体制というと、すぐに思想に結びつけて考えがちであるが、本来、体制は、体制である。主義主張とは、本質的には関係ない。むしろ切り離して考えるべきである。主義主張と切り離して考えることができないと、考え方そのものが硬直的となり、体制も思想も身動きができなくなる危険性がある。統制的な体制と独裁主義や民主主義とは、関係ない。独裁体制だから、統制的であるとか、民主主義だから統制的であってはならないというわけではない。実際、戦前の軍国主義は、統制的だったから問題だというのではなく。統制が採れずに、軍部の暴走をまねいたのである。また、体制を善悪の価値観に結びつけて考えるのも危険である。体制で重要なのは機能である。国家や組織が置かれている状況や環境によって体制を選択できるかどうかが、又は、変更できるかどうかが、重要なのであり。その場合も、その環境や状況に適合しうるか否かが問題なのである。その場合、硬直的な発想しかできないことの方が障害になるのである。
 どの様な体制にも長所欠点はある。要は、その欠点をどう補い、抑止するかである。そして、体制を制御する為の仕組みが肝心なのである。

 我々は、世界を思想的に分けて考えがちであるが、現実には、実際的、実務的な差の方が重大である場合が多い。特に、今日、欧米を中心とした世界には、二つの大きな流れがある。一つは、英米を中心とした世界の流れと大陸、即ち、ドイツ、フランスといったユーラシア大陸を中軸とした流れである。具体的に言うと、英米は、第一に、判例法、慣習法、即ち、コモン・ローを基盤とした世界であるのに対し、大陸は、実定法を基盤とした世界だと言う事。この事は、第二に、英米は、帰納法的世界観を基礎とし、大陸は、演繹的世界観を基礎としていることを意味する。また、第三に、英米は、普遍主義的なのに対し、大陸は、単一主義的であり、第四に、英米は、自由主義的傾向が強く。大陸は、平等主義的傾向が強い。英米は、必然的に自由貿易主義になり、大陸は、保護貿易主義的になる傾向がある。第五に、英米は、資本市場を土台として発展してきたのに対し、大陸は、金融市場を土台としている。つまり、株主、投資家保護か、債権者保護かの差になって現れる。結果的に、第六に、英米は、公開的であるのに対して、大陸は、閉鎖的になる。会計的に言うと、第七に、英米は、連結決算を重んじ、大陸は、単独決算を重んじる。同じく会計的に言うと第八に、英米は、時価会計志向であり、キャッシュフローを重視するのに対し、大陸は、取得原価主義であり、損益計算を重視する。また、第九に、英米は、会計と税の基準を切り離して捉え、会計や会計のプロに、法のことは、法のプロ(専門家)に委ねるのが基本であるが、大陸は、ドイツの「基準法」の例に見られるように、税法と会計基準を一体に考え、商法と税法、会計制度の整合性を重んじる。また、日本は、確定決算主義を採り、会計原則は、大陸型である。第十に、英米は、国際主義的であり、大陸は、国家主義的である。(「会計制度の経済学」山本昌弘著 日本評論社)
 今日、世界の潮流は、グローバルスタンダード、国際化、株主重視、資本市場重視であるから、明らかに、英米の流儀が優勢である。しかし、必ずしも英米のやり方が絶対的ではなく、結局折衷的な形で統合が進められている。我が国は、伝統的に法も会計も大陸型を範にして発展してきた。それが戦後は、アメリカ型の制度を接ぎ木するような形になり、制度自体に歪みが生じている。それが、1991年以降、バブル崩壊後、会計ビックバンのような形で押し寄せ、混乱に拍車をかけた。先ず、どの様な制度もその基礎となる思想、ビジョンを明らかにした上で、状況、折りを見て、段階的に導入しなければならない。我が国は、どの様な社会体制を採るのか、その点に関する議論が充分になされないままに導入された経緯がある。

 金融市場を基盤とした日本の産業は、必然的にメーンバンク制のような金融資本を中核とした産業構造となった。それに対し、英米流の資本市場に依拠した考え方では、株主資本主義とまでいわれほど株主を重視せざるを得ない。

 また、資本市場を基盤とした場合、どうしても短期的・名目的な成果を期待されるようになる。その為に、長期的な視点、即ち、長期的な観点からの内部留保や投資が行いにくくなる。また、資本取引による事業の拡大や縮小と言った産業改革が頻繁に行われ、実体経済よりも名目的な経済が重視されるきらいが生じる。会計制度の変更が企業の投資活動や雇用に実質的に影響を与えている好例である。制度のような市場の内部構造、基盤構造が経済現象を左右すると考えるのが典型的、構造主義経済学的発想である。

 大陸型の制度は、保守的、閉鎖的で狭い市場の中では有効であるが、国際化がすすみ開放的で革新的、変動的市場においては、限界がある。つまり、産業がまだ幼稚で成長発展段階においては、国家、官僚機関による保護育成が有効であるのに対し、成熟期になるとかえって、それが、足枷(あしかせ)になってしまうと言う性格がある。特に、税法と会計制度が連動していることにより、逆基準性、つまり、会計基準が税法によって拘束されるという現象も現れる。
 だからといって逆に、国際化を急ぎすぎると、国内の産業が育ちきれないうちに、国内の産業基盤が整う前に、激しい国際競争に曝されることになる。産業の育成は、段階的、構造的なのである。
 現実の経済は、思想と言った観念的なものよりも実務や制度、体制に左右される場合の方が多い。

 体制とは、いわば機械、自動車のようなものである。機械そのものに思想があるわけではない。機械は機構である。思想は、その機械の設計思想にある。設計思想は、真理や法則のようなものではない。観念的なものである。だから、所謂(いわゆる)、価値基準のようなもの、普遍的真理や絶対的原則の類(たぐい)ではない。しかもその設計思想に使用目的が含まれてはじめて思想となる。つまり、同じ車でも、戦闘車や戦車なのか、それとも普通トラックなのか乗用車なのか、レーシングカーなのかと言った何に使われるかという使用目的に、思想は盛り込まれる。それでもただ、戦闘車と言っても武装していなければ、普通乗用車トラックと変わりない。体制に是非善悪を求めるのは、間違いである。体制、機構は、合目的的なものであり、目的に対して適合したいるか、目的化から要求される機能を発揮できるかが、問題なのである。

 どの様な体制も腐敗・堕落する要素を内包している。腐敗堕落するのは、中央集権体制、独裁体制だけではない。民主主義体制や共和主義体制も例外ではない。ただ、腐敗、堕落の要素と性格、有り様が違うだけである。表面に現れた現象だけで是非を論じるのは愚かである。要は、どの様に腐敗、堕落を抑止するかの問題なのである。

 体制には、政治的体制と経済的体制がある。政治的体制と経済的体制は、別体系である。また、組み合わせも本来一様ではなく、多様である。ただ、その構造的骨格の類型は、近似している。例えば、集権的であるか、分権的であるかという具合である。また、組み合わせも政治体制が集権的で、経済体制が分権的だという在り方も可能である。ただ、総じて、同じ形の体制を採る場合の方が、社会としての整合性をとりやすいと言うことは言える。ただ、体制は、体制である。機関の仕組みに過ぎない。

 体制には、集権的に体制と分権的な体制がある。集権的な体制の極致が中央集権体制であり、分権的体制の極致が、無政府主義的体制である。しかし、集権的か分権的かの是非は、思想的な問題というよりも機能的問題である。むろん、極端な意見になるし思想が入り込まざるを得なくなるが、突き詰めてみると、その前提は、一つの体制を絶対的なものとするか、否かの問題に還元されるのである。
 体制は、絶対的なものではない。絶対的なものになり得ない。それは、変化に原因がある。全ての事象は、時間軸が加われば、絶対的なものにはなり得ない。諸行無常である。体制を取り囲む環境や状況が変われば、体制自体も変化する。また、変化を前提とせざるを得ない。つまり、体制は、相対的なものである。要は、その時々に、状況、状況に併せて体制が適合しうるかが、また、体制を変える事ができるかが重要なのである。つまり、構造的に体制を選択させる仕組みが予め組み込まれているかの問題である。それを組み込んであるのが、共和主義体制である。

 体制には、統制的体制と、非統制的体制とがある。また、体制には、公的な体制と、私的体制がある。独占、独裁的体制と寡占・寡頭的体制、多頭・民主的体制がある。

 統制的体制であるか、否かは、経済体制においては、市場、自由に重きを置くか、計画、統制に重きを置くかとして現れてくる。
 市場や自由に重きを置く体制とは、需給の関係によって生産の消費の量を調整しようと言う思想であり、計画や統制を重視するというのは、組織的分配よるという思想であるが、これも絶対的なものでなく、通常は、二つの体制を混合した体制が一般的なのである。要するに、思想的な問題というより、程度の問題である。この問題は、基本的には、労働と分配の問題に要約できる。

 体制内において分配の機構と労働の機構は、必ずしも一体ではない。体制の問題は、根本的には、分配の問題に要約できる。そして、労働と分配をどう結びつけるかが、鍵なのである。

 また、分配には、傾向的には、自由と平等がある。そして、それが、今日、左翼、右翼の別に発展したのである。左翼、右翼にはこれと言った定義はない。せいぜい言って革新的であるか、守旧的であるかの差だが、それとても絶対的ではない。ただ、革新的勢力が社会的、共産的、色彩を強めたことで、今日、左翼は、統制的、全体主義的、独裁的、愛国主義的であるのに対し、右翼は、自由主義的、無政府主義的、分権主義的傾向で分類されるのが、国際的な流れである。しかし、我が国では、右翼的というと、民族主義的、超国家主義、統制主義的な者も含まれ、また、左翼には、無政府主義的なものが含まれるので一概に分類できない。ただ、ここで注意すべきは、平等主義的傾向と自由主義的傾向があり、その均衡の上に現代の国家が成り立っているという事実を忘れてはならないことである。

 自由を重視すれば、必然的に、秩序や統一性、規律は軽視され無軌道に陥りやすくなる。逆に平等を重視すれば、抑制的で統制的になり、抑圧的になりやすい。要は、それを制度的に均衡させることなのである。制度的に均衡させることによっていずれかの体制に偏ったり、捕らわれないようにすることなのである。それが共和主義の原則である。だから、統制的な共和主義も民主主義的な共和主義もあるのである。ところが日本人は、革新的であるかないかを反体制的であるか否かで判断する傾向が、戦後、出てきた。それが間違いの下である。その為に、自由と平等が一緒くたになり、革新も保守も自由と平等を標榜するようになった。尚かつ、平等の標榜すべき勢力が限りなく自由主義勢力に擦り寄ってしまったのである。結果、自由でもなく、平等でもないどっちつかずの体制が出来上がってしまった。片一方で大きな政府、増税を志向しながら、片一方で規制緩和を志向するというちぐはぐさが見られる。肝心なのは、自由と平等の制度的均衡である。これは、国民の権利にも基づく問題なのである。

 体制の問題で重要な要素は、所有権の問題であり、これは、公と私の問題にも繋がる。言い換えると、公と私の問題で、鍵を握るのは、所有権の問題である。
 体制的にいえば、私的所有権の一切を認めないのか、一部を認めるのか。また、生産手段に限定して私的所有権を認めるのか。その場合、生産手段をどの様に定義するのかである。

 この事は、経営主体は、誰のものか、何処にあるのかの問題にも行き着く。企業は誰のものかという問題に発展するのである。そして、それによって企業の有り様も変わってくる。また、体制の変わるのである。

 私的関係の基盤は、血縁、世襲と発展し、公的関係の基盤は、共同体、公選となる。つまり、私と公の違いは、どの様な関係の共同体に基盤を置くかの違いなのである。血縁関係に基盤を置けば私的なものとなり、社会的利害関係に基盤おけば公的なものとなるのである。

 従来の経営主体は、私的なものであった。それを公的なものに置き換えようとした変革の歴史が今日の産業の歴史なのである。その過程で、資本家に委ねるべきだという考えから資本主義が発展し、国家の統制に帰すべきだという考えから共産主義が発展した。

 しかし、問題なのは、そこには、企業を実質的に構成する当事者、主体は誰かという視点が欠けている事である。だからこそ、労働と分配の問題が結びつかない、言い換えると、労働の成果と分配とが結びつかないのである。
 経営主体は、労働主体から成らなくてはならない。労働主体と経営主体が結びつくから、経営の成果が、分配に結びつくのである。つまり、資本家も債権者も国家も経営主体の外になる主体なのである。内なる主体が機能せずに外の主体に主体性が奪われれば、素魔境動態の共同体としてのアイデンティティ、同一性は保たれないのである。経営主体が分裂しているが故に、統制が保たれないのである。それでは継続性を維持することは困難である。労働主体と経営主体が一体になってこそはじめて、企業の主体性は保たれ、社会的責任が果たされるのである。

 重要なのは、経営主体は、運命共同体だと言う事である。経営権は、経営主体内部において継承されるべきものなのである。

 市場の原理に委(まか)せきれば、経済の規律が失われる。計画・統制に委(まか)せれば、経済の自立がなくなる。結局、市場か、計画かではなく、状況や変化に併せて市場や体制の構造を変化、適合させる体制、構造を仕組みとしてもっているかなのである。この様に、経済の基盤の構造を重視する思想が構造主義なのである。

 体制の問題は、国有か、私有か、あるいは、国営か、民営かの二者択一的議論に収斂しがちであるが、しかし、本来は二者択一的な問題ではない。特に、民営と言った場合、資本の論理に基づく民営でしかない。現在においても、過去においてもどちらにも属さない組織や機関は、存在したし、存在もしている。その好例が、宗教団体である。NPOのような機関である。しかし、どちらも収益や利益追求を禁じられている。なぜ、収益と公共の福利は両立しないのか。収益を搾取としてしか採られ得られない狭い視野が問題なのである。
 社会主義体制と言う選択肢は、遺棄されたものではない。それは、社会というものをどの様に定義するかによる。その定義も要件定義でなければならない。社会は現実なのである。社会は、共同体である。社会の有り様一つで社会主義という考え方も変わってくる。地域社会を自立した一つの共同体と見立てることも可能である。また、家族や家という概念も多岐にわたる。宗教の信徒集団もまた多種多様である。それを一概に否定しさることはできない。全体との折り合いが問題なのである。
 国家は、国民が、どの様な体制を選択するのか、そこから始めなければならない。体制を自らの意志で選び、自らの手で構築し得ない限り、真の独立も、主権も確立し得ないのである。政治体制も経済体制も、体制とは、国家国民の根幹に関わる問題なのである。




参考文献
「日本とフランス二つの民主主義」薬師院仁志著 光文社新書
「右翼と左翼」浅羽道明著 幻冬舎新書


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