労働界において重要な課題は、自由か、平等かである。この点を日本人は理解できない。革新勢力は、自由と平等を同列に扱い、それを同時に達成しようとする。
 ベルリンの壁の崩壊以後、日本人の意識の中から、社会主義、中でも共産主義は、過去の遺物として忘れられつつある。しかし、現実の世界では、新たな社会主義勢力の台頭が顕著であり、社会主義は、過去の遺物どころか、新しい潮流となりつつあるのである。
 つまり、平等思想が強く現れてきたのである。その背景には、世界的に拡がる貧富の格差、南北問題、更に、温暖化に代表される環境問題、その他に、人口問題、エネルギー問題が隠されている。そして、それらが世界紛争の火種として各地で燻(くすぶ)っているのである。

 グローバル化は、労働コストの低いところへと産業の転移を促す。そして、労働コストは、本来相対的な費用であり、為替の変動や国内物価の影響下にある。購買力平価の問題を持ち出すまでもなく、一定の期間でエントロピーが極大化し、均衡に至ることが予測される。そうなると、労働コストよりも産業構造の経済効率の方が重要となる。その産業構造の基幹にあるのが、雇用の仕組みであり、その雇用の仕組みの根拠となる思想である。社会主義的思想というのは、平等理念と共に、共同体理論を併せ持つ。そして、その共同体理論こそが本来の労働理念の本質を構成する核なのである。

 経済を考える時、年収は、一つの基準・指標となりうる。と言うよりも、経済の本質が労働と分配であるならば、年収の在り方というのは、経済体制を考える場合、根本となる前提条件なのである。その年収の在り方、言い換えれば、個々人の所得の在り方こそ、労働運動の性格をも左右する思想的問題なのである。

 さらにいえば、この様な思想的な流れ以外に、欧米を中心とした世界には、実務を基盤として二つの大きな流れがある。一つは、英米を中心とした世界の流れと大陸、即ち、ドイツ、フランスといったユーラシア大陸を中軸とした流れである。具体的に言うと、英米は、第一に、判例法、慣習法、即ち、コモン・ローを基盤とした世界であるのに対し、大陸は、実定法を基盤とした世界だと言う事。第二に、英米は、帰納法的世界観を基礎とし、大陸は、演繹的世界観を基礎としていることを意味する。また、第三に、英米は、普遍主義的なのに対し、大陸は、単一主義的であり、第四に、英米は、自由主義的傾向が強く。大陸は、平等主義的傾向が強い。英米は、必然的に自由貿易主義になり、大陸は、保護貿易主義的になる傾向がある。第五に、英米は、資本市場を土台として発展してきたのに対し、大陸は、金融市場を土台としている。つまり、株主、投資家保護か、債権者保護かの差になって現れる。第六に、英米は、公開的であるのに対して、大陸は、閉鎖的になる。会計的に言うと、第七に、英米は、連結決算を重んじ、大陸は、単独決算を重んじる。同じく会計的に言うと第八に、英米は、時価会計志向であり、キャッシュフローを重視するのに対し、大陸は、取得原価主義であり、損益計算を重視する。また、第九に、英米は、会計と税の基準を切り離して捉え、会計や会計のプロに、法のことは、法のプロ(専門家)に委ねるのが基本であるが、大陸は、ドイツの「基準法」の例に見られるように、税法と会計基準を一体に考え、商法と税法、会計制度の整合性を重んじる。また、日本は、確定決算主義を採り、会計原則は、大陸型である。第十に、英米は、国際主義的であり、大陸は、国家主義的である。(「会計制度の経済学」山本昌弘著 日本評論社)
 今日、世界の潮流は、グローバルスタンダード、国際化、株主重視、資本市場重視であるから、明らかに、英米の流儀が優勢である。しかし、これからは、雇用や環境の面からも経済体制を見直す必要がある。グローバルスタンダードは、反面において、世界を一つの共通の市場として維持していく必要性を生じさせるのである。中でも、労働環境や労働条件は、公平な競争条件という観点からも見直され、標準化されていくことになるだろう。さもなければ、個別の市場を維持するために、保護主義化するか、あるいはブロック化せざるを得ない状況に追い込まれるであろう。

 大陸型の制度は、保守的、閉鎖的で狭い市場の中では有効であるが、国際化がすすみ開放的で革新的、変動的市場においては、限界がある。つまり、産業がまだ幼稚で成長発展段階においては、国家、官僚機関による保護育成が有効であるのに対し、成熟期になるとかえって、それが、足枷(あしかせ)になってしまうと言う性格がある。特に、税法と会計制度が連動していることにより、逆基準性、つまり、会計基準が税法によって拘束されるという現象も現れる。
 だからといって逆に、国際化を急ぎすぎると、国内の産業が育ちきれないうちに、国内の産業基盤が整う前に、激しい国際競争に曝されることになる。産業の育成は、段階的、構造的なのである。

 バブル崩壊後の景気の悪化は、過剰設備、過剰債務、過剰雇用の三大過剰だと言われ、雇用の見直しが進められた。それに伴って、従来の年功序列、終身雇用が崩壊したと言われている。人員削減、合理化の対象となったのが、主として中間管理層、高所得者の中高年である。彼等の多くは、住宅ローンを抱え、また、一家の大黒柱として活躍しなければならない世代である。
 資本市場を基盤とした場合、どうしても短期的・名目的な成果を期待されるようになる。その為に、長期的な視点、即ち、長期的な観点からの内部留保や投資が行いにくくなる。また、資本取引による事業の拡大や縮小と言った産業改革が頻繁に行われ、実体経済よりも名目的な経済が重視されるきらいが生じる。
 短期的な収益の改善を目指すならば、流行のリストラ、合理化を行って高所得者の中高年層を切り捨て、労働分配率を下げればいい。しかし、企業、産業、経済の目的は、収益性や効率性、生産性だけにあるわけではない。闇雲に、人員の削減をすれば、企業に対する求心力が失われ、また、それまで培ってきた知識や技術の継承が中断し、また、雇用が確保されずに失業者が溢れることになる。また、保安や衛生と言った基本的な業務がおざなりになる傾向が出る。金融機関のシステムダウン問題や数々のコンプライアンスに関わる不祥事は、企業の技術力やモラルの低下が考えられる。
 しかも、削減対象となるのは再雇用が難しい世代となる。結局、企業単体は効率が上がるかもしれないが、経済全体の効率を下げることになる。

 日本の組合の在り方は、企業別組合であり、基本的に、労使協調路線である。それに対して、欧米の組合の在り方は、産別組合である。そして、レイオフは、日本と比較すると簡単である。それなりの労働市場が確立されている。つまり、日本の雇用構造は、垂直的、縦断的なのにたいし、欧米の雇用構造は、横断的、水平的なのである。

 日本の企業は、閉鎖的な反面に一体的、共同体的な体制になりやすい。そして、それが年功序列、終身雇用体制を生み出してきたのである。この様な日本的雇用慣習や環境の変化は、産業や労働の質的な変化をもたらしかねない。

 会計制度の変更が雇用や労働環境に重大な影響を与えている。雇用を改善するためには、経済や市場の基礎、下部構造を組み替える必要があるのである。

 経済の根本が労働と分配ならば、生産性の向上や能率化のために機械化や合理化をすることは、必ずしも、経済の目的に沿っているとは限らない。なぜならば、機械化や合理化によって雇用が削減される可能性があるからである。また、低賃金を求めて産業の空洞化が起きるかもしれない。また、現在日本で起こっているように技術の断絶、転移が起こるかもしれない。それは一企業の収益性とすれば当然の帰結だとしても一国の経済にとってマイナスである。

 市場の効率化を考える時、流通の合理化と言うが、わざわざ、仕事をシェアしてまで雇用を確保しようとしている国もあるのである。流通分野が雇用を担っていることを忘れてはならない。経済の効率化を叫ぶ者は、高騰した人件費を削減し、仕事を減らせば経済は効率すると錯覚しているが、経済の目的は、本来、人に仕事を与え、所得を分配することにあることを忘れてはならない。市場がいくら効率化されたとしても、失業者が増大し、消費が冷え込んでしまえば意味がないのである。卸売りのように仲介業務を担った部分があるから、それなりに、地方にも雇用が発生したのである。ただ、効率ばかりで経済の効果を測るべきではない。

 一国の経済の目的は、国民の幸せにある。いかに、国家が豊かになったとしても国民が鬱々として喜ばなければ、それを、真の繁栄といえるであろうか。国家の最大の目的は、国民を幸せにすることである。ならば、国民の幸せとは何か。それが国の政治や経済の有り様を定義する。国民を幸せにするために、国を富ませ、国家の主権や独立を守るのである。富国強兵は、国民のためにこそ意義があるのである。ただ、国を富ませ、兵を強くする事を目的としたら、かえって国を危うくするだけである。

 いくら、介護施設を作ったとしてもそれで幸せになれるわけではない。箱ものばかり、器を作っても魂がなければ何にもならないのである。福祉国家を実現しても、老人から仕事や家族を奪い取ったら本当に幸せになれるのであろうか。
 経済目的の根本は、幸せであるはずである。豊かさが、幸せを奪うのならば、それは偽りの豊かさである。

 労働の持つ個性、一つ一つ、一人一人の仕事の違い特性をどう認識し、評価するかが一番重要なのである。個としての労働、仕事の独創性を認められなければ、労働の意義は失われてしまう。一つ一つの作業を分解し、要素化、部品化して、それを標準化、平準化して一律に賃金を決めればいいと言うのは、仕事や労働から人間性を奪い取ることである。仕事は生き甲斐であり、労働は自己実現の手段なのである。
 プロスポーツを考えれば解る。ポジションや役割によって一律に賃金を決められてしまえば、選手は、意欲やりがいを喪失し、疎外されるであろう。それこそが非人間的な扱いなのである。極端な格差こそ問題はあるが、それでも、均一化された労働よりも人間性は残されている。
 特殊な技術や経験を尊重できなければ、失業対策と言っても労働集約的な単純労働の公共事業にならざるをえない。年功序列は悪いと言うが、だからといって経験年数や熟練度を帳消しにしてしまえば、熟練技術やノウハウ、技(わざ)は、失われてしまう。一度失われて知識、技術は取り返せないのである。市場経済、大量生産使い捨て時代の中で、多くの職人技が失われてきた。それは、経済的なだけでなく、文化的な損失でもある。
 高付加価値の仕事は何か。高付加価値と言うから、システムエンジニアの様な先端技術者や金融ブローカーのような仕事と多くの人達は錯覚をしている。しかし、早い話、意志の塊や木材を加工して彫刻や加工品を創作することこそが付加価値の高い仕事なのである。俗に言う、匠(たくみ)である。手作りの技である。その意味で、付加価値というのは、古典的な仕事にもある、また、伝承技術を先端技術に置き換えるようなところにこそ付加価値がある。

 経済の根本は、労働と分配にある。
 働く場を奪ってしまえば、分配機能は損なわれるのである。働かざる者、喰うべからずと言う原則は生きているのである。だから、不労所得が問題となり、嫌われるのである。ところが経済上においてこの原則がいつの間にか無視される。そして、いつの間にか、働かないように、働かないようにと働きかけることになる。労働は、あたかも罪悪であるかのように捉えられる。確かに、過剰、過酷な労働は非効率的である。非効率的だけでなく、非人間的である。奴隷的労働は、人類に対する挑戦である。しかし、奴隷的労働とは何か、それは、主体性もなく、成果と報酬とが結びつかない労働を指すのであり、主体的で、分け前の了解と適正な分配を受けられる労働ならば、それは奴隷的労働ではない。
 働き甲斐は生き甲斐である。働き甲斐のない社会は、生き甲斐のない社会である。労働の在り方こそが、その社会、国家の有り様を決めるのである。
 労働の在り方こそが、国家の行く末を決めるのである。

 経済の本質が労働と分配の問題だという事になると雇用、即ち、失業が問題となる。完全雇用を前提としうるか否かが、公正な分配を維持するための大前提となるからである。故、に失業は経済学の重大な課題となる。
 その為には、労働とは何か。労働と分配の仕組み。そして、その上で、失業がどの様にして発生するかの仕組みを明らかにする必要がある。

 失業の問題は、労働市場における需給の問題だけに収斂することはできない。
 失業問題を考える場合、労働を量的に考えるだけでは理解できない。離職の動機は大半は、労働の質的な面である。故に、失業を考察するためには、労働の質と量、両面から捉える必要がある。

 労働市場の流動性も重要な指標である。労働市場の流動性は、労働慣行や労働感によっても左右される。欧米のようにレイオフが比較的容易な国と、日本のように、終身雇用を基本とする国とでは、必然的に、労働市場の流動性に差がでる。

 実質賃金が下がった場合、生活ができなくなるから離職する。物価が上昇することで離職する理由も同様である。つまり、支出の多くは、生活費であり、一定の所得を下回ると生活ができなくなる。家族が生活していくために、言い換えれば、家族を養っていく上で、どれくらいの経費が不可欠なのかが、失業問題を考える上で重要な要素なのである。つまり、可処分所得がどれくらい確保されるかによって失業率は変わってくる。しかも、この必要経費、家計における固定費は、生活水準や生活している地域の物価水準によって違ってくる。

 これらは、単純に労働市場の需給だけでは捉えきれない。地域間格差や個人の生活水準、ライフスタイルなどに関わる問題なのである。

 以上の点を前提として労働とは何かを明らかにしたい。

 人間は、主体的存在であり、直観的、感情的存在であり、時に、予測不可能な行動をとる。また、規範的存在であり、行動は、何等かの価値基準を基にして行う。価値基準は、成長した環境や置かれた状況によって形成される。その為に、制度や環境に左右される。 故に、合理的、かつ、客観的に行動するというのは、極めて稀であり、それを前提として経済現象を認識するのは、危険なことである。
 経済とは、生存活動である。つまり、生きる為の活動であり、生活のための活動である。貨幣を得るのは、何かを買うために得るのである。つまり、購買、支出を前提としている。問題は、支出の質である。つまり、生きていくのに必要な、生活のために不可欠な支出なのか、それとも、生活の向上や嗜好、贅沢のための支出かの問題である。支出の質を問題にせず、ただ、所得の高を問題にしても、経済の本質は理解できない。
 労働の質を問題にしないのすむのは、労働を均質なもの、つまり、単純な労働と定義した場合だけである。その場合は、労働を需給の観点からだけで認識することが可能である。つまり、賃金の高と労働の量だけで判断すればいい。しかし、実際には、労働には質的な違いがあり、それによって賃金も多種多様なのである。

 労働市場も一様ではない。労働には、質的な違いがある。まず第一に、経験という意味も含めた熟練度。第二に、知識の有無である。第三に技術的な違いである。第四に、学歴も含めた資格の問題がある。第五に、能力である。能力にも、基礎的能力と特殊・専門的能力である。また、身体的、知的能力である。この能力には、年齢的問題も含まれている。第六に、仕事の性格からくる差である。例えば危険物を扱う仕事であるとか、環境が劣悪の場所、海中や高所の仕事であると言った仕事の性格からくる差である。市場も当然、質的な差によって違ってくる。一様に考えることはできない。そんなことをすれば労働意欲が減退し、生産性が著しく後退する。
 つまり、労働量かける単価、ないし、労働時間かける単価で一律に割り出せるほど単純ではない。
 そして、失業の背景には、この労働の質が、重大な要素として働いているのである。

 プロスポーツを考えればわかる。野球の賃金をポジションで一律に決めたらどうなるか、結果は明らかである。経済の活力は、格差なのである。問題は、その格差の背景にある仕組み、構造と程度なのである。
 労働というのは、一つの資源なのである。そう考えると、教育も投資行為の一種である。

 失業を労働市場の需給からだけ考えることほど馬鹿げた発想はない。経済人にしても前提としているところがおかしいのである。前提を間違えば、以後の論理は無意味になる。

 現代の労働界、労働市場は、労働の価値そのものを否定しているように思えてならない。労働を単一的な物としてただ、時間の関数としてのみ捉えようとしているのがその典型である。また、何かと休日を増やし、労働時間を削減することにのみ精力を費やす。労働の崇高さや働く喜びを一切認めようとしない頑なさ。それが、社会全体の生産性を落とし、貧しくしていることに気がついていない。

 労働は、最高の愛情表現である。働くことによって、家族を養い。家族を守る。それこそが実質的な愛である。だから、働く姿に惚れるのである。働く者がいなくなった社会を理想とするのか。それは無価値な社会である。

 共産主義がなぜ失敗したのか。それは、価値がなくなったからである。労働者を主体とした国家が、労働の価値を評価できなくなれば、自ずから衰退する。価値は、差から生じるのである。労働を一律に判断してしまえば、労働は無価値なものになるのである。格差が悪いのではなく。格差の背後にあるもの、仕組みが問題なのである。

 重要なのは、所得も支出も個人の思想や価値観によるところが大きいという事である。何のために生きるかである。そして、経済の本質は、その点にある。



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