのである。日本の自動車産業が、仮に一社体制であったとしたら、今日の自動車産業の隆盛はあったであろうか。自動車産業の構造が、今日の隆盛を招いたのである。それを忘れてはならない。


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資本主義体制下における産業の問題点