市場全体は、幾層にも重なり合った複数の小さな市場の集まり、集合体であり、一つの産業の中にも段階や次元、位相によって複数の市場がある。

 また、産業を支えるインフラストラクチャーにも、有形な部分と無形な部分がある。有形な層は、俗に言うライフラインや電気、通信、交通と言った部分である。また、広い意味では、部品や材料、加工と言った基礎産業である。無形な部分には、金融ネットワークや市場、各種の法制度、会計制度などがある。また、文化や歴史、伝統、風俗、習慣、宗教、教育、価値観なども含まれる。
 インフラストラクチャーは、この様な有形、無形な場が重層的に重なり合って形成されている。

 市場は、単体で成り立っているわけではない。市場は、小さな市場の集合体であり、個々の小さな市場も多くの経済主体、企業の集合体である。市場を考える時、単一の市場の問題では片づかない。一つの政策や影響を考える上では、当該市場だけでなく、前後左右で関連した市場との相互作用をも考えなければならない。

 分業が進むにつれて、かつてのような自己完結的な産業は少なくなった。自己完結的な仕事というのは、家内工業のような仕事である。一人の職人、ないし、一人の親方と数人の職人で一つの製品を最初から最後まで仕上げるような仕事である。この様な仕事は、一貫した仕事であり、組織的と言っても小規模で単純なものに過ぎない。それが大量生産時代になると分業が進み、一つの製品を作るのにも多くの企業が構造的に組織されるようになった。それが体系付けられたのが、系列であり、下請け制度である。

 下請けや系列の形成は、一つの産業が単一の企業によって成り立ち得ないことを意味している。例えば、自動車産業一つとっても金型産業や部品産業が組み合されることによってはじめて成立する。つまり、組み立てや加工だけを主とした企業単体だけでは、産業は形成されないのである。おびただしい数の下請け企業群の存在が、前提となって産業は成立している。これは、加工や組み立て工場だけを移植しても産業は育たないことを意味している。

 自動車や飛行機、機械などの産業を考えるとその機械を構成する部品の数だけ関連産業があると言っても過言ではない。そして、それぞれに独自の論理で市場を形成している。
 自動車産業一つとっても二万から三万に及ぶ部品がある。それも、鉄鋼から電子部品、ゴム、タイヤ、機械部品、歯車と多岐にわたる。また、関連産業としては、石油や電気、ガスなどのエネルギー産業もある。
 更に言えば、自動車産業は、それが消費される場においても、例えば、道路が整備されていなければならないし、石油産業が発達していなければならない。また、出来上がった製品を輸送するための船舶等の交通機関、港湾設備も必要である。この様に多くの産業が裾野を形成しなければ自動車産業は成り立たないのである。また、質の高い労働者を供給する労働市場や教育制度も完備されている必要がある。
 産業は、産業を成立させているインフラストラクチャーや周縁部の存在が不可欠なのである。

 中でも資本市場を含めた金融のインフラストラクチャーは、重要な機能を果たしている。市場経済、貨幣経済において金融機関は、心臓部にあたり、貨幣の創出と循環という機能を果たしている。

 個々の部分市場は、それぞれ、独自の市場の原理、原則、基準、規範、論理を持つ。また、独自の取引の形態、仕組み、慣行、慣習を持っている。生産様式も独自なものであり生産様式は、産業を決定付ける要素であるから、生産様式によっても市場は違ってくる。しかも、今まで述べてきた一つ一つの要素が歴史的経緯を背負っている。
 かつて、村々、街々にあった造り酒屋やパン屋も工業製品化され、商品が、大量生産され、画一化されるに従って取引の形態や販売経路に変化が現れてきた。そして、その変化がその国の経済体制を変革してきたのである。
 また、市場、取引が行われる空間、手段も違う。構造・機能も違う。同じ産業内部でも次元や段階、位相によって空間も、手段も、構造も、機能も、違ってくる。
 空間の違いとは、魚市場のように現実に物理的空間内に形成される市場も在れば、株取引のように、インターネットという仮想空間の中に構築された市場もある。
 物理的空間も地理的条件や自然、環境によって違ってくる。交通機関の発展は、市場の在り方をも変えてしまう。
 市場は、お互いが密接に連関した集合体、構造体であるから、市場の過程で一部の市場が機能しなくなると市場全体に市場が及ぶことになる。それがインフラストラクチャーに関係した産業であれば、産業や社会に及ぼす被害は甚大なものとなる。典型は、石油や電力市場である。ただ、石油や電力市場だけでなく、一部の市場が寡占状態な場合、一つの工場火災や企業倒産が産業全体や物価に重大な影響を及ぼすこともままある。経済は、現実であり、ただ観念によってのみでは、捉えきれるものではない。
 この様に多様な形状を見せる市場を一律に評価したり、政策を決定する事は不可能である。一律な施策では、個々の市場を規制することはできない。個々の市場の状況や特性に従ってきめ細かな政策を立てる必要があるのである。
 
 産業にとって水平的均衡と垂直的均衡が重要なのである。鉄鋼や石油、電気、水道と言った産業の基盤となる水平的、横断的産業と部品メーカーや金型と言った垂直的関係の産業、それぞれの均衡によって産業の均衡が保たれている。
 不況期には、垂直的関係の中でコストを吸収し、また、異業種、同業種間でインフラストラクチャーの共有化によって固定的費用の分散を計っているのである。その意味では、同業者は競争相手であると伴に、協力者でもある。それは、野球のチーム同士が競合相手である仲間である関係に似ている。野球は一チームでは成立しないのである。リーグという横の関係と一軍、二軍という縦の関係の均衡の上にプロ野球が成立しているように、産業も水平的関係と垂直的関係とによって成り立っている。

 つまり、経済体制は、水平的均衡と垂直的均衡からなる。このバランスを採ることが経済政策にとって重要なのである。
 水平的均衡と垂直的均衡を測るのが、法や会計制度、税制度と言った無形なインフラストラクチャー、ソフトなインフラストラクチャーである。

 社会の活動力の源は、格差である。その格差の幅が極端に大きすぎたり、固定的であったり、意味不明なものだとその効力を発揮できないのである。
 どんなに努力しても、ある一定以上は望めないとしたら、望むことそのものをしなくなり、活力を失う。また、一度、序列が定まるとそれが固定してしまい、実績や結果に対する評価がなされなくなれば、つまり、やってもやらなくても評価が同じならば、人はやる気をなくして活力が削がれる。根拠のない理由で差が付けられれば、人は納得ができず、活力をなくす。
 だからといって、格差が悪いと、全てを均一にしてしまうと、社会の活動力は失われるのは、共産主義国によって実証された。もっとも、何もかも、均一、同等にせよと言う事を社会主義が意味しているわけではないが・・・。
 経済の源となり活力を生み出すのは、格差である。その格差は、絶対的な格差ではなく。相対的な格差である。
 今の社会に対する基本的認識は、学級制度である。戦後生まれで義務教育の先例を受けた者は、どうしても、学校生活の悪弊が拭いきれない。つまり、学級というのは、同年齢の者が同じ環境(社会から隔離された閉鎖的状況)で、同じ事を、同じ教科書に基づいて一律に教育されている。教えられたこと以外は、やってはいけない。全てが、悪い、間違いとは言わないまでも、少なくとも正解ではない。しかも、休みと休み時間は、予め周期的に与えられている。つまり、極端な平等主義と閉鎖主義、それでいて、学年間の格差、成績による序列がハッキリとしている、差別的環境なのである。不可解かもしれないが、平等的状況と差別的状況が混在している極めた特殊な状況である。この環境下に十年以上置かれている。
 そして、そのまま社会に放り出されるわけである。まるで長い間、水槽に変われていた魚がいきなり大海に放り出されるようなものである。大海に戻されても、結局、水槽にいた時と同じ行動をするしかない。それが、社会生活の節々に現れている。
 言われたことを言われたとおりにしかできない。教えられたこと以外何もできない。しかも、それが一律均等にである。
 フィランドが理想的な教育をしているという。しかし、その根拠を聞くとやっぱり、学力で日本が負けたからと言う事である。元々、フィンランドが優れた教育をしているという問題は、学力によらない教育をしているからだと言っている傍から、学力によって優れているというのでは、筋が違う。理想的な教育というならば、教育根本の理念を学ぶべきなのである。そう言った因果関係に対する認識が狂っているのである。

 平等の概念を、同等主義、同一主義によって成り立たせるためには、財の出し手の認識と受け手の欲求、双方が、同質、同量であることが前提となってしまう。もし、双方が均一均質でなければ、平等は成立しなくなる。格差を認めない平等主義の落とし穴がそこにある。しかも、認識や欲求の源は、個々の対象であり、個々の主体であるから対象と主体の属性に支配されている。
 例えて言えば、均質の均一の財を求めても、全ての財を均質の企画に当て嵌めることは困難だという事である。そう言う意味では、皮肉なことに、もっともこの条件を満たしているのは、大量生産方式の工業製品である。食肉で言えば、一頭の牛からとられる肉ですら部位によって違いがある。肉を均等に分けるといっても同量の肉を分けただけでは、平等とは言えない。一頭の牛からとれる肉だけでも、こうなのであるから、食肉全般で見たら、均質、均等の分配など不可能である。また、例え、食肉そのものを同等に区分けすることができたとしても、それを運搬するためのコストや時間、保存方法によって肉の味は変質してしまう。結局、市場の需給による均衡に基づかなければ、無作為で分配するか、力のある者が一番上等な部分を独占してしまうのである。
 例えて言えば、均質の均一の財を求めても、全ての財を均質の規格に当て嵌めることは困難だという事である。そう言う意味では、皮肉なことに、もっともこの条件を満たしているのは、大量生産方式の工業製品である。食肉で言えば、一頭の牛からとられる肉ですら部位によって違いがある。肉を均等に分けるといっても同量の肉を分けただけでは、平等とは言えない。一頭の牛からとれる肉だけでも、こうなのであるから、食肉全般で見たら、均質、均等の分配など不可能である。また、例え、食肉そのものを同等に区分けすることができたとしても、それを運搬するためのコストや時間、保存方法によって肉の味は変質してしまう。結局、市場の需給による均衡に基づかなければ、無作為で分配するか、力のある者が一番上等な部分を独占してしまうのである。
 反対に受け手の側から見れば、南国と北国と住むところですら条件が違う。条件が違えば、配給する物も違ってくる。大体、人間は、好むところも違うし、体格も違う。肉が好きな人間に魚を与えても差別されていると感じるであろうし、魚が好きな者に肉を与えても同様である。体格が違えば、必然的に着る服も履く靴もサイズが違う。相手の好みや体格に合わせようと思ったら、明らかに差を付けなければならなくなる。
 また、能力に応じて働き、必要に応じてとると言っても、それは、無制限のバイキング料理のようなもので、結局、料金だけが同等なのだと成りかねない。負担や取り分は不均衡なものになる。料理の質も量も均一には成らない。これも市場の需給による調整、均衡に基づかなければ、全ての欲求を予測するか、ただ、供給する物を同じ物にするしかない。
 ある意味で、同等な社会というのは、禁欲的、モノ、単一的な社会に成らざるを得ない。それが共産主義の失敗である。
 平等の概念というのは、格差の水平的、垂直的の均衡の上に成り立っているのである。ただ、平等の概念の中で最も危険なのは、学級的平等である。学級的平等は、差別を内包しながら、固定化し、体制化してしまう。

 産業を支えるインフラも個々の産業や企業、また、労働者一人一人の格差によって活力を引き出している。競争とは、本質的に格差がもたらすものである。つまり、位置や運動に伴う格差を均衡しようとして競争的状況が生じるのである。つまり、競争がエネルギー、活力の源ではなく。格差こそが活力の源なのである。故に、この様な活力は、競争だけによってもたらされるものではない。技術的な格差や環境、状況の格差によっても生じるのである。

 格差にも位置エネルギーから形成されるストック部分と運動エネルギーから発せられるフローな部分とがある。
 問題なのは、必ずしもストックとフローの変動が連動していない事である。しかも、貨幣価値には、蓄積性があり、長い間には、富の不均衡、アンバランスを生み出すことである。この事は、ある一定の周期で社会変動、変革、革命が起こる原因の一つと考えられる。
 この様な、不均衡を抑制し、社会間均衡を保つことは、無形のインフラストラクチャーの重要な機能の一つである。

 石油やガス、原子力と言ったエネルギー源は、非常に便利に反面、危険物でもある。そのままむき出しでは、取り扱うことは不可能である。エネルギーを取り扱うためには、器具・装置が必要である。器具・装置によってエネルギーを制御するようになって、はじめて、エネルギーは活用できる。
 経済のエネルギー、活力源も同様である。有形、無形のインフラストラクチャーという装置によってはじめて活用が可能となるのである。



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