規制緩和が大流行である。規制緩和、規制緩和の大合唱である。こうなると日本人の悪い癖で、全て右へなれへ、規制緩和に反対しようものならば袋叩きにあう。規制を緩和すれば何でもうまくいく。極端な話規制を全部撤廃していまえという勢いである。規制が諸悪の根源であり、規制がなくなれば万事うまくいく。本当だろうか。大体、そう言う議論において、規制の意味や規制の目的、規制がなぜ作られたのかの議論を聞いたことがない。とにかく、市場原理主義者は、規制が悪いの一点張りである。
 ある意味で、市場は、規制で成り立っている。規制があるから市場があるとも言える。また、規制によって市場は成立しているとも言える。なぜならば、規制は、言い換えればルールである。スポーツは、ルールがあるから、また、ルールによって成立していると言えるように、市場は規制によって成り立っているのである。ルールをなくせば別のルールができる。同じように、規制をなくせば違う規制が生まれる。なぜならば、ルールがなければスポーツが成り立たないように、規制がなければ市場取引は成り立たないからである。規制そのものが、悪いのではなく。規制の有り様が悪いのである。それを全ての悪因を規制に帰すのは、お門違いである。規制を闇雲に緩和すれば、市場は統制を失い。無秩序に陥る。
 独占を禁止しているのも規制である。規制を緩和すれば独占、寡占は進行する。規制を緩和したら、瞬く間のうちに金融も、石油業界も寡占、独占体制に陥った。これまで、寡占、独占を規制してきた意味は何だったのだろうか。先ず、規制の意義、大本の考え方をこそ検証すべきなのである。

 商法は、経済や産業の大枠を規定すると共に、取引の在り方を規制する。

 税法を除いた経済的な意味での法的事項とは、一つは、所有権に関わる事項である。窃盗、強盗という盗みは、好例である。また、器物破損といった破壊行為も違法行為である。その他に、違法行為ではないが、物品の売買といった所有権の移転も法的行為である。
 所有権が確立されていない世界では、基本的に盗みは成立しない。盗むという概念そのものが存在しないからである。

 次に考えられるのは、虚偽、即ち、嘘をつくことである。詐欺、ペテンと言った人を騙(だま)す行為がこれに該当する。これは、善悪の問題と言うより、真偽の問題であり、偽である事、騙されたことを立証する必要がある。その場合、動機や意図が重要になる。なぜならば、価値観が主観的な判断に依存しているからである。

 三つめが、違反行為である。法律違反、契約違反、約束違反である。違反行為とは、必要な事項が予め決められていることが前提となる。つまり、何が予め決められていたか、また、どの様な手続によって決められていたかを立証する必要がある。

 約束違反、契約違反、法律違反の順に拘束力は強くなる。経済法は、契約思想に基づいている。故に、契約の概念から派生する属性による性格を濃厚に持っている。例えば、手続や与信問題である。契約は、手続や与信がなければ成り立たない。

 これらの事項は、近代経済が、所有権、信用、契約の三つの要素の上に築かれていることを示している。

 また、経済における価値基準のうち、所有権に関わる事項は、善悪に基づいてなされ。与信に関する事項と契約に関わる事項は、真偽に基づいていることを意味する。つまり、価値基準が通常の倫理観とは異質である部分を含んでいるのである。この点を理解せずに、単純に経済上の問題を道徳によって割り切ろうとすると割り切れない場合が生じる。

 債権者主義、債務者主義が好例である。債権者主義か、債務者主義かは、リスクを債権者、債務者のどちらが負担するかの問題である。即ち、債権者がリスク負担をすべきであるという考え方が債権者主義であり、逆に、債務者がリスク負担をすべきだというのが債務者主義である。ローマ法では、「利益の損するところに損失も帰する」と言う考え方から債権者主義を採っている。それに対し、日本の民法は、原則として債務者主義である。(「S式1問1答法律用語問題集」柴田孝之著 自由国民社)
 借金をする時、債権者が担保をとったら、借金の範囲は、借金の額面を指すのか、それとも担保の範囲なのかによって、債権者主義と債務者主義が別れる。これは、土地を例にとるとよくわかる。ある土地を担保に借金をしたが、バブル崩壊の時のように、地価が下落したために、担保価値が借金の額面を大幅に下回る事態が生じたとする。その場合、どちらがその損害を被るのかで、債権者は、担保を設定したのであるから、それ以上の損害を債務者は、被る必要がないというのが債権者主義であり、額面通りの返済をすべきであり、担保となる土地代金を返済に充てたとしても足りない部分は、借金として残るというのが、土地の債権担保に関しては、債務者主義である。日本の民法は、原則として債務者主義である。原則としてと言うのは、一部債権者主義を採る場合がある。例えば、質屋の質権に関しては、借金が返済されない場合、質草を流すことで、債権は完了する。すなわち、債権者がリスクを負っているので債権者主義である。

 この事は、日本の不良債権処理に色濃く影を落とした。つまり、担保価値が下落し続ける限り、不良債権が増え続け、新規投資が抑制されたのである。この事は、景気浮揚の阻害要因の一つとなった。

 法は、契約である。法によって貨幣経済の裏付けられている。約束や所有権が保証され信用取引が成立する。これは、法が、経済活動の枠組みを設定し、経済行為を規制する事を現している。
 契約は、信用によって成り立っている。契約で予(あらかじ)め定められている事項が、予め決められたとおりに履行するという保証を与えるのが、与信であり。その与信を成立させているのが経済法である。

 貨幣経済そのものが貨幣に対する信用によって成り立っている。不兌換紙幣に依存している今日の経済は、国家、政府の信用によって成り立っている。この信認が揺らげば、たちまちにして貨幣価値は下落する。

 債務、債権の履行は、信用の上に成り立っている。売り掛けや買い掛け、手形、小切手も与信によって成り立っている。その信用の根拠は、国家権力によって保証されているのである。それが国家、経済法による与信である。この様な商取引上における決め事は、経済の骨格を形成する。また、届け出や登録、許認可は、産業の大枠を形作る。この様に、産業の大枠、骨格を直接的、間接的に決定付ける機能を経済法は持っている。

 信用がなければ現代の経済取引は一日も成り立たない。その信用を裏付けている、つまり、与信を与えているのも、経済法なのである。

 契約というのは、山本七平によれば、神との契約を仲立ちにして成り立つ概念だと言う事になる。(「聖書の常識」山本七平著 文藝春秋)一神教的な思想であり、相互に契約相手は信じられなくても相手が、神に誓約すれば、神との契約は違えないだろうという信用に基づいて成立する。つまり、神に依る与信である。本来、契約は、当人同士が相手を信頼して交わすものではなく。神掛けて、即ち、神を仲立ちにして信頼し会う行為なのである。大体、相手が信用できるのならば、契約など必要としない。相手が信用できないから契約をするのである。故に、神を信じない者とは、かつては、彼等は、契約を結ばなかった。この点に関して、日本人は、なかなか理解できない。だから契約がいい加減、曖昧なものになる。また、無神論者であることを広言して憚(はばか)らない。しかし、国際的には、無神論者は信用されないのである。反対に、キリスト教とはイスラム教徒を神を介することで信用できる。お互いの信仰心を信用するからであり、相手を信じているわけではない。この関係は、契約の概念に色濃く反映される。元来信用しない者同士が契約を結ぶのであるから、当人同士に信義はない。細目まで決めてかからないと納得しないのである。それが契約である。契約は、信義の下で行われ、何か支障が生じたら、その後、細かいことは、話し合って決めればいいという発想は、契約の概念には入り込まないのである。何か問題が起こってからでは遅い、だから、予め決めておくというのが契約の思想である。そして、それが経済法の根本思想でもある。そして、神ならぬ身の国家は、国家の持つ権力、暴力によって契約を守らせるのである。故に、経済法は、強権を持って施行される。だから、法の正当性が問題となり、その法の正当性を裏付けるのが手続なのである。
 神を仲立ちにした与信。それを、今日では、国家が神の代行しているのである。

 契約から生まれる権利とその保証が経済法の主な役目になる。財の取引や借金の保証、また、労働契約に基づく賃金の支払いは、全て、暗黙の信頼関係の上に成り立っているが、その信用の根拠は、法治国家である我が国では、神ではなく国家権力である。我々は、国家権力を否定的にとらえているジャーナリストを見受けることがあるが、しかし、我々の生活は、国家権力に対する信頼の上に成り立っていることを忘れてはならない。国家権力をただ否定するのではなく。信用にたる国家権力を維持するように努めることこそが肝要なのである。

 ただ、この場合、法は、善悪とは無縁である。法がどの様な思想に基づいてどの様な手続によって制定されたかが、基準となる。つまり、経済犯罪は、経済法によって作られるという側面を持つのである。この事は、近代経済は、高度に法的な仕組みであることを意味している。一口に自由主義経済と言うが、その在り方は、その国の法によってまったく違ったものになる。
 国際化が進んだ現在、その整合性が問われることになってきたのである。

 善悪と無縁だから、経済法によって経済犯罪は作られるからといって経済法が不必要だといっているわけではない。むしろ、現代人の生活は、経済法によって支配されており、多くの権利と義務が、経済法によって作り出されているという事を明らかにしたいだけなのである。

 経済法をあたかも所与の法則のように捉え、その正当性を検証しなくなると、経済法は、生活の隅々まで拘束するようになる。気がつかないうちに自分達の権利が侵される結果にもなりかねないのである。逆に言えば、経済法こそ自分達の意志で制定すべき法であり、自分達の生活の利便を計って、随時、改正すべき法なのである。だからこそ、善悪と切り離して考えるべきであり、倫理観のような絶対性が強い法と違って相対的な性格の強い法なのである。

 以上の点から経済法は、極めて人為的、社会的な法である。相対的な法であり、社会の成員が所定の手続によって制定、改廃する性格の法である。この事は、経済法というのは、時代や環境によって制定、改廃すべき法なのである。人々の取り決めを基礎とした法であり、自然法則のような法とは、性格を異にする法なのである。
 法を運営するに当たっての規制は、更に相対的なものである。規制緩和を絶対的に考える市場原理主義者が跋扈(ばっこ)しているが、規制緩和や民営化は、絶対的な指針にはなり得ない。一定の前提条件や局面における一方策に過ぎない。前提条件や環境を評価しないで、あたかも、真理が如き主張するのは滑稽ですらある。ただ、それが国の政策として採用されなければ、笑い話ですむが、一度、それが国の政策として採用されれば、条件によっては災害となる。先ず、規制を緩和するならば、その規制の目的と経緯を確認し、それが初期の目的を達成しているかどうか、また、環境の変化によって初期の目的を達成し得なくなっているかを確認の上、それをよろしく改廃すべきなのである。

 この性格は、所有についても言える。所有は、契約に基づく権利である。特に、私的所有権の是非は、この契約の概念に基づいている。これは、神の契約に基づいて与えられた土地という概念にも繋がる。これは、神のみならず土地の所有者にも権利であると共に義務が生じる。自分の都合だけで所有権を放棄できないのである。この点を理解しないと土地争いの問題の根底は理解できない。もっといえば、神に権利も義務もないが、人間には、権利と同時に義務も生じるのである。神は、権利を与えただけなのである。しかし、神から権利を与えられた者は、義務も生じる。それが契約である。つまり、経済法の根本は、一種の信仰なのである。これは、経済法の性格に重大な影響を与えている。

 所有権には、私的所有権と公的所有権の二種類がある。このうち、私的所有権を認めるか否かが、重大な関心事となっている。基本的に共産主義や社会主義は、私的所有権を認めずに、公的所有権のみを前提としている。又は、生産手段の私的所有権を認めない。生産手段というのは、土地や設備、道具を指して言う。ただ、私的所有権を全て否定してしまうと、所有の概念そのものを否定する事に繋がる。公的所有権は、私的所有権が成立することによって派生する概念だからである。

 経済法は、人々の生活に密接に関わり、人々の利害を調整する機能を持つ法である。


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