今、規制緩和が大流行である。規制を緩和しすぎた弊害が目立ちはじめて、一頃よりは、規制緩和のかけ声は小さくなってきた。しかし、それでも市場原理主義者達の力が衰えたわけではない。何が何でも規制緩和であり、その次に民営化である。民営化も、郵政民営化で一服をついた観があるが、それでも、国営より民営という流れは止められない。

 注意しなければならないのは、国営と国有とは違うと言う事である。国有化しても、経営は、民間人が行うこともあるし、また、全ての経営を国家が掌握して居るとも限らない。国営と言っても全ての経営権を掌握しているとは限らない。
 民営化の流れが強くなってきた、一方の当事者、それも、民営化を推進しているはずの金融財政の責任者が、金融機関の国有化を推進した。確かに、国営と、国有は違う。しかし、国営よりも国有の方がより強い権限を持ちうるのである。民営化というかけ声がいかに欺瞞に満ちているかの証拠である。国営か、民営か、国有か、民有かの問題より実体はどうなっているのか、また、どの様な体制が適切なのかを見極めることの方が重要なのである。

 規制緩和というのは政策上の選択肢の一つに過ぎない。絶対的な法則でも普遍的真理でもない。規制の緩和というのは、本来、相対的な施策であり、ある一定方向の規制緩和は、反対方向の規制の強化に繋がることすらありうるのである。

 本来は、民営が良いか、国営が良いかの二者択一ではなく。それぞれの利点を生かした混合市場が良いのである。何でも単一化するのは、極端から、極端に走ることであり、弊害も大きい。

 混合市場の好例が教育である。教育を混合市場にしておくには理由がある。第一、全てを国営にするのならば、思想的統一を計らなければならない。しかも、その思想の中には、宗教的統一も含まれるのである。
 選択の余地や自由の入り込む余地はほとんどなくなる。かといって全てを民営化してしまったら、今度は統制が採れなくなる。それぞれが勝手に教育してしまったら、社会としての整合性は失われるであろう。どこかで統一性も計らなければならない。
 つまり、自由と平等の制度的均衡が、混合市場の形態なのである。それを闇雲に、全てを国営化してしまえ、かと思えば、国営企業がうまくいかないからと言って全てを民営化してしまえというのは、野蛮な議論である。むしろ、国営企業でうまくいかなくて、なぜ、民営化するとうまくいくようになるのか。その原因の方が問題なのである。

 第一にいわれるのが、競争の原理が働かないという事である。しかし、これはおかしい。競争の原理が働かないのではなく、競争の原理が働かないようにしているだけである。競争の原理が働かないようにして競争の原理が働かないというのは、おかしな話である。大体、民営企業に当然のように要求する利益と経営責任を国営、公営企業がまったく負っていないという事が問題なのである。
 民間企業を営利団体として、国営企業を非営利団体としていることがその証左である。非営利団体だから許されて、営利団体は許されないというのでは、最初から公平さに欠けるのである。ただ、公営企業や国営事業は、営利性が乏しいので何等かの援助や規制が必要だというのならば解る。しかし、最初から競争をしてはならないというのでは、戦うなといって格闘技をさせるようなものである。

 バスの赤字路線はなぜ存在するのか。赤字路線は、採算性がないから経済的ではないというのか。それならば、経済とは何なのか。経済とは、本来、人々の生活の利便性を計ることに目的がある。収益は、一定の尺度である。収益が上がらなければ、一定の条件を付けて収益が上がるようにすべきなのである。公益事業とは、その様なものである。

 この事は、民営企業の経営を圧迫してはならないと言う圧力にもよる。つまり、二重三重に競争力を削いでいるのである。

 第二にいえば、営利性に関わる問題であるが、公共事業は、利益を追求しなくても良い。ないし、利益を追求してはならないという認識である。利益を追求する必要がないのだから、経営者は、利益に対して責任を負う必要が最初からない。それで赤字にならない方がおかしい。利益を上げるどころか、予算を使い切らなければならないのであるから、始めから、採算性など度外視しているのである。儲ける意図がないのである。むしろ儲けをあげることは罪悪なのである。それで財政が赤字だと騒いでもお門違いである。赤字に成るべくして成ったに過ぎないのである。
 利益を目的としていない以上、費用対効果という意識は生まれない。効果だけでが求められる。つまり、効果から費用を差し引くという概念がないのである。効果は効果、費用は費用で関連性がなくなる。だから、効果、即ち、必要性だけが強調され、財政負担が問題となると、費用だけが問題とされるという構図が最初から出来上がっているのである。
 最初から採算性を度外視しておきながら、採算が悪いというのは、お門違いである。その前に、採算性を度外視している体質、即ち、利益が悪い、商人は悪徳だという、御上意識を捨て目法が先決である。御上意識を捨てずに民活だ、民営化だというのは、権力志向の現れに過ぎない。

 費用対効果が測定できなければ、評価と分配に労働の成果を結びつけることができなくなる。必然的に実績と責任との関連性が損なわれ、無責任体制、事なかれ主義が横行する事になる。やってもやらなくても同じなのでは、働かなくなるのが当然である。逆に言えば、総花主義で、平均的であることが要求される。やりすぎる事は同僚にとって迷惑な事になる。日和見主義に徹して、余計なことをしない方が得なのである。決められた事を決められたようにこなすこと、無事に勤め上げる事が、美徳となるのである。下手な責任感や使命感で目立つ行動をする事は、危険な行為として排除される。そうなると、余計なことをして失敗をすることを怖れるようになる。これらは、組織の宿痾となり、組織力を低下させる。

 第三に、受益者を特定し得ないという点である。受益者を特定しえないと言うより、しないと言うことである。
 受益者、即ち、顧客を想定しないから、受益者にとっての利便性やサービスという観点が最初から欠如している。必然的に顧客の意志や嗜好は無視され、不便で、不親切なものになる。自分達の思想を相手に押し付けることによってデザインや機能性が無視される場合も多くある。そうなると、元々、競争力なんて持ちようがないのである。要するに、国営、公営事業は、最初から競争を想定していないのである。競争どころか、受益者、即ち、顧客の存在すら想定していないのである。殿様商売と言われる所以である。

 第四に、公営企業、公共事業と民間企業とでは、ルールが違うというか、会計の仕組みが違うと言う事である。年間予算をベースにして、現金主義に基づく公営企業は、必然的に、意思決定と、執行との間にタイムラグが入り込む。と言うよりも、経営に時間の観念が欠落していることになる。必然的に負債や償却の概念も民間企業と異質なものになる。これでは、共通の土俵の上で勝負をすることはできない。即応体制が敷けないのである。

 公会計制度が確立されないと時間の概念が、負債の概念に、単発的には織り込まれても、体系的に取り込まれない。それが財政の問題を複雑にしているのである。

 なぜ、国営事業は、競争しなくてもよくて、民間は競争しなければならないのか。国営企業、公営事業は、倒産しても責任を問われることはないのか。この辺を改めない限り、第三セクターのような仕組みを導入しても意味がない。かといって民営化、民営化というのは、公営企業本来の意義を見落としているのである。採算性がないのではなく。元々民間企業では、採算性が採りにくい事業や長期に資金が寝てしまうような事業を公営企業に委ねているのである。そこに公営企業の存在価値がある。問題なのは、民間企業と公営企業に働く原理が違うことなのである。問題点を履き違えないで、核心をつけば、充分、国営企業の活躍する余地はあるのである。
 原理を変えるのではなく、前提を変えるべきなのである。

 大体、現在の民間と公共機関との関係では、民間と公共機関とは、対等な関係に立ちうることは不可能である。民間と、公共機関との関係は、例えば、羊と羊飼いほどの差が力関係の上にあるのである。
 仮に、公権力が強権力を発動すれば、民間企業は太刀打ちできない。金融再編の時に、金融機関に対し、金融庁が発動した権力など好例である。また、税務当局と民間企業との争いも同様である。こういう関係において権利を争えば結果は明らかである。
 しかし、対等の立場で競争をすれば、必ずしも民間企業が不利だとは言いけれない。民間と公共機関の差は、主として強制力の差である。問題なのは、対等な立場に立ちえないという事なのである。

 財政は、赤字であることよりも、赤字を生み出している在り方の方が問題なのである。市場経済での経済的評価は、一定の枠組みの中での相対的評価である。それに対し、財政における経済的評価は、絶対的評価である。
 経済の源となり活力を生み出すのは、格差である。その格差は、絶対的な格差ではなく。相対的な格差である。故に、絶対的な基準で人の評価をしても経済的効果はないのである。経済的評価は、一つの全体と部分からなる相対的な評価でなければならない。全体とは、総生産であり、総所得であり、総支出である。この全体と関連付けられないから財政は機能せず、健全化できないのである。

 社会の活動力の源は、格差である。その格差の幅が極端に大きすぎたり、固定的であったり、意味不明なものだとその効力を発揮できないのである。
 どんなに努力しても、ある一定以上は望めないとしたら、望むことそのものをしなくなり、活力を失う。また、一度、序列が定まるとそれが固定してしまい、実績や結果に対する評価がなされなくなれば、つまり、やってもやらなくても評価が同じならば、人はやる気をなくして活力が削がれる。根拠のない理由で差が付けられれば、人は納得ができず、活力をなくす。
 だからといって、格差が悪いと、全てを均一にしてしまうと、社会の活動力は失われるのは、共産主義国によって実証された。もっとも、何もかも、均一、同等にせよと言う事を社会主義が意味しているわけではない。故に、現行の社会主義国の失敗が、即、社会主義そのものの失敗だと結論付けるのは短絡的である。



参考文献
「宗教vs.国家」工藤庸子著 講談社現代新書


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