一般に、株式会社に代表される企業は、個人事業、私企業と言うくらいであるから、私的事業と考えられている。つまり、私(わたくし)の領域に属する組織だと言う事である。そして、公と私は厳然と分けられ、ある種の差別がある。私企業は、公的な機関から一段低く見られる傾向がある。その根拠は、私的企業は、私的利益を追求することを前提として公的企業は、公益の追求にあるという意識である。しかし、だからといって私的事業は、儲けても良いが、公的事業は儲けてはいけないという理由が理解できない。それは、利益を蔑視しする思想が根底にある事の証拠である。儲けるという事は、賤しい行為だという認識である。しかし、その認識が公共事業の非効率性を生み出している。国民に対するサービスは、賤しい行為だと公言しているようなものである。それが公共サービスの質を悪くしている。俗に言うお役人仕事である。

 私的な企業は、資金調達を専ら金融市場に求める。故にも金融市場の性格に私企業は、影響を受ける。個人企業主体の会計処理の在り方も、資本市場よりの会計処理と言うより金融市場向けのものとなる。何よりも収益に対する考え方に現れる。資本市場では、利益配当が重視され、その面から収益力が問題となる。それに対し、金融機関が問題とするのは、債権の保証であり、収益の高ではない。純資産の内容も資本市場では名目的な要素が重視されるのに対し、金融市場においては、実質的な内容が重視される。つまり、担保力である。

 その意味では、個人企業は、金融市場に育てられ、依拠しているとも言える。

 金融機関には、四つの機能がある。第一に、信用の創造。与信機能。第二に、資金の集配機能。第三に、流動性の創出。第四に、融資、投資に対する審査機能である。

 信用の創出、与信と言う事は、信用通貨の創出に繋がる。つまり、貨幣の発行に関わる。通貨を中央銀行が発券するというのは、通貨は、国家が発券するのではなく。金融機関の大本締めである中央銀行が仕切っているのである。この事は、金融機関の根本的性格に関わっている。金融機関は、通貨に信用を付与する働きがあるのである。

 債務は、資産に転換される。会計学的に言うと、総資本から総資産に変換される。その過程で損益が生じる。損益の過程は、労働と分配、財の生産と資源の消費と言う行為を生み出す。その過程で貨幣価値の創出と環流が起こるのである。債務は、所得と生産の源泉である。債務が財を生み出すのである。残、出、入、残が一つの工程である。この過程で債務のレパレッジ効果が現れる。それが乗数効果を発生させるのである。
 また、資本が、損益過程を経て資産に転換される過程で生じる資金の回転が、乗数効果を生むのである。会計学的に言うと、経営とは、総資本を総資産に転換する回転運動によって純資産を増大させようとする活動である。純資産の増減過程と純資産と負債の関係から資本、負債のレパレッジ効果が派生するのである。不良債権は、これが負の効果として現れることによって発生する。負のレパレッジ効果である。即ち、純資産が収縮していながら、負債の絶対額が変わらないことによって収益や資金調達力が下降(したぶ)れする現象の結果が不良債権としてあらわれるのである。そして、日本の債務者主義がこの負の効果を増大化し、尚かつ、硬直化しているのである。
 本来は、「利益の存するところに損失も帰する」というローマ法からの精神、債権者主義が正統なのである。それを日本の民法では、債務者主義の立場をとる。その為に、不良債権の処理がなかなか進まないのである。

 金融側から見れば、預金は、債務である。その預金は、信用貨幣として機能するのである。これから見ても解るように、債権、債務関係から、信用貨幣は創出されるのである。また、債権・債務関係が総資本と、総資産の形を生み出す。つまり、調達先と運用先である。この過程で、経済活動が具現化、実体化されるのである。

 貨幣に対して、誰が、何が、信用を創出し、保証するのか問題である。金本位制度下では、金という実物の保証の下に中央銀行が貨幣を発行するのである。そうすることによって通貨を政治の道具とされる事、即ち、通貨の規律が失われる事を防いでいるのである。

 結局、信用貨幣を創出するのは、信用を担保する物である。担保する物は、信用貨幣の価値を保証する。しかし、その価値は、債権としての性格を持ちも、尚かつ、相対的であるが、故に、信用貨幣にレパレッジ効果が働く。それが乗数効果を生み出すのである。つまり、担保する物には、過去、現在、未来の尺度が選択できるのである。また、信用取引のような効果も生まれる。金融機関では、どの程度の流動性が必要か。どれくらいの現金を準備しておかなければならないのかによって、レパレッジの幅が決まるのである。それが、貨幣の流動性を決めるのである。

 では何によって、通貨の信用の裏付けをしているのかが問題となる。つまり、何を担保すべきかである。金本位制度下では、それは、中央銀行が保有する金、金貨である。しかし、金本位制度離れた今日では、何がそれに変わったのかである。それは、根本的には、預金量と税収である。つまり、預金とその対極にある債務が、通貨の裏付けをしている。また、同様の与信力は、資本にもある。つまり、債権と債務の関係が現在の通貨の裏付けなのである。だからこそ、通貨の量を制御する場合、金利を操作することが有効なのである。

 つまり、信用貨幣の原資は、預金であり、裏付けは、借入先の担保なのである。この債権と債務の関係が、市場経済、信用経済の基盤である。これと同様なのが、資本市場にもある。それが投資家と企業の関係である。

 通貨を創出すると言っても直接的に紙幣を発行するわけではない。また、紙幣を発行しなくても実質的には、通貨の量を増やすことはできる。それが融資であり、投資である。また、預金も現金と同様の流動性を持つ。預金も通貨として機能しうるのである。その他に、小切手、手形も通貨の一種である。

 資金の集配というのは、情報の非対称性から派生している。つまり、小口の資金提供者は、投資先の情報を集めることにかかる費用を負担するだけの余力がない。また、投資先も、小口の資金を集めるのは効率がよくない。そこで金融機関が小口の資金を集めて、投資先にまとめて資金を提供するのである。この事によって資金の流動を円滑にする作用もある。

 流動性の創出とは、流動性の低い資産を流動性の高い資産に転換したり、流動性の高い資産を流動性の低い資産に転換したりする操作を繰り返すことによって通貨の流動性を創出する事を指すのである。
 貸付債権は、流動性が低いのに対し、預金通貨は、流動性が高い。

 企業は、収入と支出の間に何等かのタイムラグが生じる。費用、支出は、固定的なでるのに対し、収入にはムラがある。必然的に、収入を平準化する必要が生じる。そこに金融市場の必要性があるのである。

 資本は、運転資金のような一時的な資金需要に応えることはできない。資本は、長期的な資金需要に対応した資金なのである。資本は、原資なのである。

 金融の審査機能、モニター機能を過信するのは愚かである。金融機関は、基本的に担保する物がなければ融資は、実行できない。要するに、何を担保するのかの問題なすぎないのである。その企業の持つ、有形、無形の資産を担保するのか、自己資本、純資産を担保するのかの違いである。有形資産の中には、むろん、現金や在庫も含まれる。ただ、我が国では、専ら、固定資産、特に、不動産や有価証券を担保したから含み資産が問題となったのである。つまり、金融機関の審査力と言っても企業の経営計画や経営活動ではなく、その企業の支払い能力を審査しているのに過ぎないのである。その点を勘違い、錯覚すると金融の働きが理解できなくなる。

 この様な金融市場を基盤とした個人企業、私企業は、必然的に、金融市場の性格を反映することになる。資本市場を基盤とする上場企業との性格の違いは、この金融市場と資本市場の違いとして現れてくる。

 また、バブル崩壊後の長期の停滞が、不動産市場と資本市場の急落によるというのも象徴的である。つまり、不動産市場を基盤とした金融市場の混迷と株式市場を基盤とした資本市場の停滞の両方が同時に引き起こされ、それが被害を拡大したのである。それが日本経済を長きにわたって苦しめている原因である。

 バブル崩壊後の不良資産問題では、金融機関の不良資産の処理が問題となった。それは、不良債権の発生の源が、金融機関にあったからである。日本の金融機関は、企業の実質的純資産、つまり、含み資産を担保して、融資を実行してきた。これは、欧米において自己資本、つまり、名目的純資産に対して融資をしてきたのとは違っていたのである。その実質的純資産の価値が急速に収縮低下したことが、不良債権の発生させた原因である。この実質的純資産の低下、収縮を止めない限り、不良債権は解消されない。実質的な純資産が低下することによって、必要な資金調達に支障が生じる。必要な資金調達が困難になれば、新規投資は、必然的に控えられる。更に、運転資金にも事欠くようになり、純資産を取り崩さざるを得なくなる。しかも、税制や会計制度が含み資産を取り崩さざるを得ないように仕向けれ(株の持ち合いの解消、減損会計、連結決算、キャッシュフロー会計の導入等)、不良債権は、かぎりなく増大したのである。

 金融市場を基盤として成長してきた我が国の産業の多くは、長い間、金融機関の支配下におかれてきた。大企業の多くは、自己資本が充実するに従って資本市場へと移行していった。それに対し、含み経営を基盤としてきた未上場企業は、一部の無借金企業は別にして金融市場を引き続き基盤としていくことになる。

 また、我が国の特徴の一つであるメーンバンク制度は、金融市場を背景とした産業の成長によって必然的に派生した。自己資本を担保しえず、資金調達力の低い中小企業がメーンバンクを中心にして発展してきたのが、メーンバンク制度である。必然的に金融機関の支配力は強く。経営状態が悪化すれば、人材の派遣や場合によっては、銀行管理と言う形が採られた。また、表に出ない含み資産を担保する事によって成り立っていた。金融を中核とした財閥(コンツェルン)の疑いをかけられたのも無理もないことである。

 金融市場を基盤としてきた企業群は、含み資産を担保する事によって資金運用をしてきた。必然的に担保価値の高い物に投資する傾向を持つことになる。それが不動産投資である。日本の市場経済は、土地本位制だと言われる由縁である。それが過度に不動産に頼った資産形成を促すと同時に地価の高騰を招いた。バブルの一時期は、東京二十三区内の地価で、アメリカ全土の土地が購入できると言うほどの異常な高騰を見せた。これが、バブル崩壊後に致命的な傷を日本の経済に負わせるのである。

 金融市場を基盤とする未上場企業にとって経営権は、継承すべき資産である。その為に、事業を継承するときに、莫大な相続税がかかる。この相続税対策として、純資産を希薄化させる手法が流行ったのである。それが不動産への投資である。
 それがバブルの一因となった。バブルの崩壊によって不動産価値下落した時、最も、被害が直撃したのは、これらの企業である。これは、日本型含み経営の終焉を予期させる出来事であったが、現実には、多くの企業が含み損を抱えながらも継続したのである。しかし、この事は、不良債権問題を長引かせる原因となった。

 金融市場を基盤にして発生した不良債権問題と資本市場を中心にして発生した不良債権問題は質が違う、金融市場を中心にして発生した不良債権問題は、主として個人事業に大きな爪痕を残し、金融再編や大手銀行の破綻と言った結果を招いたのに対し、資本市場を基盤にして起こった不良債権問題は、三洋証券や山一証券の破綻、飛ばしの様な証券業界の信用問題と言った形で資本市場を揺るがした。
 しかし、金融市場と資本市場は深く関わり合っているために、相互に与えた打撃も大きかった。


参考文献
「産業構造論」小野五郎著 日経文庫 日本新聞社
「経済論戦は甦る」竹森俊平著 日経ビジネス人文庫
「会社をよくするみんなの「経理・財務」」金児 昭著 日本経済新聞社出版局
「S式一問一答法律用語問題集」柴田孝之著 自由国民社


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