民営化、民営化と、昨今は、民営化が大流行であるが、当然、民営化にも限界がある。その典型的なのが、民営企業が資本市場に支配されているという事である。

 何でも民営化すればいいと言うものではない。民営化は、万能薬ではない。むしろ、明確なビジョンもないままに民営化をすれば、弊害の方が多い。

 警察、消防、軍隊まで民営化してしまえという暴論まである。ただ、刑務所に関しては、一部アメリカやイギリスにおいて実施されている。

 民営、国営、公営の違いはどこから来るのか。一つは、資本市場を基盤としているか、否かである。つまり、資本市場を経由して資金、資本、元手を調達し、それによって成立している企業を民営企業とするという事である。しかし、資本市場から資金を調達せずとも成り立っている民間企業は多くある。つまり、資本市場に必ずしも民間企業は基盤を置いていない、よっていない。ならば公的な資金によらない企業を民間企業とするのかである。では、公的な資金と公的でない機関とは、何処で区分するのかである。

 民間企業を生み出した基盤は、資本市場と金融市場である。民間企業の論理は資本の論理であり、それが資本主義の原点である。株式会社は、その資本の論理の中核にある。資本主義は、株式会社の成立によって確立した。

 資本は仕組みである。利益も、仕組みである。利益の仕組みの延長線上に資本の仕組みがある。資本の仕組みを見ると資本市場と金融市場が、産業にどう関わっているのか、また、経済の中における産業の位置付けが浮かび上がってくる。

 民間企業は、資本市場と金融市場から資金を調達し、所得として家計に、同時に、税として政府に資金を供給する。故に、企業会計上の総資本の部は、負債と資本(新会社法では、純資産の部。)からなるのである。利益の分配は、経営者、投資家、公共機関(税)、そして、債権者にな配分それるのである。つまり、資本構成は、各々の取り分を意味するのである。

 それに対し、国営企業、国有企業、公有企業、公営企業の資金の提供者は、公共機関である。公共機関の財源は、基本的に税金である。つまり、国営企業、国有企業、公営企業、公有企業に資金を提供しているのは、納税者、即ち国民である。借金にしても国債や地方債というの最終募集相手は、外債を除いて基本的に国民である。
 公共機関の人間は、だから、国営企業や国有企業、公営企業、公有企業は、儲けてはいけないんだという。逆である。資金の提供者が国民であるからこそ、その資金を有効に使う義務が公共機関、並びに、国営企業、国有企業、公営企業、公有企業にはあるのである。あわせて、情報を国民に公開する義務があるのである。国営、国有、公営、公有企業にとって国民が投資家なのである。
 国家の社会資本、公共財を外債に頼ることは、国家の独立、主権に関わることだけに注意する必要がある。自国の経済の主体性を海外に譲り渡し事にも繋がるからである。むろん、債権者も債務者も運命を共有していることに変わりはない。その為に、借金があるからと言って殺しはしない。ただ、借金によって身売りをせざるを得なくなった例は、過去においていくらでもあるのである。

 また、民間企業には、資本市場に依拠しているか、金融市場に依拠しているかによって二種類ある。一つが上場会社であり、未上場会社である。つまり、株式を公開しているか、否かによって違いがあるのである。
 上場会社は、資本市場に依拠することによって主として証券取引法によって支配され、未上場会社は、金融市場に依拠することで主として商法に拘束される。つまり、それぞれが依拠する法も違うのである。
 資本市場が重視するのは、株価の動向であり、その根拠となる収益力、キャピタルゲイン、配当であるのに対し、金融市場が重視するのは、支払い能力、担保力であり、基本的に金利である。これは、資本市場の主体が投資家であるのに対して、金融市場は債権者であることによる。
 また、経営者の意識にも違いがある。上場企業の経営者が責任を負うのは、資本市場、投資家に対してであり、未上場企業は、金融市場、債権者に対してである。その為に、会計の処理の仕方、考え方に違いが生じる。上場会社は収益力の向上を第一義に考えるようになり、未上場企業は、内部留保、担保価値の向上に努めることになる。上場会社の経営者にとって経営権は、権利であるのに対して未上場企業の経営者にとっては継承されるべき資産である。故に、資本市場においては、資本は、実体のあり、経営権も市場で売買される、売買が可能なものであるが、金融市場においては、資本は、指標の一つに過ぎなくなり、実体は、所有する資産の担保価値に経営の実体はあることになる。ここから、納税に対する意識が違ってくる。特に事業継承に対する意識が違ってくる。
 制度が規範を拘束するの典型である。形あるものは、無形なものよりも実体化しやすい。例えば、タイムマシーンや幽霊のようなもの好例である。一度、映画やテレビの様なもので映像化されてしまうと、理論よりも映画やテレビで映像化されたものを現実として受け容れられてしまう傾向がある。会計も制度として発効したらそれによって経営者の行動規範は支配されることになりがちである。それ故に、制度の影響力を侮ったり、無視したら経済政策は、有効性を発揮できなくなるのである。

 今日の資本主義体制は、この様な二重、三重構造になっていることを留意しなければならない。一口に資本主義体制と言っても一律ではないのである。

 この様な多重構造の資本主義体制に共通の基盤を用意しているのが、会計制度である。しかし、会計制度も一様ではない。会計制度の基本単位は、国家単位である。今日、これらを統合しようとする機運があるが、未(いま)だ、途遠しの観がある。

 こうなると会計原則が問題となるが、会計原則もまだ統一されたわけではない。それでも、会計原則は、資本主義の性格をよく現している。また、会計制度の構造は、資本主義基礎的構造を構築している。
 今日、国際会計原則として採用されようとしているのは、「追跡可能性」「理解可能性」「比較可能性」「信頼性」「目的適合性」である。これは、会計が基本的に情報であることを如実に現している。つまり、会計は、情報であり、物的実体を持っていない、観念的所産なのである。この事を充分に留意しておく必要がある。
 資本主義において重要なのは、情報であり、情報が、産業の命運を握っているのである。

 国営企業というのは、国家が直接経営している企業、団体である。国有企業というのは、国家が、所有する企業である。つまり、資本を国家が所有する企業である。公営企業というのは、これに国家に準ずる公共機関が経営する企業である。公有企業は、国家に準ずる公共団体が所有する企業である。

 資本主義体制では、企業に対する所有の概念は、資本の概念である。しかし、所有の概念だけでは、本質的な差は見極められない。国家が、経営するといっても経営に対する原則が同じならば、民営企業と変わらないことになる。問題なのは、経営に対する原則が違うことである。一つは、国営企業は、民間と会計原則が違うと言う事である。同時に、民間企業が株主に負う経営責任に相当する部分が国営企業にはないという点である。国有企業の場合は、必ずしも国営企業と同様に会計原則に従わないというわけではなく、会計原則に則っている企業とそうでない企業とがある。また、従業員が公務員と同様の扱いを受けていることである。

 では、目的から国営と民間との違いを捉えたらどうなるか。ここで重要な錯誤が一般に流布している。即ち、民間企業の目的が利益にあるという錯覚である。

 民間企業の目的は、金儲けではない。利益は、重要な指標ではあるが、指標の一つに過ぎない。利益は、最終目的ではない。

 収益ばかりを目的としていると、民間企業の持つ共同体としても側面を無視することになる。民間企業には、共同体としての機能、即ち、社会的機能、例えば、雇用の創出、環境の保全、財の生産、地域経済の活性化と言った機能があることを忘れてはならない。

 無人工場を考えてみればいい。無人工場は、経済効率が本当に高いのかである。かつて、多くの地方自治体が、企業を招致した。しかし、それによってその地域の活性化がなされたかというと疑問である。先ず、地方自治体が求めた経済効果は、雇用の創出と税収だろう。無人工場が来たのでは、この両方とも効果がない。効果がないだけでなく、資源だけが大量に使われてしまう可能性すらある。また、環境汚染も引き起こされるかもしれない。つまり、負担ばかりが大きくなる。企業にとって採算性という観点からすれば生産的で効率的かもしれないが、地域住民の、経済性、社会性という観点からすれば、非効率で、非生産的なのである。これは、多国籍業が発展途上国に生産拠点を移した時にもよくある話である。
 雇用の創出を計らなければならない時に、人員削減を促す政策ばかりを促進すれば、逆効果である。デフレ期に縮小財政を採るのも、体力をなくした病人に全力疾走を強要するようなおかしな政策である。資金を必要としている産業に、金融機関が、貸し渋りをせざるを得ないような政策をとるのも同様である。それが意図した政策ならまだしも意味もなくただ、大勢に迎合するためにとられた政策ならば犯罪行為である。部分適合全体不適合の典型である。どの視点に立っての経済性なのかを考えなければならない。
 消費の観点から見ても大量生産、大量消費を経済効率としてみる資本主義体制下は、基本的に使い捨て文化しか創り出しえない。資本主義経済では、使い捨てが美徳なのである。だから、資本主義体制下においては、浪費や飽食こそが褒められるべき事であり、質素や倹約は、悪徳として退けられてしまう。それでは、温暖化対策も、省エネルギー対策も実効力を発揮しえない。本来の効率という観的からすれば、限られた資源を最大限に活用することであり、浪費や使い捨ての対極にあるべき概念なのである。浪費や飽食の本来の意味は無駄なのである。

 民間企業は、利益を上げる事が目的なのか。翻っていえば、利益を上げる事だけが目的なのか。民間企業を考える上で、肝心なのは、そこにある。民間企業の目的は、利益だけにあるのではない。もっといえば、民間業の本来の目的は、利益にあるわけではない。利益は結果なのである。ならば利益は必要ないのか。そうではない。利益は、企業を継続していくために不可欠な要素の一つであることには変わりないのである。ただ、利益ばかりを問題にしたら、民間企業の意義は理解できない。
 それなのに、国有、公営企業と民間企業の違いを利益だけに求めるから、本質が見えてこないのである。むしろ、国営、国有企業と民間企業の違いは、何処に主体があるかに求めるべきなのである。

 民間企業にとって利益を上げる事は本来の目的ではない。しかし、利益を上げなければ、資金の調達ができず経営を継続することができない。経営を継続することができなければ、企業は経営目的を達成することができなくなる。故に、利益を上げる事は、民間企業にとって最終的な目的ではないが、必要不可欠な指標であることは確かである。それ故に、利益は、目的に準ずる扱いを受けるのである。
 ところが、国営企業、公営企業は、利益は、経営目的ではないとして度外視される。その為に、利益が上げられずに経営がたちいかなくなっても、経営者の従業員も責任を問われることがないのである。つまり、国営事業、公営企業では、経営者も従業員も経営責任を問われることはない。

 なぜ、私的事業は、金を儲けても良いが、公的事業は、金を儲けてはいけないのであろうか。公的な事業は、公共財を扱っているからという理由をあげる者がいるが、何も、公共企業は、公共財のみを扱っているわけではなく。公共財と言われる事業に民間が関わっている例は多くある。教育や公共事業が良い例である。
 先ずなぜ、金を儲けてはいけないのか。また、なぜ、予算は消化しなければならないのか。公共事業における予算の概念と民間企業における予算の概念は、まったく違う。民間企業における予算は、単なる指標だが、公共事業における予算は、仕様であり、守られければならないな規律である。公共事業における予算とは、文字通り、事前に決められた支出である。必然的に決定と支出の間には、一年以上のタイムラグが生じてしまう。

 この様なことが、結局、国営企業や公営企業の足かせになっているのである。国営企業や公営企業というのは、国家的事業を国家や国家に準ずる公共機関が成し遂げられるかの試金石である。仮に、それが公共機関では、限界があるとしたら行政機関そのものの存在意義がなくなる。国営か、民間かと騒ぐ以前に国家は、国家としての存在意義を問われていることを忘れるべきではない。公的機関が不効率でありながら、巨大だという事になれば、更に、財政が巨額の赤字を垂れ流し続ければ、国家機関そのものの否定に繋がってしまう。それが社会主義国の末路を見れば歴然としている。問題は、組織効率、生産性の問題であって、イデオロギーの問題ではない。

 民間企業にも社会的責任はある。と言うよりも、民間企業は、社会的存在なのである。現在、収益の理論や資本の理論に民間企業は支配されているが、本来、雇用を創出し、更に、家計に所得を供給し、また、国家、政府に納税という形で資金を供給する役割がある。また、そこに働く者に仕事として自己実現の場を提供することも大切な機能である。
 民間企業は、共同体なのである。よく、資本の論理として、百人の労働者で一億円の利益を上げる事の方が、一万人で一億円の利益を上げる方が効率がよく、経済目的に沿っているという事を主張する者がいるが、とんでもない錯覚である。一万人で一億円の利益を上げる方が雇用や分配の観点から見て経済効率が良いのである。つまり、経済とは、利益を上げる事を意味するのではなく。労働と分配、生産と消費を意味するからである。だからこそ、経済の重要な指標として総所得、総生産、総支出が取り上げられるのである。その意味では、一万人の雇用を創出しながら、一億円の利益に抑えたというのは、所得の面からも分配の面から見ても効率的なのである。百人で一億円稼ぐというのは、生産的に見て無駄が多いのである。ただ、利益から分配を受ける資本市場から見て効率的だというのに過ぎない。
 民間企業の本来の目的は、雇用の創出と確保、財の生産、資金の環流と所得の分配にある事を忘れてはならない。また、そこから派生的に生じるのが環境の保全とエネルギーの省略化である。いかに少ない資源で無駄なく生産するかが、企業本来の使命である。その意味で、現在の企業の在り方を歪めているのは、大量生産・大量消費に基づく市場の在り方と収益のみを追い求めようとする資本の論理である。


参考文献
「経済論争は、甦る」竹森俊平著 日経ビジネス人文庫


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