経済の歴史を紐解くと国家にとって都合の悪い話や失敗が山ほどでてくる。だから、なるべくならば、経済の歴史は隠しておきたい。ところが、その都合の悪い話や失敗にこそ経済の本質が隠されている。
 株式会社や国債、紙幣、中央銀行、いずれの発足の際にも幾ばくかのいかがわしさがついて廻る。

 多くの人は、経済現象を自然現象に準じるかのように捉えているように見える。あくまでも、経済現象は、人間が起こしている現象であることを忘れてはならない。人間が引き起こしている現象なのであるから、人間の持つ力、作り上げた物に捕らわれるのは、必然である。だからこそ、経済は、歴史的なものであり、また、地理的なものなのである。

 経済現象は、地理的な条件や国際情勢、国家間の力関係の影響下にある。この場合の地理的な条件というのは、単純に、物理的な地理だけでなく、政治的な地理、国家間に働く力学的な意味での地理を含む。つまり、人間との関係に置いての地理的要件なのである。単純に石油を産出すると言うだけでは、地理的な意味合いというのは低い。石油が、人間生活に大きく関わることから経済的な意味での地理的な要件が決まる。経済学的に言えば、効用によって地理的要件は、制約を受けている。

 逆に、唯物史観のように一律に一定の法則によって歴史は画定されるものではない。また、進化論による適者生存によって説明が付くものでもない。進化論は、基本的に弱肉強食、自然淘汰絶対主義、環境に適合した者だけが生き残れる。そして、適者生存では、生き残った者が正しく、環境に適合することが進化だと決め付けている。そこには、自由放任主義と共通する神の見えざる手が働いていることを前提としていると思われる。そして、その神は、キリスト教的な神である。
 しかし、現実は、この様な進化論的楽天主義が成立するほど単純ではない。大体、歴史においては、強者が適合したのか、適合したものが強者なのかの判別がつかない。
 進化論的な立場に立てば、生存した者が善だと言うことになる。つまり、勝てば官軍式の論理である。弱者には、正義はないという事になる。唯物史観も、この進化論の延長線上にある。淘汰された者は、弱者であり、環境に適合できなかった故に、悪なのである。この発想は、以後の経済、倫理観を支配することになる。力のある者、特に、金の力を持つ者は、善者であり、何をやって善い事になる。それが、市場の原理、競争の原理となると、全ては、競争による自然淘汰によって決まることになる。

 経済こそが覇権争いの根本にある。そして、その構図は現在でも変わりない。ただ、金や経済のために、戦争を仕掛けているというと大義が立たず、外聞が悪いから、政治的理由や、思想的理由を掲げているに過ぎない。この世の争い事の原因の過半は、金、即ち、経済である。

 経済の物理的、空間的要件には、時間的構造と非時間的構造がある。時間が陽に関係した要件、構造が歴史的なものであり、時間が陰に関係した要件、構造が地理的要件なのである。

 非時間的構造というのは、静的構造であり、会計学的に言うと貸借対照表に相当する。また、静的構造とは、地理的構造である。それに対し、時間的構造というのは、動的構造であり。会計学的に言うと損益計算書に相当する。動的構造とは、歴史的構造を言う。

 地理的要件には、地形的要件、産物的要件、気候的要件、地層(土質)的要件、人口的要件、地政的要件などがある。地形には、河川の傍か、湾岸か、海浜か、山間部か、盆地か、交通の要所か、谷間・渓谷か、平野かと言った地形的な要素を言う。また。産物的要素とは、石油と言った資源の有無、水の便、海産物、農産物、森林といった産物があるかと言ったことである。気候的要件とは、温暖か、寒冷かと言った環境的要件である。また、地質的要件とは、砂漠か、沼地か、湿地か、泥地、砂地か、岩場かと言ったことである。この様な地層的条件は、産業の立地条件に直接関係する。また、人口的要件とは、市街地か、過疎地か、無人地帯かと言った要件であり、労働力の調達の目安である。また、地政的要件とは、大国に挟まれているか、軍事上の要衝にあるか、交易の中継地か、また、石油などの戦略物資の産地かと言ったことである。

 地理的要件と歴史的要件は、密接に結びついている。それは、会計における。貸借対照表と損益計算書の関係に似ている。

 中東の経済は、産油国であるか、否かによってまったく違う。石油の大油田が、中東になければ、中東の歴史も世界の歴史もまったく違ったものになったであろう。

 歴史の法則というのは、どちらかと言えば力学的法則に似ている。唯物史観のような一定志向の法則ではない。時間の経過の中で次には、こうなるという予測が立つような単純な法則ではない。つまり、歴史の法則というのは、一定方向に一定の法則によって流れているものではなく、地理的な条件といった前提条件や国家体制や貨幣制度と言った初期設定によるものである。それ故に、建国の理念が重要な役割を果たすのである。

 コミュニティが成立するのは、直接的な人間関係によって結びつけられる範囲である。つまり、合意が成立する範囲内において、コミュニティは成立しうる。共産主義的関係は、一コミュニティ単位の範囲内でのみ可能なのである。それも、家族単位の極めて小規模のコミュニティにおいてのみ可能なのである。家族単位内でも、一律同等にしてしまった場合、コミュニティを維持するのが困難なことは、経験的に解るはずである。
 夫婦、親子、兄弟の対立関係は、何も、今始まったわけではなく。有史以来存在し続けているのである。極端な話、聖書は、家族というコミュニティ内部での対立を題材にしたものが多いのである。
 コミュニティが形成される前提は、平面的な人間関係ではなく。立体的、構造的人間関係、即ち、ネットワーク的人間関係を前提としているからである。いくつものコミニティが複合された、それも国家的次元での人間関係の規模では、共産主義的コミュニティが成立する範囲の限界を遙かに超えている。その限界を超えたところに初期設定をおけば、制度的破綻をきたすのは、自明な事である。最初から無謀な実験なのである。初期設定そのものに無理があるのである。

 共産主義革命の危険性は、歴史的要件や地理的要件を全て消去して、一律同等の世界を作り上げようとしたことである。それは、最初から不可能と解っていることを強行するようなものである。それを革命というならば、革命とは、無謀そのものを指すことになる。

 この様な発想は、官僚主義にもある。収益や貨幣を蔑視、経済性を度外視する官僚主義が健全な経済を疎外しているのである。つまり、経済性というのは、制約であり、制限をもたらす要素である。

 財政赤字は、歴史的問題であり、歴史的に解消しなければならない問題である。
 財政破綻がもたらす結果は、何か、第一に、債務不履行、デフォルトである。第二に、増税である。第三に、ハイパーインフレである。第四に、経費削減である。これが経済の実相なのである。
 債務不履行というのは、投資家、債権者に対するものであり、増税というのは、仕入れ相手に対するもの、ハイパーインフレは、ユーザーに向けられるものであり、経費節減というのは、内部(構成員、官僚)に向けられるものなのである。彼等が経済の実相を担っているのである。彼等の関係をどの様に設定するかによって経済の有り様は決まるのである。
 一体この様な関係は、どこに起因するのか。どこから来るのか。それが歴史である。

 歴史は、構造物であり、現象ではない。それを一律的な変化、現象によって捉えきろうとするのは、最初から限界、無理がある。弁証法的に歴史を捉えると言うが、何をどの様に否定するかは、確定しているわけではない。それを無理矢理、一定の方程式に嵌め込もうとすれば、歴史的な必然性を伴わなくなる。あるのはこじつけに過ぎない。人殺しを予言した者が、予言通りに人を殺すようなものである。それは故意であって、必然ではない。歴史的必然というのは、前提条件や環境、状況によって導き出されるものであり、内因的な結果である。外部からの強制によるものではない。唯物史観には、最初から無理がある。

 世界は、一様ではなく。常に、生存を賭けた戦いを繰り広げてきた。人の成長に個人差があるように、それぞれの地域の発展にも地域差がある。人々の生活は、それぞれが生まれ育った社会の延長線上にあり、歴史的下地の上に成り立っている。この歴史的下地を無視したところでは社会は成り立たない。社会が成り立たなければ、経済も成り立たない。南の国の人には、南の人の歴史があり、北の国の人には、北の歴史がある。それぞれが、それぞれの歴史や文化、地域を尊重し認めるが故に社会は保てるのである。北の人間が南の人間に自分達の生活様式を押し付けても争いが起こるだけである。なぜなら、生活の基盤が違うのである。何でもかんでも平等と相手との違いを否定するのは野蛮な行為である。大体、真の平等の意味を取り違えているに過ぎない。

 産業の発展には、歴史がある。それは、産業の発展そのものが過程だからである。だからといって、産業の発展が画一的になされるわけではない。産業の成立は、一様になされるものでもない。産業の発展の過程は、その前提条件と環境に依るのである。まるで農産物のようにである。

 歴史的必然を導き出す前提条件とは、地理的要件、人的(人間関係、階級、組織、家族等)要件、文化的(風俗、習慣、伝統、礼儀作法、宗教、言語等)要件、制度的(経済制度、政治制度、社会制度)要件、突発的(事故、災害、戦争、疫病)要件、更に、環境や状況である。例えば、ゲルマンの大移動が西ゴート人がフン族の侵入によるとか、ロシア帝国が南進するのは不凍港を求めてだと言ったことである。つまり、そうしなければならない、生きられない何等かの理由があるからである。それが歴史的な必然なのである。

 極東における島国である、日本は、温暖な気候風土に恵まれてはいるが、めぼしい資源に乏しく、明治維新以後、富国強兵の下に殖産興業に勤め、また、戦後の焼け跡の中から傾斜政策や高度成長によって今日を日本経済を築き上げた。
 今日の日本経済は、良かれ悪しかれ、歴史的要因、地理的要因によって作られているのである。

 経済や産業が歴史的、地理的構造を持つというのは、石油産業が典型的である。
 我が国は、原油を産出しない。厳密に言えば全然油田がないというわけではないがもはや歴史的遺物であり、微々たるものである。故に、我が国は、原油をほぼ全量輸入しなければならない。これが先ず、地理的要件の一つである。先の世界大戦は、石油の禁輸が直接的な引き金になっている。そして、石油が敗戦の原因の一つになっている。これは、歴史的要因の一つである。この様な石油は、第一に原油価格の動向によって左右される。第二に、為替の動向の影響下にある。第三に、石油製品は、連産品である。第四に、市場の動向の影響を受けやすい。製品格差の少ない、コモディティ製品である。第五に、石油は、戦略物資の一つである。その為に、政策的に保護されてきた歴史がある。第六に、備蓄や税などで特別な義務や負担を強いられている。また、第七に、石油業界は基幹産業であり、関連や裾野が大きい産業なのである。つまり、石油の動向は、国家経済を震撼される。そして、第八に、石油業界は、民間企業によって構成されていると言う点である。
 この様な石油業界の特性に加えて、産業保護の観点から消費地精製主義がとられてきたと言う歴史的経緯がある。これが、設定条件である。
 そして、これらの前提条件に加えて第4次中東戦争による原油価格の上昇や為替の変動と言った条件、特石法と言った政策や会計方針の変更といった状況や環境の変化が加味されて石油市場は形成されてきたのである。

 本来、経済というのは、都市計画のようなものなのであるべきなのである。実際、都市計画こそ、経済の根源である。それは、ヨーロッパ諸国が証明している。だからこそ、歴史の重みが経済をしっかりと支えているのである。温暖化に代表される環境問題や人口問題、資源問題と言う難問を抱えている今日、ただ、自然発生的に経済を捉えていたら大変な事態を引き起こす。問題が表面化してからでは手遅れなのである。我々は、今一度、自分達の歴史を再認識し、その上で新しい歴史を書き加えていかなければならないのである。



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歴史的構造