エンロンやライブドアによる粉飾決算や会計操作によって資本市場における株価の支配が社会問題化している。企業の合併や買収は今や日常茶飯事であり、企業そのものが一つの商品として市場で売り買いされるご時世なのである。
 また、一方において諫早湾や大規模ダム、また、これ以上の道路建設や新幹線の新路線、地方新空港が本当に必要なのかという事も財政面からも、環境面からも問題となっている。その根本には、市場原理とは何かという問題が隠されている。その市場原理問題の象徴的部分にカルテルの問題が潜んでいる。

 会計の数字に実体的裏付けがあるわけではない。また、貨幣に実体があるわけでもない。実体はそのもの自体にあるのである。その意味では、会計的数字というのは、二重に実体からかけ離れている。ところが会計の数字が一人歩きを始め実物経済を支配し、振り回している。

 何でもかんでも進歩、進化、発展は、善だとするのは、進化論的適者生存主義に毒された誤謬である。少なくとも経済的には、適者生存という考え方には、何の根拠もない。あるのは、結果に過ぎない。経済的環境に適合したという結果である。適合すると言う事が何を意味するのかはハッキリしていない。だから淘汰された側が悪いとは言いきれない。それは、あたかも勧善懲悪的思想に過ぎない。しかし、現実は、必ずしも優良な企業が生き残っているという確証はない。
 市場経済において常に、適者や優者が生き残るとは限らない。市場経済の基準、論理は会計の論理に基づいている。その会計技術を駆使して利益を上げ、競合企業を淘汰することも可能である。また、資金力にものをいわせて相手を叩き潰すことも、呑み込む事もできる。事業内容よりも、株に対する知識や会計操作の方がものをいうのである。良い技術があったとしても、資本の論理理の前には通用しなくなってきた。正直に振る舞ったために、潰されることなど当たり前なことになってきた。つまり、潰された方が悪いのである。建前は、情報開示である。正直でなければならない。しかし、正直に情報を開示するにしても情報の開示の仕方によってどうにでもなる。最初から情報は、操作されているのである。情報の開示の仕方、技術に熟達した者には敵(かな)わないのである。そうなると、正直であることは、愚かなことにさえ思えてくる。エンロンやライブドアのように技術力を磨くより、株価をつり上げた方が儲かるのである。エンロンやライブドアは、たまたま破綻した。しかし、彼等が上手くやっていた時は、マスコミも政治家も彼等を現在の英雄と持ち上げたのである。是非は、結果が出なければ明らかにされないのである。
 無軌道、無原則な競争は、優良な企業を淘汰し、無法、無頼な企業を生き残らせてしまう結果を招くこともあるのである。経済原則の中には、悪貨は、良貨を駆逐すると言う原則もあるくらいなのである。

 市場と一口に言うが、市場全体は、幾層にも重なり合った複数の小さな市場の集合体である。一つの産業の中にも段階や次元、位相によっていくつもの小さな市場がある。しかも、全体の市場を構成する個々の個別部分市場は、市場の原理、原則、基準、規範、論理がが違う。また、取引の形態、仕組み、慣行、慣習も違う。生産様式によっても市場変質する。しかも、それら一つ一つが歴史的経緯を背負っている場合が多いのである。
 かつて、村々、街々にあった造り酒屋やパン屋がそれぞれが独自の特徴のある製品を生みだしてきた。それが、工場で、大量生産されるようになると、商品は、標準化、平均化され、全国どこでも同一、均一な商品に画一化されてしまった。そして、それによって相対取引だった取引の形態や、また、間に卸売業者を介した販売経路も直販売のような経路に変質してきた。更に、市場、取引が行われる空間、手段もインターネットや通販と言うように変わってきた。また、先物取引市場の発達は、現物市場の位相も変質させてきたのである。その先物市場の規律が昨今問題となっている。つまり、無原則、無軌道な先物市場は、極めて危険だという事が実証されつつあるのである。

 カルテルというのは、複数の企業が市場支配を目的として価格や販売方法、、生産数量などで協定などを結び、共同行為を行うことである。
 カルテルには、価格カルテル、数量制限カルテル、設備制限カルテル、販路カルテルなどがある。談合などもカルテルの一種として見なされる。

 カルテルは、現行経済下では、いけない事となっている。つまり、不当販売行為とされ非合法化されている。しかし、かつては、不況カルテルや合理化カルテル、中小事業者の経営安定カルテルなどは、合法として認められていた時代もあった。

 石油や為替の急激な変動のような予測し得ない不測の事態が発生した場合や過当競争が激化して収集が困難になった時、産業保護の名目で一時・緊急避難的に企業間に強制的にカルテルを結ばせたのが不況カルテルである。これも非合法化された。

 カルテルは、企業間における協定、自主規制みたいなものとも言える。それらの中には、確かに、自社の利益を計る内容のものが多く含まれている。しかし、規制は、規制である。ある意味で会計規則や原則も規制である。英米のようにそれを民間の機関が担っていれば、それをカルテルと言えば言えないこともない。
 国家による規制が法として許されるのならば、なぜ、民間の協定は許されないのか。それは、企業間の協定は、消費者の利益に反すると決め付けられているからである。しかし、企業間の協定の全てが消費者の利益に反していると言えるであろうか。

 企業間の協定は違法だが、国家による規制や通達は合法であるという発想は、民間企業による独占は犯罪だが、国家による独占は違法ではないという考え方に通じる。なぜ、国家や公共機関による独占は、違法ではないのかと言うえば、それは、公共機関は、営利団体ではないからと言う理由でである。つまり、営利団体だから悪いという理屈である。しかし、非営利団体だから責任が問えないとも言えるのである。非営利団体は、無責任でも良いという事なのであろうか。非営利団体の職員に問えるのは、道義的責任だけである。収賄や賄賂も基本的には、規律違反、道義的責任でしかない。だから、非営利団体の役員は、経営的責任を負う意志をまったく持っていない。経営破綻していても退職金を満額もらうのは権利だと思い込んでいる。
 非営利団体が経営に対して無責任であるから、非営利団体が市場を独占した場合、市場の経済効率や規制に対して、国家は、まったく無力になる。つまり、規制できない。なぜならば、公共機関は、規制の対象外だからである。仲間に、仲間を規制することは困難である。なぜなら、利害が一致しているからである。非営利団体である事によって何でも許されてしまう。
 かつての国鉄が好例である。国鉄は、分割民営化されてはじめて規制され、収益に対して責任を持つようになった。それは、民営化されたからではなく、営利団体となったからである。
 国家が、国家機関以外の機関を差別し、収益は悪だと、賤商主義の立場をとる限り、市場の健全化も、財政の均衡も計ることは不可能である。

 景気の良し悪しだけで経済の成否を捉えるべきではない。経済の根本は、分配機能であり、それさえ機能していれば、経済は機能していると言えるのである。ハイパーインフレや恐慌が起こったら、経済は成り立たないかと言えば、生活は、それなりに成り立っているのである。市場経済と貨幣経済が麻痺しているだけである。自給自足している部分は、それなりに、成立している。
 ア−ミッシュや修道院のように自給自足的な共同体は、経済的な変動を受けることはない。むろん完全な自給自足体制というのは、今日では、あまり見受けられない。しかし、ある種の信仰宗教の中には、自給自足的体制をひき閉鎖的な共同体もある。また、独自の通貨を使用するコミュニティも存在する。この様な共同体は、他の社会と没交渉でも組織を維持することが、理論的には可能である。

 ただ、景気の悪化が分配の機能、即ち、市場の機能と市場を構成する個々の要素の機能を破綻させてしまうから景気が問題となるのである。もし、景気の悪化が経済、ひいては、社会に、深刻なダメージを与えると思うのならば、そのダメージを最小限に抑える政策をとることであり、カルテルも、談合も、その選択肢の一つである。駄目なものは駄目という、硬直した思考、頑迷さが事態を更に悪化させるのである。
 つまり、景気の変動から市場を護ることに重要な意義があるのである。その観点からもカルテルの意味を考えてみる必要がある。
 カルテルの問題は、市場の規律をどう維持していくかという文脈の上で捉えなければならない。道徳律から判断すべき事柄ではない。あくまでも経済目的から捉えるべき合目的的な問題なのである。
 現代のマスメディアによって作られた世論は、談合を最初から犯罪だと決め付けている。しかし、談合は、なぜ、悪いのかというと曖昧にされたままなのである。日本人は、とにかく悪い事は悪いとか、御上が決めたことだからと言った短絡的発想で談合は悪い事だと断じている。

 談合は、何に対して行われるかというと公共事業の入札に対してである。談合を要約すると話し合いで決めると言う事である。それに対し、入札というのは、競争によって決めると言う事である。競争によって決めさせようとしているのに、話し合いで決めるというのは、けしからんと言うのが、談合は悪だする者の言い分である。しかし、話し合いで決める事は悪いことなのかというと、話は別になる。日本人は、もともと、和をもって尊しとなす式に話し合いを基調として物事を決めていこうとする傾向がある。大体、日本人は、民主主義は話し合いだと思い込んでいる。そして、話せば解る何事もと信じている。この場合、話し合いこそ善であり、競争こそ悪である。
 価値観や宗教、歴史、風俗が違う多民族国家が一般的である欧米においては、話し合っても一致することはないと言う前提に立っている。だから、競争や投票によってしか結論が出せない、故に、民主主義なのである。つまり、話せば解るから会議で決するのではなく、話しても解らないから会議で決を採るのである。それが民主主義なのである。そこで絶対的にものをいうのが、法であり、ルールである。その法やルールが守られなくなるから、談合は悪いとされるのである。

 この様な想定で談合は悪いという場合、法に違反している事を問題としている場合が多く。その場合、法そのものを問題としているわけではない。予め定められた手続によって制定された法に基づいてなされた話し合いならば悪いというわけではないのである。
 経済的価値基準と倫理とは違う。倫理が絶対的基準に基づくのに対し、経済的価値観は、相対的基準、規範である。殺人は犯罪だというのは、戦争のような、殺さなければ殺されると言った異常な状況を除いて、法治国家では、普遍的な真理である。それに対し、会計原則は、その時の経済情勢や経済政策、経済制度に応じて定められた基準、原則にすぎない。

 経済的価値基準が相対的なのであるから、その経済的価値基準の是非は、その経済的価値基準を成り立たせている前提条件によって成立する。例えば、市場原理主義者は、競争の原理を普遍的真理のように信奉している。しかし、競争の原理にせよ、話し合いの論理にせよ、それを正当化しうるのは、前提条件である。故に、その正当性を問題とするならば、前提条件を検証する必要がある。その正当性を無条件な真理とするのは、信仰であって合理的精神とは異質なものである。

 法そのものを問題とするならば、何が、なぜ、悪いのかを明らかにする必要がある。

 談合は、話し合いで決める事を前提としている。それは、平等な配分を目指しているのである。それに対して入札や競売は、競争を前提としている。競争というのは、基本的にそれぞれの違い、差に基づく。入札や競売は正しくて、談合は悪いというのは、争いは正しくて、話し合いは、悪い。差別はよくて、平等は悪いと言っているようなものである。

 ならば、何が何でも競争は正しいというのか。競争による弊害はないのか。
 競争の原理とは、言うなれば、弱肉強食、適者生存の原理、淘汰の原理である。競争の原理を厳格に護ろうとすれば、必然的に弱者は淘汰される。その結果、市場が寡占、独占状態に陥ることは自明である。また、競争の原理が成り立つ前提は、業者の力量が均一であることである。しかし、競争に参加するときの条件に差を付けないことは、つまり、業者間の差を認めないことになる。それは、オリンピック選手と生後間もない赤ん坊と、また、高齢者を同じ条件で競争させるようなものである。それを公平と言えるであろうか。
 また、過当競争による結果として労働強化や下請け苛(いじ)めが行われないと言う保証はどこにあるであろう。安全や保安がないがしろにされないと言い切れるであろうか。また、手抜き工事などは行われないだろうか。工事の質が保たれると断言できるのか。それは当事者にしか理解できない事なのである。そこに情報の非対称性が介在する。

 根本には、情報の非対称性がある。それは、公共事業の発注者と業者間の、また、納税者と為政者間の間にある情報の非対称性であり、二重、三重の非対称性の問題ではない。
 その為に、関係者が情報を共有し得ない状況に置かれているのである。しかし、これは公共事業に限った問題ではない。株式会社においても株主、債権者、徴税者、取引業者、経営者、労働者、消費者間には、多かれ少なかれ情報の非対称性は存在する。それ故に、会計制度が発達したのである。ところが、公共事業においては、その非対称性を解決するための仕組みを考えずに、ただ、倫理的問題にすり替えているのである。そこに、談合の問題の本質が隠されている。

 世間では、談合を頭から悪いと決め付けている。しかし、なぜ、談合は悪なのかについては、あまり議論されていない。ハッキリ言って曖昧である。むしろ、税金の無駄遣いの方を問題にしているように思える。無駄遣いの延長線上で談合は悪いと言っているように思える。しかも、無駄遣いの意味には、何も触れていない。それか、悪い事は悪い式の短絡的な議論である。しかし、それでは、妬(ねた)み以外の何ものでもない。
 私は、談合は良いというのではない。なぜ、談合は、悪いのかについてしっかりと議論をすべきだというのである。また、なぜ、談合はあるのか。なくならないのか。その原因をハッキリさせずにただ、悪い悪いと言っても談合はなくならないのである。先ずなぜ談合は悪いのかを明らかにした上、その次に、それなのになぜ、談合はなくならないのか。次に、それならばどうすればいいのかを考えていくべきなのである。始めから、談合は悪いと決め付けてしまったら、議論は成立しない。

 談合が善いか悪いか、カルテルが是か、非かは。一律には語れない。その市場の置かれている状況や前提条件によって違ってくるからである。規制の是非も同様である。
 談合やカルテルの問題は、倫理観の問題ではない。経済の問題である。倫理的な価値観で善し悪しを判断しても意味がないのである。倫理観と結びつかないから、談合はなくならないのである。あえて倫理観と結びつけようとすれば遵法精神しかない。背に腹は代えられないし、話し合いが悪いと言えば、従来の価値観をすら否定する事になる。

 談合の問題は、談合その物と言うより談合を成り立たせている背景の問題なのである。一つは、公共事業が利権化していて財政が硬直化しているという問題、今一つは、それが一部の政治家や官僚、業者の特権、利権に結びついているという問題である。談合の前提となるのは、公共事業が公開入札によって行われている。更に、公共事業が莫大な利権の温床となっている。公共事業の受発注に関わる人間に対する評価が、その成果、実績と関わりがないという事である。つまり、やってもやらなくても評価は変わらないと言うことである。

 談合の是非よりも財政が破綻しているにもかかわらず公共事業、それも、無駄な公共事業すら削減できない状況の方が問題なのである。また、そう言う状況を生みだしている構造こそが問題なのである。

 民営化ばやりであるが、民間でできて、なぜ、公共機関でできないのか。それは、公共機関が営利主義を排除しているからである。公共機関と民間企業との違いは、非営利団体か、営利団体かの違いである。非営利団体である公共機関においては、営利性、つまり、収益とは、最初から無縁である。
 民間企業では、不正があれば収益に現れる。また、その時点で不正を糾せばいい。民間の取引は、個々の担当者が基本である。個々の担当者が自己の責任の範囲内で執り行う。そして結果は、その担当者の所得に反映される。むろん、接待やバックマージン、横領と言った不正も生じる。しかし、それは、結果として表された証憑や財務諸表によって検証される。たとえ、経営者と言えども例外ではない。不正が発覚すれば摘発される。
 逆に公共機関では、業績が悪くても責任を問われる事はないし、所得にも反映されない。基本的に、公共機関は、営利とは、無縁なのである。だから、利益に無関心になる。利益に無関心という事は赤字にも無関心だという事である。

 入札方式が正しいというならば、全ての取引を入札方式にしてしまえばいい。民間企業では、入札に頼らなくても、個々の担当者が自らの責任の下に取引をしている。そして、その成果が個々の責任者の所得に反映される。全体的には、収益として現れる。つまり、会社の収益によって個々の取引の正否は糾されるのである。それが個人の業績に還元される仕組みになっている。

 人間が生み出した最大の仕組みは組織であろう。
 組織の規模には、一定の限界がある。巨大化した組織は、制御が不能になる。これは経済的組織だけでなく、政治的な組織も同様である。しかし、政府機関は、組織は巨大化しすぎた。巨大化して、自分で自分を制御する事ができなくなってきているのである。
 それ故に、組織は、一定の単位で独立した機能、構造を持たせるべきなのである。自律的な制御を組織に組み込むためには、自律した部分によって全体を構築する必要がある。それが、統制経済から市場経済への流れを作っているのである。
 談合の問題は、基本的には、公共事業の問題なのである。確かに、談合をする側にも問題はある。しかし、それ以上に談合をする側の問題と言うよりも公共事業を発注する側が公共事業に規律を持たせることができない組織にある。そのために、財政が破綻しているというのに、無駄な公共事業を削減できない。それが問題なのである。つまり、組織が生きていない。無機質化しているのである。
 公共事業は、公共の事業である。つまり、公に対する責任や志、ビジョンがなければならない。つまり、国家間であり、社会観、世界観である。そして、強い使命感が求められるのである。ところが、なぜ、公務員からこの強い使命感が失われるのか。公僕と言えば聞こえは良いが、実際には、自治権に直接関われないからである。また、関われたとしてもそれを適性に評価されないからである。だからこそ、自分達の仕事に誇りも自信も持てない。自分達が作った物が製品化され、労働を評価される工場労働者よりもずっと公務員の方が、疎外されているのである。その為に、公共事業が利権化してしまう。

 統制的経済から市場経済へと経済は流れ始めている。それが民営化問題の本質である。しかし、市場も硬直化してしまうと統制経済と同じような状況に陥ってしまう。市場を硬直化するのは、規制ではなく。市場原則が機能しなくなってしまうことである。確かに、競争の原理は重要な市場の原則であるが、それは、規制緩和とイコールではない。むしろ、競争の原理は規制によって維持されているのである。規制が競争の原理の機能を疎外しているとしたら、それは規制の在り方の問題であり、規制そのものの問題ではない。

 おかしな話であるが、これまで市場経済において一番の課題となったのは、公正な競争を維持するために、競争による弊害を排除し、また、その欠点をいかに補うかであった。

 競争にせよ、談合にせよ、カルテルにせよ、一手段に過ぎない。商業道徳のような類ではない。競争の是非、談合の是非を決めるのは、前提条件による。その前提条件とは、エネルギーや為替の動向、金利動向、労働環境、好不況と言った市場の状況や市場や産業の発展段階、それに、市場を成り立たせている地理的条件やインフラストラクチャーの状況といった条件である。かつては、無原則な過当競争や不況が長い目で見て市況や産業を混乱させると認識した場合は、一定の条件を満たすことを前提として不況カルテルを結んだり、何等かの市場規制をすることも悪い事だとはされていなかったのである。
 要は、何を目的とし、どの様な状況を作り出そうとしているか、さの時の為政者の意志である。その為政者の意志を排除しようとするのは間違いである。間違いは、特定の業者に利権を謀ったり、便宜を供与することであり、為政者の意志そのものではない。

 カルテルは、特定の業者や機関の利益のために、また、私的に結ばれる限り許されるべきものではない。しかし、それが公を利するものであり、公にされている、公開されている限り、頭から、悪だと決めつけられるものでもないのである。

 民営化にする前に、公共機関が正常に機能するようにすることが先決ではないのか。さもないと、根本的な解決はされない。

 現代の公共事業は、工事する事自体を目的としていて、工事、本来の目的、その公共事業によって得られる便益を度外視していることが問題なのである。その為に、公共事業と言いながら、公共の福利には何の役に立っていない、財政という観点からすれば、弊害でしかない工事が横行しているのである。例えば、水の流れいてない河に渡れない橋を架けたり、人口が数万にしかいない街にオペラハウスを建設したり、自然を破壊して、必要のない道路を造るような無駄な公共事業が公然と行われるのである。

 「政府固定資産形成」の対名目GNP比は、1995年6.9%をピークに2006年現在で4%を切ったとしても、米国の2.5%、ドイツの1.4%と比べても高水準である。(「目からウロコの経済の仕組み」西野武彦著 PHP研究所)
 財政が破綻寸前だというのに、公共事業が減らせない状況が最大の問題である。しかも、それに関わっているのが、政治家であり、官僚であり、日本を代表する産業の雄なのである。特に、国防関係で国家秘密の隠れ蓑に乗じて私腹を肥やす者がいるそれが問題なのである。国防も公共事業も国民の生命と財産の安全に関わる問題である。それを護るべき立場の者がおのれの欲望と虚栄心を満たすために私腹を肥やす。それが戦争という国家の存亡に関わる惨禍を招くとしたら、これほどの罪はない。

 談合の是非よりも、政、官、業癒着の構造が問題なのである。また、地方経済が公共事業で成り立っていると言った歪んだ構造こそが問題である。それが地方経済の健全な発展を阻害している。財政が下方硬直となり、その反面に無意味で無駄な支出が止められないのは、公共事業が利権化し、財政を硬直化していることが原因なのである。
 それは、談合の問題ではなく。国家に対する基本的ビジョン、構想ないこと方が、問題なのである。翻って言えば国家、国民に対する忠誠心の問題なのである。ただ、自分達の利権を守るためだけに談合を行うとしたら、それは国家に対する叛逆である。


参考文献
「談合の経済学」武田晴人著 集英社文庫


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