我が国は、四方を海に囲まれ、美しい海岸線に恵まれていた。しかし、我々は、今海岸に降り立つと目にするのは、コンクリートできたテトラポットの残骸とゴミの山である。かつての美しい、白浜はどこにもない。確かに、物質的には、豊かになった。しかし、それは、汚染され、川は薄黒く汚れ、食べ物は、化学薬品の塊になってしまった。そして、何よりも大切な人々の心の荒廃が拡がっているのである。日本は、人間は、どこに向かって行こうとしているのであろうか。この国をどの様な国にしたいというのであろうか。
 京都の町並みは、整然と世界的に見ても美しかった。その京都の町並みも段々に失われつつある。東京もかつては、今日の街のように風情のある街だった。ところが、今の町並みは、無秩序にビルが乱立している殺風景な風景に変わってしまった。一つ一つのビルを見ると確かに、機能的にデザインされているかもしれない。しかし、街全体を見ると色褪せた景色に見えるのはなぜであろう。そこには、人間本来の意志が感じられない。あるのは、むき出しの欲望だけである。
 そこには、自然を生かし、自然と調和しようとしてきた、我々日本人の祖先の知恵は生かされていない。

 経済は、人々の日々の営みを円滑にし、生活を円滑にさせる事が、本来の在るべき姿である。ところが、経済学者の多くは、その事を忘れている。だから、景気や効率の良し悪しが先に来て、人々の生活は後回しにされてしまうのである。景気が良くても人々の営みが成り立たなくなれば、それは、経済の仕組みに欠陥があるのである。
 環境問題が典型である。人間は、自分達が作り出した環境に苦しめられているのである。人間にとって、どの様な環境が望ましい環境なのか。我々は、どの様な環境を、生活を理想とするのか、その明確な指針もないままに、ただ行き当たりばったりに生活をし、その結果環境を悪化させているのに過ぎない。後作に対する何の考えもないままに、ただ、やりたい放題してやり放し、食べたい物を食い散らかしいるだけならば、何も片付けができなくなり、ゴミの山の中で生活するしかないのである。自分達が出したゴミで環境が悪くなったとしてもそれは自業自得としか言いようがない。
 温暖化現象が好例である。温暖化現象を根本的に変えるためには、経済の仕組みを変えなければならない。しかし、どの様な環境を目指すべきかの構想を現在の経済学はもてない。それが経済学の最大の問題なのに、そのことに対して経済学者は、認識が欠いている。それでは、解決策を立てようがない。温暖化は、悪い。温暖化を止めなければならないということは解る。しかし、どうすれば良いのか解らない。それでは、診断書は書けるが、治療はできない医者のようなものです。
 人間は、どの様な経済状態、また、環境にしたいのか。それを明らかにしない限り、所詮、現実離れをした話しかできない。しかし、明確なビジョン、方向性が定まれば、例え、それが夢のような話でも実現性、可能性が出てくるのである。
 そして、経済の実相は観念の中にあるのではなく。現実の中にあるのである。その典型が立地条件である。

 立地条件を決定付けるには、範囲、領域、区域、エリアが問題となる。その範囲や領域、区域、エリアによって産業に対する認識に差が生じる。
 地形も重要である。平野であるか、山間部にある盆地であるか。河川はどう流れているか。水はけは良いか。良港に恵まれているか。地層はどうか。それらはどの様な産業に適しているかの決定的要素となる。また、地形だけでなく、人口密集地かどうかも需要な要素である。賃金の相対的国際格差は、個々の国の経済の消長に関わる。

 日本は、極東の島国である。日本の国土は、亜熱帯から、亜寒帯にかけて細長く弓状に伸びた列島である。森林面積66%、山地面積61%と平野部が少なく、その少ない平野部に多くの人口が密集している。

 我が国は、かつて「黄金の国」と言われていた。しかし、現代の日本の状況は、鉱物資源に乏しく、中でも、石油に代表されるエネルギー資源のほとんどを海外に依存、輸入に頼らざるを得ない状況である。
 また、食料は、米を主食とし、稲作によって支えられてきた。その食糧自給率も供給熱量総合食料自給率で平成19年度現在40%(農林水産省)にすぎない。

 この日本の地理的要件が、日本の産業を決定付けている。

 日本の石油業界は、消費地精製主義を採ってきた。それに対し、産油国は、原産地精製主義に傾きつつある。消費地精製主義は、民族系石油業者の保護育成を目的とした思想である。それに基づいて石油業法は制定され、石油業法によって石油業界は形作られた。むろん、石油業法の制定者の意図した事は実現しなかったが、石油業界の形成において決定的な役割を果たしたことは事実である。

 世上、政治的事件と経済的事件とを切り離して考える傾向がある。と言うよりも、政治的決定が経済に与える影響を過小に評価するむきがある。しかし、政治的決定は、経済に決定的な影響を及ぼすのは火を見るより明らかである。放任主義的経済、市場原理を信奉するのは、勝手だが、しかし、人間の意図的行為が経済に影響をまったく与えない。あらゆる人間の意志を排除して、市場の機能に全てを委ねるべきだという政策は、過激すぎる。人間の放縦な恣意は規制されなければならない。
 政治的な行為は、経済と密接に関連している。政治的決定は、常に、経済的に検証されるべきである。そして、その政治的決定は、地理的要件に拘束されている。
 戦争の陰には、必ず経済的理由が隠されている。政治的な理由だけでは、戦争は起こらないのである。経済が戦争を必要としているとまで言う者すらいる。そして、その経済的理由の要因の一つが地理的条件である。我が国も例外ではない。

 ライン川のように複数の国家をまたがって流れる河を巡っての水争いは、近年深刻の度合いを高めている。例えば、河の上流国が建築したダムによって下流国へ流れる水量に変化が生じたり、また、上流国で放水した水によって下流国に水害が生じたりする。また、上流国による河川の汚染が下流国に甚大な被害を及ぼす事もある。
 水利問題だけでなく、大気汚染の問題はより深刻である。その好例が、温暖化問題である。更に海底資源を巡っての国家間の紛争は、戦争に発展しかねない危険性を孕んでいる。
 湾岸戦争のそもそもの原因は、イラクがクウェートとの油田を巡っての紛争からクェートに侵攻したことである。オイルショックは、産油国が一部の限られた地域に集中していることが原因となっている。

 アメリカの独立戦争の直接の引き金は、税の問題である。南北戦争は、奴隷制度であり、その奴隷制度を支えていたのは、南部の綿産業、プランテーションである。根本は経済の問題である。これは、阿片戦争も然りである。
 今日、アメリカは、エネルギーと食料と情報産業を国家戦略の要として位置付けている。その国家戦略に基づいて産業を保護し、発展させているのである。その典型が宇宙産業であり、航空機産業である。
 そして、軍事技術の発達がその国の産業をリードしている場合がよくある。その典型は、スイスである。スイスの産業は、スイスの地理的な要件や歴史的、政治的な背景をよく反映している。金融業、精密機械業、そして、兵器産業は、スイスの地理的要件や歴史的、政治的要件抜きには語れない。されに言えば永世中立、民兵という国家理念、国家体制抜きにも考えられないのである。つまり、産業は、国防思想、国防その物なのである。

 日本が、第二次世界大戦に参戦し、敗北したのも経済的動機である。経済的動機で日本は、戦争を始め。経済が原因で敗戦した。つまり、日本の国の存亡は、経済と産業が握っていたのである。

 しかし、なぜか多くの国家は、また、学者は、戦争の原因が経済上の問題だとは認めたがらない。人道とか、民主主義といった大義を持ち出す。そうは言っても戦争の真の原因は、経済上の問題であることは隠しようがない。ただ、経済的理由で戦争をしたと認めたくないだけなのである。経済上の動機、原因を明らかにしないから戦争の真の原因が見えてこない。その為に、戦争は、防ぎようがないのである。

 南北問題も東西問題も地理と経済が密接に関係した問題である。政治地理学があるように、経済地理学が必要なのである。

 ロシアが良港を求めて南下したのは有名な話であるし、雪国、一年の内の半分ちかくも雪に埋もれてしまう。この様に、産業や経済に立地条件は、決定的な要因となるのに、経済学者は、地理的問題を意図的に避けているようにすら見える。また、政治や戦争、環境に与える経済的な要素も無視できるものではない。それも、経済的要因が政治や戦争、環境に及ぼす影響であり、同時に、政治や戦争、環境と言った要因が、経済に及ぼす影響の両面においてである。
 オイルショックの例にあるように、宗教的、民族的対立が深刻な経済問題を引き起こす危険性もある。

 鳥インフレエンザで問題になった疫病の問題は、国境を変えて影響を及ぼす。そして、一度(ひとたび)鳥インフレエンザが蔓延するその国の養鶏産業は、壊滅的な打撃を受け、それは周辺国にも影響する。公害問題や通貨政策が典型であるが、一国の政策や体制の影響は、一国の範囲にとどまらなくなっている。
 国際的な環境汚染、国際犯罪、国際的租税回避行動、国際的な金融取引、国際的投機、通貨取引、裁定取引それらの多くが、国家間の制度的、構造的違いを利用してされている。それが、石油の高騰や国際的金融危機また、通貨の混乱を招いている。また国内では違法なことでも国際取引を経緯する事で合法化される。所謂(いわゆる)マネー・ロンダリングされてしまう。そして、それらの拠点となる国は、何等かの地理的な要因を持っている。
 労働条件は、一国の事情だけでは決定できなくなっている。労働条件の悪化は、周辺国に合わせざるを得ず。一国の低賃金は、隣国の失業をもたらすことにもなる。自国の繁栄は、他国の貧困によって支えられている場合もある。経済成長が、エネルギーや食糧危機を招くことになるかもしれない。場合によっては、内政干渉とも言えるような外圧によって労働条件が変えられてしまう。結局、エントロピーの増大によっていつか、労働条件は、世界的標準に収束せざるを得なくなるかもしれない。

 国際的な問題が起こる原因は、個々の国家の地理的要因が多く作用している。しかし、誰も、その真実に触れようとはしない。経済現象は、まるで人間の恣意的行為とは無縁であるように言う。人間の意志があったとしてもそれは、株価に反映されたり、物価に反映される物であり、戦争や災害は、経済に無縁であるかのように経済学者は語っている。恣意的に経済学者は、政治を避けているかのようにすら見える。逆に言えば、経済学者には、政治的責任がないように振る舞う。しかし、実際は、経済学者は、政治的責任から逃れられない。なぜなら、内政の混乱や外交上のトラブル、戦争、紛争の原因の多くは、経済にあるからである。汚職は、経済的動機に根ざしている。

 交通や通信技術、インターネットが発達した今日、立地条件は、以前ほど、重要視されなくなった。しかし、それは、表面的なことであって今日の経済、産業においても立地条件は、重要な要素の一つである。それに、立地条件が軽視されるのは、何も、今日だけの問題ではない。地政学的な意味での地経学は、未だに確立されていない。経済学が、問題にしているのは、財政や金融政策に絡んだマクロ経済学的か、企業行動一般や家計一般に関するミクロ経済の分野にしか過ぎない。経済学は、まだまだ未開な分野なのである。
 立地条件は、産業、経済を考えていく上で重要な要素の一つである。また、一国の消長を決するほどの大事でもある。
 いつの時代でも立地というのは、成否、勝敗を決する大事な要素であった。戦略においても地形や地の利は、最も重大な項目である。

 それぞれの国家、地域には、地相がある。地相と言っても占いで言うようなものとは違う。砂漠の国には、砂漠の地相が、雪国には、雪国の地相が、島国には、島国の地相があるという事である。そして、産業は、その地相に影響されてきたのである。影響と言うよりも、地相は、もっと決定的な要素であった。

 内陸にある地域のか、沿海地域なのか、半島なのか、島国なのかでも産業の在り方は違ってくる。その地域が熱帯地方にあるのか、温暖地方にあるのか、寒冷地方にあるのかでも産業は違ってくる。また、鉱物資源の有無、水利の有無によっても違う。砂漠にあっても産油国は、豊かである。

 産業は、交通機関の発展ともに変化、変質してきた。海運、航路の発達と共に港町が繁栄し。陸運、即ち、鉄道や道路の発達が内陸部の産業の発展を促した。今日、空運の発達が鍵を握っていると言われている。
 治水工事や航路開発は、歴史的な事業だったのである。

 横浜は、鎖国時代は、寒村に過ぎなかった。それが、今日では、東京に次ぐ大都市へと発展してきた。逆に、交通の便が悪くなることによって衰退した地域も沢山ある。有名なのは、鉄道建設に反対したために、路線からはずされ衰退した地域の例えである。

 交通の要衝にあるか否かも重要な要素である。また、交通路を支配することによって経済を導くこともできる。
 鉄道会社は、鉄道を引くことによって地域を開発してきたのである。つまり、二束三文の土地を鉄道を通す事によって開発するのである。

 為政者がどの様に経済を考え、経済の仕組みを築き上げるかによって、経済体制は変わってくる。
 政治や消費の中心を何処におくかによっても市場の構造は変わってくる。城下町や門前町はその典型である。それは現在でも変わりない。
 かつて、織田信長は、楽市、楽座を実施した事で、経済的な裏付けを手にした。それは、物流が経済の盛衰を決することを見抜いていたからである。

 土地問題は、経済問題と切っても切れない関係にある。バブルの遠因は、含み経営における土地問題、円高不況、相続税対策、金融政策、直接金融への移行などが上げられる。そして、それらの多くが土地問題に端をはしているのである。逆に言えば、土地本位制度とまで言われたほど地価の在り方が、経済状況、更に言えば産業の在り方を決してきたのである。

 市場を考える時、単一の市場の問題では片づかない。その典型が土地問題である。例えは、総量規制が典型である。農林系や住専問題を引き起こす。また、土地がバブル問題の引き金を引いたのは、単なる地価の高騰だけではない。地価が借入の際の担保とされていたという因果関係や地価にかかる相続税などと言った複合的な要素が作用した結果なのである。
 一つの政策や影響を考える上では、当該市場だけでなく、前後左右で関連した市場との相互作用をも考えなければならない。

 小売問題は、商圏内の争いではなく。商圏間の争いになっている。商圏間の争いであるから、その商圏の浮沈に関わる問題となる。かつては、大型店舗の侵出を嫌っていた小売業者も今では、大型店の出店による商圏の活性化を歓迎するようになってきた。つまり、商圏の問題は、市場の構造変化なの問題なのである。それは、地理的要件なのである。

 一体全体、我々は、どの様な生活や生き方を望んでいるのか。エゴイスティックに刹那的な快楽を追求し、欲望に身を委ね、この世のモラルなど顧みずに生きたところで何が得られるというのか。絶望的な孤独しかないではないか。人間いつから、幸福を望まなくなったのか。不倫。性欲。飽食。暴力と欲望をマスコミは、賞揚するが、幸せは、人々の穏やかな営みにこそある。地道な努力や正直な行いを否定してまえば、堕落と荒廃しか残されていないのである。
 地球は、青い美しい星である。日本は、緑の多い住み良い国である。なぜ、その豊かさを捨ててまで、人々は、快楽に身を委ねようとするのか。それは、この世の憂さを晴らすために麻薬に手を染めるようなものである。大切なのは、我々は何を目指し、どこに行こうとしているのかである。
 我が国土をこれ以上汚染し、環境を破壊して何になるのであろうか。

 自制は、臆病者の言い訳なのか。違う。自制心こそ、人の世の始まり、けじめなのである。自制心が失われれば、世も末である。自制こそ力である。自制心こそ誇りである。自制心こそ自身を涵養する。


 Since 2001.1.6
本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano

立地条件・自然環境