経済は、戦争である。自然現象とは違う。その戦場が市場なのである。その意味で、経済とは、歴史的な構造物であり、謀略や陰謀、利権争いが渦巻いているのである。
 歴史上を見ると幾多の王朝が興り、また、衰退していった。多くの国が生まれ、また、滅亡してきたのである。経済も然(しか)りである。多くの産業が興り、発展し、繁栄し、また、衰退、滅亡してきたのである。それをあたかも一片の法則や原理で片付けようと言う方にこそ無理がある。唯物史観は、現象を普遍化し、一般化しようとして現実から目をそらす。現実は、人間のすさまじい争奪の歴史なのである。
 その現実を見ずに経済を現象としてのみ考察とても意味がない。現在の産業は、覇権争いの歴史の帰結点にすぎないのである。

 そして、歴史上争われたのは、戦略であり、政略である。そこで問題になったのは、地形であり、組織であり、兵站であり、軍資金であり、兵力、動員力だったのである。経済、産業も同様である。未だかつて、均一、同一の条件で争われた競争などなかった。だから、公平な競争の原理など言いうのは、強者が弱者に押し付ける理屈であって、現実に実現した験(ため)しなどないのである。

 規制緩和と言うが、元々市場は規制によって成り立っているのである。市場原則のような経済原則に自然法則のような普遍性を求めるのは、愚かなことである。競争の原理と言っても基本的に何が競争の原理なのか、それを特定することは困難である。ただ、競争をする事によって効率がよくなるという程度である。しかも、どの様な効率がどの様によくなるのかと言う基準は、曖昧である場合が多い。要するに因果関係が明らかにできない場合が多いのである。競争をさせる事でよくなるという事は、ただ、市場の基準が相対的であるという事にすぎない。つまり、競争というのは、比較対照によって成り立っているのであり、相対的基準に基づく市場においては、比較対照する対象がないと基準そのものが成立しないだけである。そして、比較対照するためには、その前提と状況が重要となるのである。

 規制というのは、誰にとって、どの様に有利かで決まるのであり、それを決めるのは、政治力なのである。だから、政治と経済は、切っても切れない関係がある。つまり、規制とは、競技以前のルールの問題なのである。だから、規制の是非を論じる前に、規制の持つ働きを知る必要があるのである。
 市場経済において規制をなくすことは、市場経済を否定する事になるし、規制を自然に放置すれば、黙っていれば、公正な規制が成立するなんていう事もない。規制を成立させるのは、前提となる条件と設定された時の状況、前提となる思想、そして、公正な手続きによる合意の形成である。規制の是非を問うても仕方がないのである。規制をなくせば、全てがうまくいくと思うのは、短絡的、楽観的すぎる。

 市場を成立するの為の要素は、第一に、市場取引を行うための規律、規則。規律、規則の前提となる市場に対する考え方。市場の統制者、胴元の存在。第二に、市場を成立させる財の供給者、生産者の存在。その生産手段、供給手段。第三に、需要、消費者の存在。その受け取り手段と消費形態、生活である。第四に、正統的な手続きの必要性である。

 価格の支配力を握った者が市場を支配できる。その市場の支配権を巡って供給者側、需要者側が互いに、また、それぞれの内部でも主導権争いをしてきたのである。その主導権争いが、独占的な利益を防いできたというのが市場の原理主義者の主張だが、それを絶対視したり、鵜呑みにするのは危険である。確かに、独占的な利益を防いだかもしれないが、反面において無理な競争を強いている面も否定できないのである。それぞれの立場に立って前提条件を確認し、その状況に合わせた環境を規制するのが市場を統制する者の役割なのである。だから規制が悪いのではなく。規制の内容が問題なのである。

 市場の統制者は、市場を制御する必要がある。その為の条件が市場の原則、規律である。原則や規律を設定するためには、市場の置かれている状況、環境を知る必要がある。

 売り手市場と買い手市場とがある。売り手市場と買い手市場の差は、需給関係によって生じる。その差は、市場に対する上昇圧力や下降圧力として作用する。供給サイドが価格決定の主導権を握っている市場が売り手市場であり、需要サイドが価格決定の主導権を握っているのが買い手市場である。

 価格の弾力性は、市場構造と商品の属性に依拠している。この様な、価格の弾力性によって価格の節度が守られている。しかし、一度、市場の信認が失われると市場の価格の支配力が失われ、物価は乱高下する。この様な物価の変動は、実体を伴わない場合がある。

 実体、実需の伴わない物価の乱高下は、市場の規律を混乱させる。我々は、現象として現れるフローの動きだけに惑わされてはいけない。その背後にあり、フローの動きを誘導しているストックの動きも注意深く観察しなければ、経済の実体は見えてこないのである。

 市場の置かれている状況を把握するためには、市場の実態を知る必要がある。その為に重要なのは、市場の規模を確定することである。その為には、まず、市場の規模は、有限か、無限なのか。また、計測が可能なのか、否なのかを明らかにする必要がある。
 市場の規模を実物、財から確定する、また、推定するのは、非情に難しい。それ故に、市場に流れる通貨の動きから、市場の規模を推定するのである。
 市場の規模を知るためには、通貨の回転数、通貨の流量、速度、貯蓄量、売上高、粗利益率、単価、在庫の回転数、各種残高、商品の流通規模、流通範囲などから推定するのである。

 規模や状況が把握できたら、それに合わせた対策や規制を適時行う必要があるが、どうしてもそれが実効力を上げるまでにタイムラグが生じてしまう。それ故に、状況に合わせて構造を変化させる仕組みを市場に組み込んでおく必要がある。それが構造主義である。 
 市場は、拡大均衡と、縮小均衡を繰り返している。ただ、一途に拡大均衡ばかりを願ってもそう言うわけにはいかないのである。
 高度成長時代の甘い夢を捨て、低成長こそが本来の常態であることを思い出す必要がある。

 簡単に市場と一言で市場全体を言ってしまう傾向があるが、市場全体は、幾層にも重なり合った複数の小さな市場の集まり、集合体であり、一つの産業の中にも段階や次元、位相によって複数の市場がある。しかも、全体の市場を構成する一つ一つの部分を形成する個別市場は、各々が独自の市場の原理、原則、基準、規範、論理をもっている。また、取引の形態、仕組み、慣行、慣習も違う。生産様式によっても市場変質する。しかも、それらそれぞれが歴史的経緯を背負っている場合が多い。かつて、村々、街々にあった造り酒屋やパン屋も工業製品化され、商品が、大量生産され、画一化されるに従って取引の形態や販売経路に変化が現れてきた。更に、市場、取引が行われる空間、手段も違う。構造・機能も同じ産業でも次元や段階、位相によって違ってくる。また、先物取引市場の発達は、現物市場の位相も変質させてきたのである。
 空間の違いとは、魚市場のように現実に物理的空間内に形成される市場も在れば、株取引のように、インターネットという仮想空間の中に構築された市場もある。
 世界同時株安が話題になる度にスシテムが問題にされる。1987年10月19日のブラックマンデーの下落率は22・61%だった。このブラックマンデーが起きた最大の原因は、大口投資家の「プログラム売り」だといわれている。 
 物理的空間も地理的条件や自然、環境によって違ってくる。かつて、交易の中継地点として繁栄したシルクロードの市場も海洋貿易が盛んになるにつれて廃れていった。また、交通機関の発展は、港湾に隣接した市場の在り方をも変えてしまう。
 また、市場の過程で一部の市場が機能しなくなると市場全体に市場が及ぶことになる。それがインフラストラクチャーに関係した産業であればある程、産業や社会に及ぼす被害は甚大なものとなる。典型は、石油や電力市場である。ただ、石油や電力市場だけでなく、一部の市場が寡占状態な場合、一つの工場火災や企業倒産が産業全体や物価に重大な影響を及ぼすこともままある。経済は、現実であり、ただ観念によってのみでは、捉えきれるものではない。
 この様に多様な形状を見せる市場を一律に評価したり、政策を決定する事は不可能である。バブルの収束を狙って、土地に対する総量規制を行ったが、金融市場にも位相の違いがあり、同じ金融機関でありながら、ノンバンクや農林係金融機関に総量規制の拘束力が及ばなかった。その為に規制に最初から抜け道ができ、後々、ノンバンクや農林系金融機関に甚大な被害をもたらす事となった。
 この様に、一律な施策では、個々の市場を規制することはできない。また、該当市場だけに焦点を当てた政策では効果を上げるどころか、逆効果になることもある。個々の市場の状況や特性に従ってきめ細かな政策を立てる必要があるのである。

 また、経済を考える場合、景気の良し悪しだけで経済の成否を捉えるべきではない。株の大暴落で市場が混乱し、恐慌が起こったとしても、それは、市場経済、貨幣経済が麻痺したに過ぎない。むろん、市場経済、貨幣経済が中枢を担っている経済体制では、市場経済や貨幣経済が麻痺することは、経済体制そのもの致命的なダメージを与える。それでは、経済が成り立たないかというと、経済というのは、基本的に生活活動である。経済の根本は、分配機能であり、それさえ機能していれば、経済は機能していると言えるのである。自給自足的部分が多いコミュニティならば、経済に与えるダメージも小さい。ただ、景気の悪化が分配の機能、即ち、市場の機能と市場を構成する個々の要素の機能を破綻させてしまうから景気が問題となるのである。
 個々の産業も段階や次元、位相によって市場の構造、形態、機能、状況、役割が違ってくる。そして、それぞれが雇用や生産、消費、分配の機能を持っているのである。この様な状況下では、バブル崩壊後の三大過剰、即ち、雇用、設備、債務の過剰は、市場の持つ分配機能を破綻させてしまうから、必然的に市場のネックとなるのである。
 市場や市場を構成する要素、即ち、個々の企業や家計、財政が機能しなくなった場合、それに代わるものを用意する施策が必要なのである。つまり、家計が機能しなくなり、消費が減退した時は、財政が出動して、消費全体の減退を補うのである。

 なぜ、株式市況の乱高下に経済が市場が、経済が振り回されなければならないのか。1929年の「暗黒の木曜日」の際にも、日々の生活は何ら変わりなかったのである。ところが一旦株価が大暴落すると生活が一変してしまう。それは、資本主義体制に、何等かの欠陥があるからである。株式市況と実体経済とは、必ずしも一体ではない。市場経済では、市場の動向が経済の全てであるように錯覚する。しかし、経済の本質は、分配にある。生産や分配にさえ支障が生じなければ、経済は、本来正常に機能していなければならないはずなのである。

 これらを鑑みながら、経済制度というのは、これら個々の市場を基礎として都市計画を立てて、都市を構築するように築き上げるものなのである。即ち、個々の市場を一つ一つ設計し、部品化した上で全体を構築していくことなのである。
 近代経済学者の錯覚は、利益は、経営者による合理的経営活動の結果だという認識である。実際には、現実の利益は、制度的、また、規範的に導き出された結果である場合が多い。必ずしも、経営や経済の実体を反映したものとは限らないという事である。
 例えば、効率的な経営を追求したために、安全性や衛生面が疎かにされたなどという事は往々に起こるし、また、テレビ局で、高い視聴率を追求した結果、俗悪的な番組が増え、良質な番組が低視聴率を理由にうち切られたり、また、制作に費用がかかる番組作りが敬遠されるという事である。

 倫理性が問われた映画が、ヒットしたとたん、市場が評価したとして、その倫理性が問題にならなくなった例があるが、これなど、典型である。倫理的であるか、否かは、映画がヒットする事とは関係ない。むしろ、その映画の品位、倫理性を問われたことが話題となり、ヒットした事に繋がったのかもしれない。こうなると、話題作りのために、どんな悪質な行為も正当化されてしまう。
 この種の問題が起こると言論の自由、表現の自由が必ずと言っていいほど問題とされる。市場というのは、本質的に、一方向性の場ではなく、双方向性の場である。言論の自由には、表現をする側の自由と受ける側の自由がある。街に氾濫する落書きを問題とする時、落書きをする者が表現の自由を楯に取るのは、明らかにお門違いである。落書きをされる側、見せられる側の問題の方が大きいのである。自分の家に落書きをされたり、見たくもないものを見せられる方が権利を侵略されているのである。また、子供の教育に悪いものを見せられれば親権を侵すことにもなる。つまり、権利というのは、単一の要素で成り立っているわけではなく。反対方向の義務の作用があって成り立つ双方向の作用なのである。相互の作用がありから、市場に自制が働く。それを忘れては、市場の原理は成り立たない。市場原理で重要なのは、力の均衡である。

 大体において倫理的問題を市場価値で測ることがおかしいのである。倫理は、主観的な問題であり、故に、主として政治的、教育的問題である。いくら欲しがるからと言って糖尿病患者に甘い物を大量に与える行為は、犯罪行為である。いくら視聴率が高くても子供や社会に悪影響を与えることが歴然としている番組、言い換えると、その社会の大多数が反対している番組を無制限に垂れ流す事は、決して民主主義的でも、自由主義的でもない。それは、ちゃんと民主主義的手続に則って裁かれる問題なのである。制限をすることが自由に反するのではなく。個人の意志を無視することが自由に反することなのである。その社会の大多数というのは、声の大きい少数派ではないことを明記しておく必要がある。ただし、相手の意志を尊重して、相手に発言の機会を与え、然るべき手続で制限、規制を設けることは、民主的で、自由主義的なことなのである。

 かつて、悪貨は、良貨を駆逐すると指摘されたように、無条件に市場の評価に委ねることは危険だと、自制が働いたが、現在は、その自制心が失われつつある。これは、個人の良心、常識を前提として成り立っている個人主義社会にとっては、社会を成立させている前提を覆すような危機的な問題なのである。
 つまり、安ければ、売れればいい、儲かればいいと言う風潮が蔓延し、それに拍車をかけることによって価値観までもが変質をしてしまう。それが、市場絶対主義の危険性である。

 現代人は、市場を過信しすぎる。市場の失敗と言うが、もともと、市場は、神の如き存在ではない。更に言えば、自然のような存在でもない。あくまでも市場は人間の観念の所産なのだ。それだけに、失敗どころか、欠点や欠陥が多い。そう言う存在であることを忘れてはならない。
 特に、現代人は、成長神話がある。成長する市場は正しい市場であるという誤解がある。正しいも、善なる市場という意味でである。こうなると一種の信仰、宗教である。市場の良し悪しを決めるのは、成長性でも、生産性でも、効率性でもなく、有益性と、必要性である。
 例えば、阿片市場が成長性が高くて、収益性が高くて、効率がよいからと言って善なる市場であろうか。善なる市場として阿片の販売を拒否した中国に戦争を仕掛け、強引に自らの要求を押し付けた国がかつてあったのである。しかし、それを正当化する理由はどこにもない。なぜならば、阿片は、悪益な物であり、不必要な物だからである。
 現代の市場経済の欠陥は、成長性や、生産性、効率性でしか市場価値を現せないことである。

 市場は、神ではない。見えざる手によって均衡しているのではない。市場を均衡させているのは、市場の構造である。市場の構造や仕組みが狂えば、経済も社会も破綻してしまうのである。だからこそ、経済現象や市場現象の背後にある市場の構造を解明する必要があるのである。

 

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