日本人には、元来、金を卑しむ風潮がある。何かの集まりで、金銭にまつわる話をすると品がないと言われたものである。特に、政治の世界には、清貧という思想がある。とかく政治家は、金に綺麗でなくてはならないといい。金に頓着をしない政治が善いとなる。金に頓着しなければ金に窮するから、金に汚くなる。さもなくば井戸、塀といって政治に熱心になると資産を食い潰して井戸と塀しか残らない。つまり、政治家は貧乏でなければ勤まらないという事になる。
 それが士農工商の身分意識に繋がる。江戸っ子気質で、宵越しの金は持たないと啖呵を切る。商売人は、品がない。金持ちは、徳がない。とかく金を残す奴は、善良でない。そう言って金を卑しむ人間に限って、金に汚い。なぜならば、根本的に、経済観念がかけているからである。
 確かに、守銭奴は、品性下劣である。それは、金の奴隷になっているからである。しかし、金持ちだから、商売人だから、守銭奴だとは限らない。貨幣は、そのものが目的にはならない。貨幣は手段、道具に過ぎないからである。
 アメリカでは、政治資金を集めるのは、何も悪い事ではない。多額の政治資金を集められるのは、その政治家の政治力の現れだと評価される。それなりの資産がない者は、政治家に不向きだとされる。と言うよりも買収されるのではと疑られる。その為に、資産を公開することを求められるのである。
 それに対して、日本では、政治家が、政治資金を集めること自体罪悪であるように言われる。政治家は、貧乏なはずだから、資産を持っているはずがない。何か不正なことをして蓄財をしたのではと資産の公開を求める。それでは、正直に自分の資産内容を公開するはずがない。そうなると隠す。肝心なところを隠すから資産を公開しても意味がない。

 貨幣は、情報である。貨幣は、数値情報である。貨幣には、流動性と保存性がある。故に、貨幣価値においては、流動性と保存性の均衡が重要になるのである。流動性とは、即時的価値であり、保存性とは、累積的価値である。貨幣価値は、相対的なものであり、通貨の総量と財の総量、その上に、市場の需給によって決まる。
 貨幣が流通する形態を通貨という。通貨は、国別に単位が設定されている。

 貨幣価値が表象するのは、交換価値である。交換価値を数値化したのが貨幣価値である。また、貨幣はデジタル、数量的な価値である。このデジタル化によって金融は、急速に情報化されている。つまり、金融ネットワークと情報ネットワークが一体化しつつある。情報ネットワークの信頼性が、貨幣の信頼性に結びつきつつある。つまり、情報の質が貨幣に与信を与える様になってきたのである。それに伴い決済手段も変わりつつある。あらゆる決済がコンピューターシステム上でなされるようになりつつある。
 近年では、納税もインターネット上で行われつつある。こうなると現実の通貨は、コンピュータ上の信号に過ぎなくなる。つまり、貨幣は、物としての実体を失い、純粋に情報化するのである。これは、貨幣経済の根幹をかえることに繋がる。

 貨幣価値は、交換価値を表象するのであるから、貨幣で重要なのは、流動性である。貨幣に流動性がなければ交換に時間がかかるからである。故に、土地のような流動性の低い物は、貨幣には向いていない。

 また、貨幣価値は、保存がきくために、蓄積性がある。故に、金融ネットワークでは、ストック、即ち、貯蓄の量と質が重要になる。元々貨幣は、貨幣自体が価値を持つ者ではないから、貨幣自体を貯蓄する場合と貨幣価値の貯蓄は、現物や証書に置き換えてされる場合とにわかれる。

 貨幣価値の保存の仕方によって貨幣の流動性に差が生じる。貨幣で保持すれば交換価値、即ち、交換性も同時に維持できるが、反面、情報として機能しか果たせなくなる。財に置き換えておけば、財の持つ固有の価値、即ち、使用価値や希少価値も保持できる。

 貨幣自体が価値を持っているわけではない。貨幣価値の実体は、それが表象する対象にある。貨幣は、いわば交換価値を測るための分銅に過ぎない。貨幣価値は、貨幣価値を裏付ける何らかの権威が存在し提示されている。貨幣価値を裏付けている権威がなくなれば、たちまち、その価値を喪失し、下落する。
 貨幣価値は、質と量によって測られる。つまり、貨幣価値は、密度によって測られる。また、貨幣には、保存性があり、蓄積することが可能である。故に、貨幣価値は、累積する。

 貨幣は、尺度であるから、均質であることが求められる。貨幣価値にバラツキがあれば、貨幣価値の安定性は得られない。貨幣は、尺度であり、交換価値の単位である。尺度は、一定、均一でなければ成り立たない。
 また、通貨は、市場の規模、即ち、市場の取引の量に応じた量、確保される必要がある。つまり、市場の取引の総量に相当する貨幣量を準備する必要がある。故に、貨幣は、大量にかつ均質に作る事が可能な物でなければならないのである。しかも、簡単、廉価に模造できる物であっては成らない。ただ、最近は、貨幣は完全に情報化され、デジタル信号に還元された部分が大きく成りつつある。こうなると、物としての貨幣の役割は限定的となる。

 通貨の質の均一性、均質性は、財の均一、均質を意味しているわけではない。ところが、貨幣経済下では、貨幣の均一性が財の均一性に倒置される危険性がある。それは、財の個性を否定する事に繋がる。財には、労働や用役も含まれている。今日の同等主義には、この通貨の均一性や均質性からくる錯覚によるものが含まれている。
 貨幣自体が価値を持つのではなく、貨幣は、対象となる財の交換価値を表象した数値情報に過ぎない。この事を忘れると財固有の価値が喪失し、交換価値によって財の価値が特定されてしまうことになる。金が全てというのは、典型である。反対に、貨幣価値を否定してしまうのも、同様の転倒である。それが共産主義的社会の失敗原因である。いくら、所得を均一にしても財の個性は否定されず、分配を均質化することはできない。かえって分配上の不公平を生じさせる。

 金融ネットワークというのは、基本的に情報ネットワークである。

 金は天下の回りものと言う。貨幣は、流動的な物である。その貨幣の流れを利用して金融は成り立っている。金融ネットワークは、貨幣の流動性を前提として成り立っている。貨幣の循環させるのが金融機関の機能であり、決済業務は、貨幣を循環させるための基礎的な業務なのである。
 決済業務の代表的なのが為替業務である。遠隔地における支払業務を現金で一々行っていたら、手間暇もかかるし、時間的にも制約を受け、また、危険性も伴う。遠隔地での支払を金融ネットワークで行うことで、決済業務の信頼性は高まり、同時に、取引も保証されるのである。

 決済業務は、金融ネットワークにとって、ネットワークを成立させている、成立させるための、また、増殖させるための鍵を握っている業務である。言うなれば、決済業務があるから、金融ネットワークは、形成されて、決済業務があるから、金融ネットワークは拡大する動機があるのである。

 金融ネットワークは、貨幣の流通を円滑にし、流動性を高めるのも重要な機能である。貨幣の流動性を高めるためには、貨幣の流通させるための決済業務も金融機関、金融ネットワークの重要な要素の一つである。

 ここで注意しなければならないのは、貨幣の流れと金融ネットワークとは別物だと言う事である。貨幣と金融ネットワークは、いわば、電気と回線のような関係である。電気製品によって電気の活用の道や活用の範囲は広がった。しかし、電気製品がなくとも電気は存在しうるのである。
 貨幣経済に金融ネットワークは不可欠である。金融ネットワークは、貨幣経済のインフラストラクチャーである。
 金融ネットワークは、貨幣制度の進展と伴に発達した。また、為替手形や小切手といった、国債、社債といった金融技術の発達が、貨幣制度の発展を促した。また、金融市場、資本市場、為替市場、保険市場と言った市場が、金融ネットワークのインフラストラクチャーとなり、貨幣市場を進化させたのである。

 また、国毎に通貨の単位が違うことから、金融ネットワークでは、通貨の変換機能が必要となる。告別に、通貨の単位が違うと言う事は、国毎に固有の尺度を持つことを意味する。それが変動為替制度である。この事からも解るように貨幣価値は、絶対的尺度ではなく。相対的尺度であり、交換価値を表象する通貨が、それ自体が交換価値を有するのである。これが、交換価値の二重性を生み出している。つまり、財に対する交換価値は、二重になっていてその均衡するところで安定するのである。

 金融機関の機能は、信用の創出、流動性の転換、負債の質の維持、資金の集配である。そして、金融機関のこれらそれぞれの機能が、貨幣の流れを規制している。この様な金融機関で構成される金融制度によって貨幣経済は、制御されているのである。
 また、金融機関は、貨幣の特性に規制される。つまり、貨幣自体が価値を持たないように、金融機関は、産業としての実体を持たない。産業としての実体は、融資先にあるのである。つまり、金融機関は、それ自体では、何も生産しないし、また、用役も生み出さない。金融機関は、資金を産業の主体である、企業や家計、政府に融資、供給する事によって自身を成り立たせているのである。

 金融機関の中核は、銀行である。銀行の中核は、日本で言えば日本銀行にあたる中央銀行である。中央銀行以外の銀行には、普通銀行と公的銀行がある。銀行以外の金融機関をノンバンクという。ノンバンクは、証券、保険、投資会社、その他ノンバンクとがある。これが、金融市場を核として資本市場、為替市場、保険市場を形成する。
 金融は、資金の供与と回収、循環が主な役割であるが、資金の直接的に企業に供与する資本市場と、一旦、金融機関に集積した上で金融機関を介して供与する二種類の手段がある。前者を直接金融と言い、主として証券会社、資本市場を仲介してなされ、後者を間接金融と言い、銀行、金融市場を仲立ちにして行われる。
 普通銀行は、基本的に不特定多数から預金、貯金を集め、それを、企業に融資するなどして運用することを業務とする。信託会社は、特定多数から資金を集めて運用をする。公的銀行の一部は、公債、社債を発行して、それを原資としているものがある。投資会社は、投資を目的として、企業に資金を供与する事を業務としている。日本では、銀行業務と資本取引業務、保険業務は、兼業できないことにこれまではなってきた。しかし、1996年に始まる金融の規制緩和、俗に言われる金融ビックバンにおいて異種金融機関同士の垣根が徐々に取り除かれつつある。
 金融ネットワークは金融機関や市場がハブになって構築されている。金融機関は、金融ネットワークを構成する要素、部分であるから、金融ネットわーの一部に齟齬が生じてもその影響は、ネットワークを通じて伝播する。その為に、金融ネットワーク全体を保護するセーフティネットの必要性が、金融危機のたびに叫ばれている。

 セーフティネットとは、部分の破綻が全体に及ばないように保護するしくみをいう。特定の部分での故障や一部分の破綻がシステムや社会全体に波及するのを防ぐ安全装置を指して言う。例えば、一部の金融機関の破綻が広がらないよう中央銀行が保証したり,銀行の破綻が預金者に及ばないよう預金に保険がかけられていることや失業に対する雇用保険などがその例である。

 日本の金融ネットワークの特徴は、メインバンクを核として形成されていることである。ただ、メインバンク制というのは、明確な意図があって形成されたものではなく、旧財閥系企業を中心にして自然発生的に形成されたと見られている。メインバンク制も企業が間接金融から直接金融へと移行するにつれてその紐帯(ちゅうたい)は弱まったとされている。
  旧西ドイツの銀行は、金融、証券、保険を兼業するユニバーサルバンクが中心であり、欧州統合の際、基本的に欧州は、ユニバーサルバンクを採用した。従来、アメリカや日本は、金融、証券、保険、各業界の間に障壁を儲け兼業を避けてきたが、金融ネットワークのグローバル化をうけて、この障壁を取り除く方向に進んでいる。

 今日の通信、情報技術の発達とそれに伴うネットワーク、特に、インターネットの発達は、金融ネットワークから国境を取り払い、金融のデジタル化、ひいては、経済のデジタル化を推し進めている。経済のデジタル化とは、経済の情報化、記号化を意味する。



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