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 経済現象が生産と消費に基づき、生産と消費が、需要と供給に左右され需要と供給が市場の大きさに依拠するとしたら経済現象を安定させるためには、市場の大きさを予測する必要がある。

 市場の規模は、需要が決め、供給量が市場の規模を確定する。市場経済下では、需要と供給が市場を形成する。需要は、消費によって喚起される。供給は、生産によって行われる。つまり、市場規模は、消費力、即ち、購買力と、生産力との均衡によって確定する。市場を作り出すためには、需要が鍵を握っている。需要を生み出すのは消費である。需要がなければ市場が形成されないので、需要を喚起するために、消費を促す必要がある。それが行きすぎると無理に消費を作り出すことになる。つまり、人為的に消費を作り出すのである。消費を生み出すのは、欲求である。欲求は欲望が原動力である。つまり、欲望や快楽を刺激するのである。市場経済が欲望の経済と言われる所以である。欲望を刺激するためには、欲望を肯定しなければならない。その為に、その為に、快楽主義的、享楽主義的傾向が高くなる。質素、倹約は悪徳なのである。消費社会においては、消費は美徳、節約なんてとんでもないことである。モラルは、不用であり、邪魔なのである。その日、その日が面白おかしく生きられればいいのである。しかし、それが清く正しい社会の在り方であろうか。ただ、単に堕落しただけに過ぎない。人としてどの様に生きるかは忘れ去られ。上客であれば、盗人であろうと、強盗であろうとかまわない。金にさえなれば、環境を破壊したり、絶滅を危惧される動物を密猟する事もかまわない。逆に金にならなければ、建物の安全性や食品の衛生も犠牲にする。それが人間として許されるであろうか。それを黙認する社会が正しい社会なのだろうか。

 馬を水辺に連れて行っただけでは馬は水を飲まない。馬に水を飲ませたかったら、喉を渇かせばいい。喉が渇けば、馬は、強制しなくとも水を飲む。その為に、経済を馬車馬のごとく回転させて常に、飢え、かつ、渇いた状態にしておく必要がある。それが大量消費型経済の実体である。

 しかし、需要がなければ、経済は成り立たないのであろうか。現代の経済が需要がなければ成り立たないから、大量消費を前提とせざるを得ず。大量消費を強要する仕組みにならざるを得ないのである。即ち、現在の資本主義経済は、大量消費経済だとも言える。そして、その大量消費が支えているのが、大量生産なのである。つまり、大量生産せんが為に、大量消費を促していることになる。その為に、環境が破壊され、また、環境が汚染され、資源が浪費されても仕方がないという考え方である。これは、本末転倒した考え方である。つまり、大量消費型経済は、エネルギーの浪費や資源の無駄遣いが多いのである。言うなれば低効率社会である。 

 市場は、成熟すると飽和状態になる。飽和状態の市場は、大量生産大量消費型経済では、経済を停滞させてしまう。

 そもそも、飽和した市場、成熟した経済は悪い状態なのであろうか。それは、満腹した状態は悪く。飢えた状態がいいと言っているようなものである。常に飢餓状態においた方がいいという社会である。それは餓鬼(がき)の世界である。飢えている社会より満たされた世界の方がいいに決まっている。その常識が通用しないのが、大量生産大量消費型経済である。

 大量消費が成り立つためには、無駄を奨励する必要がある。快楽や欲望に委せて消費し続けさせることである。大食い競争がもてはやされているが、意味もなくただ食べ続けることが善とされる。その為に、反吐(へど)をしてでも食べ続けさせるのである。餓鬼道である。つまり、飽食の経済だと言っても良い。いくら美味しい物でも満腹になれば欲しくなくなる。認知症になると、満腹感が得られなく、食べても食べても、食べ物を欲しがるようになる。感覚が麻痺してしまっているのである。大量生産大量消費型経済では、食べても食べても食欲のなくならない怪物のような消費者を求めているのである。それは欲望の権化のような消費者である。つまり、満腹中枢が麻痺してしまった人間を欲するのである。それは、およそ、人間として昔から求められてきた理想像とは、かけ離れた、正反対の人間像である。それが現代人のモラルの喪失に繋がっている。金の亡者が悪いと言うより、餓鬼のように飢え、際限なく新しい物を要求する亡者を生み出しているのである。その為に、ブランドや希少性と言った、人間の見栄、外聞と言った虚飾心を利用して肥え太っているのが、現代社会である。あさましいとしか言いようがない。満足を知る事によって人間は自制する。その満足感を否定しているのが、現在の市場経済である。究極的には、市場経済信奉者達は、消費者を中毒、麻薬中毒患者のように買い物依存症にしてしまうことが理想的なのである。

 そして、この様な大量生産大量消費型経済が成り立つのは、財が豊富に供給されるという前提があることである。この様に財が過剰に供給され続ける市場というのは、産業革命以後、大量生産方式が確立された事に起因している。この大量生産を成立させたのは、人口爆発による労働力の供給の拡大とエネルギー革命である。しかし、これらには限界があることを認識しておかなければならない。いつまでも人口は増加し続けるわけでもなく、資源も無尽蔵にあるわけでもない。最初から限界が設定されている事を忘れてはならない。土地や資源は有限なのである。人口は、やがては、抑制しなければならない様になるし、資源の浪費も続けるわけにはいかない。そうなると成長を自己目的化した市場経済には明らかに限界があるのである。

 成長している市場よりも成熟した市場の方が常態であることを忘れてはならない。つまり、成熟した市場をいかに効率よく維持するかが経済学上重要な問題なのである。

 量的拡大は、質的な変化を引き起こす。市場は、成長するにつれて量的な拡大から質的な充足に向かう。つまり、質より量から量より質へと変化していくのである。

 市場においては、質、量、密度が重要なのである。市場が飽和状態になれば、高品質の商品、つまり、付加価値の高い商品を供給するようになれば、市場を維持することが可能である。それが省エネルギーにも繋がるのである。

 貨幣経済では、資金の量が重要となる。しかし、市場経済において資金の量そのものには実体はない。貨幣価値は、財の交換価値を表象した物にすぎないのである。市場価値を確定するのは、密度である。密度が重要なのであるから、質が問題になる。質的な基準実体がならばどこにあるのか。量的な基準が貨幣にあるのならば、質的な基準は、財そのものにある。財の使用価値や希少価値である。

 所得は、貨幣で支給される。消費は、所得を下回る。それだけでは、需要は、所得を上回ることはない。重要なのは、負債である。つまり、借金の技術であり、余剰資金は、貯蓄と投資に向けられる。この貯蓄と投資は、借金の素なのである。つまり、貯蓄も投資も本来は私的貸し付けなのである。故に、金利や配当が付く。だから、貯蓄や投資は、資金を生み出す。この事からわかるように、投資乗数効果は、貯蓄と投資によってもたらされるのである。

 所得を上回る資金不足は、借入、借金によって賄(まかな)われるのである。故に、金利が重要となる。借金、投資、貯蓄は、資本と時間の関数である。つまり、借金と投資、貯蓄によって貨幣価値は、時間の関数となったのである。

 通常、消費は所得、可処分所得の範囲内で行われる。他から、資金を調達しないかぎり所得と貯蓄以上の消費はできないのである。そして、資金を生み出しているのは、実は、借金なのである。

 資本主義経済、および、その延長線上にある構造経済は、利益と借金の経済であり、利益と借金を罪悪視している限り、理解することはできない。借金や利益を上手に運用することで、経済の効率性は保たれるのである。借金や利益を上手くコントロールできなくなると経済は暴走する。過剰な利益や借金は、富の偏在や格差を生みだし、また、社会に不用な財を蓄積し、経済の健康を害する毒でもあるのである。

 基礎的インフラストラクチャーには、社会構造がある。社会構造の中で今問題となっているのは、社会格差である。しかし、何を基準として格差と言うのかは定かではない。

 何を持って格差と言うのか。それは何を贅沢というのかに似ている。主観的問題だ。住宅の善し悪しは、所得で決まるわけではない。家の広さどうか。交通の便はどうか。それに、ただ広いだけで良いかというとそう言うわけにもいかない。ただ広いだけではかえって手入れが大変になる。
 
 格差と言っても、相対的である。また、市場価値には、元々財としての実体があるのである。例えば、六本木に高級なマンション持っていたとしても、それをただ価格が高いと言うだけで、実体的な価値があるかどうか疑問である。本来、価値は、部屋の広さや交通の便、住環境にあるのである。同じ価格で多少交通の便が悪くとも部屋が広くて快適な環境に建つマンションは、いくらでもある。要は価値観の問題である。大体、六本木なんて江戸初期には、原野に過ぎなかったのである。土地の市場価値は、時代や場所によって違う、しかし、土地そのものが変わるわけではないのである。
 食通を気取っている者がいるが、目隠して試験をすると専門家でも産地を特定するのは困難である。また、マグロのトロは、脂が多すぎると、かつては捨てていたのである。それが今や最高食材の一つである。ある意味で自己暗示、自己満足に過ぎない。

 問題は、価値観の問題である。会社まで三十分以内の通勤圏内に戸建ての住居の価格を基準としたら、都心に勤める者と地方としに勤める者とでは、住居の価格に天と地ほどの差が生じる。六本木に猫の額ほどの敷地のマンションを何億円も出して購入するのと、地方で、庭付きの邸宅に住むのとどちらを良しとするのか。それは、最終的には、その人の考え方による。市場価格だけでは推し量れないのである。
 格差社会と言っても商品にどの程度の格差を付けるのかの問題に還元できる。どんな料理でも同じだと言ってしまえばそれまでである。つまり、全ての食料を重量で価格をつけて均一にしてしまうのか、各自の好みによって格差を付けるのかの問題なのである。重量によって均一の価格にすれば格差のない社会であろうし、バラバラに値段を付ければ格差があるのである。いずれにせよ、本来は程度の問題である。そして、その程度とは、市場価値の密度の問題なのである。

 生産の量的拡大は、生産の質的な変化を引き起こす。それは、生産の密度の問題である。生産の密度は、市場の構造を変化させる。
 大量生産は、生産物の質的な変化を引き起こす。生産物の質的な変化は、市場価格を変化させる。生産物の変化は、人々の生活スタイル、消費構造を変革する。それによって市場は構造的な変化をし、経済現象全体を変えてしまう。
 重要な事は、社会の構造的変化に経済体制がついていけるか、適合できるかである。少子高齢化が悪いのではなく、少子高齢化に適合できないことが悪いのである。
 現代の経済体制は、時代遅れの大排気量の自動車みたいなものである。意味もなく大きなエンジンで、走るたびに排気ガスを振りまいている。これからは、高効率で環境に優しい、ハイブリットな車にしなければならない。経済も同じである。

 高齢者や病人に全力疾走を強いるような社会が理想的な社会といえるであろうか。欲望や快楽を推奨し、真面目に、正直に生きる人間が生きにくい社会が良い社会といえるであろうか。成熟した社会こそある意味で大人の社会である。成長ばかりを追い求めるよりもより豊かでゆとりの持てる生き方を追求できる社会こそが人間的な社会といえないだろうか。
 その為には、将来への見通しが立てやすく、安定した社会こそが理想なのである。省エネ型経済、即ち、規則正しいサイクルの中で安定して状態を保てる経済社会への移行こそが、構造経済の目的なのである。

 前提条件を間違えてはいけない。前提条件とは、国民のより良い生活を生み出し、維持することにあるのである。経済的効率は、副次的な問題である。手段に過ぎない。経済的効率が生活を圧迫するのならば、なぜ、経済的効率を追い求める必要があるのか。経済とは、本来合目的的なものなのである。成長やも生産性、効率を経済の前提にするのは本末転倒である。低成長時代に入ることが解ったならば、その中で国民の幸せの実現を計るべきなのである。それが、経済の成立前提である。
 

B−4−2 成立前提