規制緩和、規制緩和というが、何のために規制を緩和するのか。もっと具体的に言うとどの様な状況を望んで、規制を緩和するのか。また、どの様な前提に基づいて規制を緩和するのか。つまり、なぜ、規制を緩和する必要があるのか、その前提を確認することが規制を緩和する以前に確認しなければならないことである。もし、競争を激化することを目的として無原則に規制を緩和したら、為政者の望む結果は得られないであろう。なぜならば、無原則な競争は、寡占、独占状態を招くからである。公正、公平な競争を維持したいというのならば、市場は規制されなければならない。その前に、公正、公平な競争とは何かを明確に定義しておく必要があるが・・・。

 その証拠に、バブル崩壊後、無原則な競争を奨励したために、金融業界や石油業界は、極端な寡占状態に陥ってしまった。金融業界は、2007年現在、3グループに集約され、石油業界では、13社あった元売り会社が4グループに集約されてしまった。

 どの様な市場状況、環境を望むかによって市場は規制されるべきなのである。市場は絶え間なく変化している。また、産業の発達にもある種の段階や法則がある。ただ、一律に語れるものではない。産業の特性や歴史性、発達段階、その時の経済情勢を勘案しながら政策は立案されるべきであり、何が何でも規制は緩和されるべきだというのは、稚拙で粗雑、粗暴すぎる。何よりも大切なのは、市場に対するビジョン、構想である。
 市場の競争を活発化したり、産業をある程度整理したい場合は、規制を緩和すべきである。むろんその場合においても無原則にではない。一度、独占的な市場が形成されてしまうと、それを再編成することは容易なことではない。

 大体も規制そのものが相対的なものであり、規制は悪だ、規制を撤廃すれば何もかもがうまくいくと規制緩和を絶対視するのは、ある種の信仰のようなものにすぎない。

 なぜ、放置すると市場は、寡占・独占状況に陥るのかである。第一に、市場は有限である。つまり、市場には限界があるという事である。また、市場の限界とは、質的にも、量的にもある。第二に、製品には、ライフサイクルがあり。成長段階を過ぎると新規参入が、実績がないと、技術的に、また、資金的に困難になる。第三に、コスト削減には限界があり。設備には、更新時期がある。また、国際間の格差のように、不可抗力の要素が働く。第四に、技術革新には限界がある。第五に、標準化、平準化が進む。第六に、情報の非対称性である。

 成長段階にある市場は、市場そのものが拡大している。それも、市場の量も範囲、地域的にも拡大している。更に、技術革新が起こっている。その上、どの企業も実績的には大差がない。故に、所謂(いわゆる)競争の原理が働いている。新規参入が比較的容易であるために、市場は、乱立状態に陥る。この段階では、研究開発や新鋭設備、店舗の拡大、人材の確保等への設備投資に必要な資金の調達力がものをいう。資金が続かない弱小企業から淘汰されていく。つまり、消耗戦であり、先に体力を消耗した方が負ける。ただ。この段階では早い者勝ち的な要素が強い。度胸が勝負を決する。創業者利益といった高い収益力も期待できる。また、どちらかと言えば損益を重視した経営が主体となる。
 それが、市場が成熟してくるに従って格闘技的な市場へ変質してくる。また、実績や技術力の差がハッキリとしてくる。基本的に持久戦となり、それまでに、蓄積した純資産、資本力が重要な鍵を握る。新製品の開発や技術革新に限界が見え始め収益力にかげりがでてくる。反面、熟練者中高年齢者の増加に伴い、コストの上昇に歯止めがかけにくくなる。そのために、合理化やリストラなどによるコスト削減によって雌雄が決する。ただ、この段階では、表面的には、大きな変動は見えてこない。
 更に市場の成熟度が進むと市場は飽和状態となり、格闘技的市場から生存競争的市場へと変質する。企業の淘汰も一段と進む。この段階になると新興国による前提条件に決定的な差がある新興勢力の参入があれば、淘汰は更に進むことになる。深刻な場合は、産業そのものが淘汰されてしまう。成熟した段階になると生き残り戦であり、大きなダメージを受けると致命的なる。一企業では対応しきれなくなりM&Aなどによる産業の全体の再編が起こり、少数の企業だけが生き残る。市場が過飽和な状態になると限られた収益力しか得られなくなるため、極力競争を回避しようとする力が働く。
 こうして市場は寡占状態となる。

 更に、寡占状態を招くのは、収益を上げるのも悪いと言う考え方にもある。清貧の思想である。清く貧しくであり、収益を上げる事は罪悪であるという思想である。これは、非営利事業に濃厚にある思想であり、自分達を非営利事業の一員であると標榜しているメディアや言論人にもある思想である。彼等は、とにかく、安売り業者を世直しの鼠小僧のように讃える。とにかく安く売ればいいのである。商業を蔑視、差別しているのである。
 その為に、コストを度外視した経営を強要される。とどのつまり、市場が生き残りゲームの場になってしまうのである。スポーツのような場ではなく、文字通り、弱肉強食の場、殺戮の場と化したのである。こうなると企業は、価格競争に陥る。つまり、あらゆる費用を削減して短期的な収益を求めるようになる。結果的に、研究開発費のような先行投資が敬遠され、即戦力的な商品ばかりが開発されるようになる。保安や衛生という安全性に関する経費は削減される。廉価販売する業者はヒーローとなり、適正な価格を維持しようとした業者は悪役となる。何よりも安い価格を実現した者だけが生き残れるのである。その結果が、寡占市場である。
 しかし、営利事業には、適正な利益がなければならない。適正な利潤を上げるという発想のない事業は、とかく無責任に陥りがちである。抑制が効かないのである。財政が好例である。

 市場が拡大している内は、コストの上昇分を吸収することができる。しかし、一度、市場の拡大が滞(とどこお)り、市場が縮小し始めるとコストの上昇を吸収できなくなる。しかも現行の税制度や融資の基準は、市場、経済の成長拡大を前提としたものであり、市場が拡大している過程では、余剰部分を回収するように働き、また、拡大した価値を最大限、担保する事によって成り立っている。その為に、一旦市場が収縮し始めると歯車が逆回転し、担保が不足する事態を招く。それが、不良債権の正体である。つまり、経済は、伸縮する。現行の経済は、市場が伸びきったところで資金調達の基礎を置く。また、税制は、市場の拡大を前提にして、市場が伸びきったところで所得の基準を定式化する。ところが、市場が伸びきった時点で、資金の担保基準や所得の基礎を固定してしまうと、経済が硬直化し、市場が縮んだ時に産業の基礎構造、資金町達の仕組みを破壊してしまう。
 また、市場や経済を進化論的にとらえる考え方にも問題がある。適者生存である。経済学者の中に特に、進化論的考え方をする者が多い。しかし、それは誤謬である。市場は、進化論のように成長、進化しているわけではない。後退、衰退、悪化している場合もあるのである。また、悪貨は、良貨を駆逐するではないが、必ずしも、正しいものが生き残れるとは限らないのである。市場は、弱肉強食の世界であり、強い者が生き残るのである。だいたい、経済学者は、市場を過信しすぎる。

 戦後、市場が国際化されるまは、日本人は、経済は、成長し、拡大し続けることを前提とし、閉ざされた規制的市場を基盤に限定的な競争を強いられてきた。それが自由貿易となり、国際社会に解き放たれた結果、いろいろな国と摩擦を起こすようになった。特に、アメリカとである。そこで市場の開放と、規制緩和を強要されたのである。それがバブルを引き起こし、また、バブル崩壊後の停滞を招いたのである。

 経済が逼塞状態に陥ったのは、規制に問題があると、あたかも規制だけが悪いと決め付け、規制がなくなれば景気は良くなるとる考えるのは、明らかに的はずれである。

 バブル崩壊後も過剰設備、過剰雇用、過剰債務の三大過剰が前提となっていることを忘れてはならない。この様な過剰が発生した根本原因を考えれば、規制が必要だった事が解る。

 特に、進化論を信奉する現代人には、成長神話がある。要するに、成長する市場は優良な市場、有望な市場であるという認識、幻想である。これは、一種の信仰、宗教である。市場の良し悪しを決めるのは、成長性でも、生産性でも、効率性でもなく、有益性と、必要性である。

 無原則な競争は、市場を寡占状態にする。規制を緩和した結果、瞬く間の内に幾つかの産業が寡占状態に陥った。中でも最も問題なのは、金融である。アメリカでは、金融資本による寡占、独占状態を防止するために、厳しい規制がかけられているというのにである。何でもかんでも規制は悪い、規制を撤廃しろとのかけ声の下に垣根が取り払われてしまった結果である。

 よく市場の失敗と言う人がいる。しかし、市場は、本来、神の如き存在ではないのである。経済法則は、自然の法則のようなものでもない。市場は人間の観念の所産なのである。それだけに、失敗どころか、欠点や欠陥が多い。そう言う存在であることを前提して考えなければならない。

 現代の市場経済の欠陥は、成長性や、生産性、効率性でしか市場価値を現せないことである。しかし、成長性や、生産性、効率性だ市場の基準ではない。むしろ、経済で最も重要な基準は、有益性と必要性であるが、この有益性や必要性は、成長性や生産性、効率性からは測れない基準なのである。成長性や生産性から見ると必需品市場は、悪い市場である。必需品は、コモディティ化しやすい商品だからである。

 コモディティ化された商品とは、品質や機能、形状、と言った商品の属性が均一的で標準化されているために、商品その物が共通化(Common)、普遍化(Universal)されて、個別の商品として識別化、差別化が困難な商品を言う。その為に、交換、代替えが容易な商品である。コモディティ化された商品というのは、その必要性や有益性が高いが故に、成長性や生産性、効率性からは、測りきれない商品である。なぜならば、コモディティ商品市場は、本来的に成熟した市場であり、平準化された市場だからである。この様なコモディティ商品は、参入障壁が低く、安定した売上が見込まれるために、乱売が起こりやすく、容易く収益力が悪化する。

 石油や金、銀、電気、ガス、米、塩、砂糖、繊維、ゴムのような商品がコモディティ化された商品の典型である。金融商品もコモディティ商品の一種だと言えないこともない。

 上の例を見ても解るように、必需品ほど、コモディティ化する。なぜならば、必需品は、最も、大量生産に適していると、同時に、大量に生産され、尚かつ、消費予測が立てやすい為に、生産過程や製品その物を標準化、平準化しやすいからである。そして、コモディティ化しやすいが故に、収益率が悪い上に差別化が難しい。また、合理化の余地が少なく。必然的に寡占化しやすいのである。
 経済という観点から見るこのコモディティ化された商品、必需品ほど重要な資源はない。
 必需品ほど、安定供給と価格の安定が要求される市場はない。それでありながら、石油の例を見ても解るように、常に、乱売と収益の悪化から供給不安と価格が乱高下する危険性が高いのである。それ故に、必需品市場ほど管理規制が必要とされるのである。

 また、経済の効率というのを単純に生産の効率、市場の効率という観点からのみ考えて良いのかという問題がある。大量生産、大量消費、大量仕入れの大量販売という観点から見ると効率の悪い事でも、資源の有効活用という観点から見ると効率が良いことは、しばしば見られるのである。
 もともと、大量生産、大量消費、大量販売という思想は、無駄が多いのである。と言うよりも無駄づかいを前提とした思想である。無駄というのは、本来、経済効率の低いことを意味している。つまり、経済性本来の意味からすると効率の悪い経済の仕組みだと言える。
 この様に効率性と一口に言っても視点を変えるとまったく違って意味になる。

 重要なのは、市場に何を期待し、どの様な市場を実現しようとしているかである。そして、その期待する市場の状況を生み出す制度、構造である。それは、市場の機能、目的から導き出されることである。


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