競争をあたかも、絶対、普遍の原理だと信奉している者がいる。この種の人間は、下手な宗教の原理主義者よりもずっと原理的な人間である場合が多い。
 無意味な競争も数多くある。無原則な競争が、乱開発や環境汚染、人命軽視、安全衛生軽視と言った風潮を生んでいるのである。
 競争の原理というのは、必要に応じて働かされる作用である。もともと、市場価値は、絶対的な価値ではなく。相対的な価値である。それ故に、競争の原理が働かないところに市場は成立しないのである。
 しかし、だからといって、人間と馬と自動車が同じ条件下で競争してもそれを公正な競争とは言わないのである。前提条件が一致していないのである。市場原理は、自然に均衡するのだからと言って野放図にしてしまえば、弱肉強食、瞬く間に市場は淘汰されてしまうのである。市場に競争の原理を働かせたければ、市場を規制する以外にない。
 そこで問題になるのは、なぜ、何のために、どの様な競争の原理を働かせたいかという意志の問題である。

 一頃よりは、おさまったが、それでも、今の日本では、安売りが大流行である。安売り業者は正義の味方のようにもてはやすマスコミはまだまだ多い。
 価格破壊という言葉もある。まあ、価格破壊という言葉の発信元であったダイエーが破綻したのは皮肉であるが・・・。
 しかし、価格に求められるのは、適正価格なのであり、安ければいいと言うわけではない。ならば、適正な価格とは何かである。それは、ただ単に廉価であればいいという事を意味していない。安かろう悪かろうと言うこともあるのである。安い価格のものを見ると安くできるはずだと決め付けるが、独禁法には、不当廉売という項目もあることを日本人の大多数は忘れているようだ。
 元を割って売っても、他の物で元を取れればいいと安く売っている場合も多く見受けられるのである。また、苦し紛れに投げ売りをする業者、販売店もあるのである。それでも安ければいいと安売り業者を持ち上げればいいのか。
 では何が適正な価格なのか。それは、経済の本来の目的から判断されるべき事である。つまり、経済本来の機能とは何かである。それによって、適正であるかないかは決まる。
 角を撓めて牛を殺すような行為は愚かである。

 競争を煽り、競争の原理が全てであるかのように錯覚した結果、何もかもが過剰になってしまった。現代社会においては、節約や倹約は、美徳ではなく、悪徳なのである。その結果、乱獲、乱開発である。
 何でもかんでも、過剰生産、過剰消費、過剰供給である。しかし、その過剰さの中に無駄と非効率が隠されている事を忘れている。それが、真の経済的な意味での無駄であり、非効率なのである。
 現代社会の象徴的な理念が松下幸之助の水道理論である。蛇口をひねれば、水がふんだんに出るように、この世の中を物で溢れさせればいいと言う考えである。確かに、松下幸之助は、偉大な経営者である。その松下幸之助をしてこのような思想に至らしめたのが、市場の原理である。物が溢れれば、相対的な市場価格は、低下し、コスト割れをしてしまう。

 競争が激化した結果、市場には、不必要に物が溢れている。不必要なものを処分するために、無理矢理、大量消費を促している。それに拍車をかけるのが、大量仕入れによる大量販売である。その結果が使い捨て文化である。街には、廉価で低品質な物が溢れている。安売り王こそが、現代の社会の英雄、成功者なのである。しかし、価格破壊を低コストで仕掛けたものは、結局、コストの増加によって収益が圧迫されるようになる。

 企業は、基本的に継続を前提としているのである。コストを無視した無原則な競争は、企業の存続が不可能な競争に追い込んでしまう。その継続が不可能な状況に追い込んでまえば、企業は生産されるか、不当な行為に走らざるを得ないのである。その限界の上に市場の秩序は成り立っている。誰もが楽をして儲けているわけではない。外部の人間が妬みで、主観的に判断すべき事ではないのである。大切なのは、市場の規律であり、その規律の裏付けとなる市場のルール、規範である。
 商売人は、悪徳をなして、庶民から富を簒奪しているというのは偏見である。その様な間違った正義感から経済を捉えている限り、経済は正常化し得ない。しかし、その様な偏見が蔓延している証拠に公共事業は、収益を度外視すべきであるという結論が導き出されるのである。非営利事業の本質は、収益蔑視、賤商主義である。

 もともと、利益率というのは、低いのである。平成16年度の経常利益率は、建設業が1%、製造業1.8%、情報通信業1.8%、運輸業1.4%、卸売業、0.8%、小売業、0.4%、不動産業、4.5%、飲食・宿泊業、0.4%、サービス業、1.7%(「中小企業の財務指標」中小企業庁編)しかないのである。景気や為替の変動、天候や原油価格、金利の動向と言った要素ですぐに利益など吹き飛んでしまうのである。しかも収益というのは、安定している業種ばかりではない。むしろ、予測不可能な業種の方が一般的である。資金繰り、キャッシュフローもその日稼ぎなのが実体である。

 利益は、危うい均衡の上に成り立っている。ちょっとした景気や緩和の変動、災害や戦争などによる原材料の高騰などに見舞われれば、赤字に転落してしまう。現行の金融制度では、赤字に転じれば融資には応じない。また、利益が上がれば、利益は、悪だと税金を取られる。それもこれも、収益を罪悪視する賤商主義の現れである。しかし、松下幸之助が言うように、利益を上げられない事業の方が罪深いのである。乱売合戦によって安売りをメディアはもてはやすが乱売合戦による市場の荒廃の方が危険なのである。暴利は確かに許されない。しかし、適正の利潤を上げられなくなれば企業は、継続することができなくなるのである。

 費用を不必要な物、無駄な出費のように捉え、経費節減を金科玉条のように言う経営者や経済学者がいるが、費用こそ、分配の要であり、経済のエッセンスである。費用がなくなってしまったら経済は成り立たないのである。つまり、費用の有り様の問題であり、是非善悪の問題ではない。闇雲に費用を削減しろと言うのは、その費用によって生活をしている者を排除することにも繋がる。費用は、分け前の分配という側面もあることを忘れるべきではない。

 基本的に市場情報は、非対称的な情報である。基本的に、コンサルタントもメディアの人間も学者も無知である。つまり、外部情報を分析して推測しているに過ぎない。

 安売り業者は善人であると思い込んでいるメディアの人間が多い。しかし、価格破壊という言葉で示されるように、安売り業者の多くは、規制の秩序を破壊しているのである。この破壊的行為が新しい秩序を生み出すための源泉となる場合もあるが、多くの場合、破壊は破壊でしかないことが多い。そして、派手な乱売合戦の果てに残されているのは、市場の荒廃や社会秩序の破綻しかないことの方が多い。

 安売りが成立するには、安売りを可能とする前提条件、状勢の変化がある。安売りを可能たらしめる要素の大多数は、外的要因である。確かに、それらは、市場、産業の効率化を促し、変革、合理化を推進する推進力となる要素もあるが、同時に弊害もあるのである。良いところばかり見て、弊害を見落とせば、必然的に弊害ばかりが際立つこととなる。特に、それが外的要因であればあるほど、内的な要素は、回復しようのないほどの打撃を受ける場合が多い。その為に、市場の規律が失われたり、モラルが喪失したり、技術やノウハウが失われることが多い。

 安売りが横行する市場の典型がコモディティ化された市場である。
 コモディティ商品というのは、参入障壁が低く、売上高が比較的安定している。反面において標準化、平準化されているが故に、合理化の余地が少なく、乱売合戦になると収益の悪化を招きやすい。
 コモディティ商品は、商品の差別がしにくい商品であり、また、単品市場である場合が多いから、価格競争に陥りやすい。その為に、すぐに収益の悪化に陥りやすい。それが、必需品に多いことで、度々、経済の混乱を引き起こすのである。石油が好例であるが、その他にも、食品や原材料価格が乱高下し、それが経済の混乱の引き金になったりする例が、度々、見られる。
 それ故に、規律が求められるのである。 
 金融商品も考え方では、コモディティ商品の一種だと言えないことはない。

 市場情報は、非対称的なものである。我々は、表示された価格でしか商品価値を判断することはできない。採算割れを承知して市場攻勢、ダンピング、不当廉売をしかけているのか。また、原材料の質や衛生、安全性を犠牲にしてコストを削減した結果の価格なのか、また、違法な操作によって出された価格なのか、それを部外者が察知することは困難である。多くの場合は、内部告発に頼らざるを得ない。住宅において手抜き工事をされても、消費者には理解できない場合が多いのである。しかも、建築や保険、医療をいくら事前に説明されたとしても、事前説明には、専門知識がないと理解できない事柄が多く含まれており、事前説明をしたと言われても、それで全てのが了解が採れたという確証はえられないのである。かえって、それを隠れ蓑にされてしまうことすらある。価格だけでは、優良な業者か不良な業者かを判別することはできない。
 メディアは、無責任であるから、一方で乱売合戦を仕掛けておきながら、問題があると企業の安全性軽視を訴える。そのくせ、自分達は、自分の言論に責任を持とうとはしない。その根底には、時代劇の悪代官、悪徳商人に対する妙な勧善懲悪的な、偽善がある。自分達は、庶民の味方なのだと言った独善的、傲慢さがある。また、反体制や反権力思想の大企業憎しの勘定が見え隠れする。知識人と言われる者達のほとんどは、特権階級に所属しているのだが、自分は、選民であるとして例外視している。しかし、本質は、根拠の乏しい感情論に過ぎない。感情論では、物の本質を見抜くことはできない。

 多くの経済学者は、景気と経済とを混同している。景気と経済とは、別物である。経済の本質は、分配にある。たとえ、景気が悪くても分配が正常に行われていれば、経済は、決して悪いわけではないのである。しかし、景気が悪くなると、市場経済、貨幣経済に依拠している経済体制は、市場の働き、貨幣の信認が低下し、分配機能に支障をきたすために景気の悪化は問題となるのである。

 乱売合戦のような無原則な競争は、市場の規律を失わせ、分配機能に支障をきたす。独占や寡占の弊害を問題にし、市場の監視機能を独占、寡占に対する監視に特化しているが、実際には、不当廉売や乱売のような問題も深刻な影響を市場に与えているのである。

 安売りが決戦は、消費者にとって一見有利に見えるが長い目で見た時、不毛な争いでしかない場合が多い。市場の原理で一番重要なのは、適正な利益であり、その適正な利益を判定するための仕組みと情報の開示なのである。その情報の開示は、投資家や債権者、税務当局向けだけでなく。広く社会に向けた情報でなければならない。
 

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