企業は、経済の最小単位である。企業は、経済主体である。企業は、それ自体、経済的に自立した機関である。企業は、利益を目的とした機関である。企業は、継続を目的とした機関である。企業は、集団である。企業は、組織である。

 企業は、機関である。企業は、場でもある。又は、企業は場を有する機関である。
 企業は、消費する場であり、生産の機関である。企業は、労働の場であり、分配の機関である。企業は、供給機関である。
 そして、企業は、共同体である。企業は、運命共同体である。企業を構成する構成員は、多かれ、少なかれ企業と運命を共にしている。企業は、生活の場であり、生活の糧を得る場でもある。また、自己実現の場でもある。だからこそ、企業は、その企業に勤める人間にとって生きる場であり、生きてきた証でもあるのである。そのことの意味を理解しなければ、企業の存在意義を正しく理解することはできない。人間は、部品にはなれないのである。人間には、感情がある。その感情の根源は、家族であり、職場であり、国家なのである。

 それ故に、経営主体の大前提は、継続である。現在の企業は、継続することに意義がある。つまり、当座企業ではない。なぜならば、経営主体の中心的機能は、事業と、並びに、雇用であるからである。その事業と雇用によって経営主体は、社会における存在意義が与えられている。会計収益は、目安であり、尺度である。それ自体が、企業を評価する本質ではない。経営主体が潰れると、特に、その経営主体が産業や地域経済、企業手段の中核に位置しているとその影響、被害は甚大なものになる。つまり、企業の存在意義は、その企業がその国や地域、社会に果たしている役割によるのである。企業の目的は、生産性の向上でも、競争でもない。労働の場を提供し、継続的に雇用の安定させることである。

 企業は、機関である。即ち、構造体である。企業は、組織である。企業は、生産するための組織であり、分配の為の組織であり、供給するための組織である。つまり、生産のための制度、分配のための制度、供給のための制度を持っている。そして、組織としての基礎構造を持っている。

 企業は、消費の場でもある。即ち、生活空間でもある。企業は、労働の場である。即ち、自己実現の場でもある。これらの属性が、企業の性格を形成する。即ち、企業には、企業独自の文化がある。企業独自の目的がある。企業は、共同体の一種である。

 企業が生活の場であるという事は、企業は、経済的場である。企業は経済的に成立しなければならない。即ち、企業は、利益を上げる必要がある。つまり、収益と費用を均衡させる必要がある。

 企業は、労働の場である。即ち、仕事場である。故に、企業は、労働者に労働を提供する必要がある。つまり、雇用を創出しなければならない。労働の場は、自己実現の場である。労働は、経験や熟練が必要であり、この様な経験や熟練は、年齢に依存している。一定の年齢を過ぎると経験や熟練を高めることが困難になる。故に、経験や熟練度は、労働者にとって無形の資産、財産である。このような労働者の資産・財産を保証する意味でも企業は継続されなければならない。故に、企業は継続機関である。

 企業は、分配の機関である。故に、企業は、分配のための仕組みと基準を備えなければならない。つまり、企業は、評価機関でもある。分配は、主として貨幣によってなされる。故に、企業は、労働を評価制度によって貨幣価値に変換、換算する機関である。

 なぜ、民間企業において経営者は、経営責任を問われるのに、官公庁は、経営責任を問われないのか。民間企業の経営者は、会社を倒産させれば、社会的にも経済的にも抹殺される。資産財産を奪われ、命さえも失う者までいる。それに対し、官公庁の、公営事業の人間は、財政を破綻させても、事業を潰しても責任を問われることはない。国民から集めた税金を無駄遣いしても、痛痒とも感じない。それは、事業と個人の仕事とが結びついていないことに原因がある。つまり、労働と評価、即ち、分配とが結びついていないのである。

 同等主義的な社会からは、責任は生じない。責任は、その人その人の立場やその人その人に対する評価から派生する。立場や、評価は、位置付け、即ち、差によって成立しているのであるから、差を認めない社会では、責任感は育たない。責任がないという事は、その反作用である権限が生まれない。それ故に、同等的社会において組織を形成するのは、困難なことである。
 また、企業は、雇用を確保するために、継続しなければならない。なぜならば、雇用は、生活の原資を生み出す場を提供する事であり、また、供給する場を提供する事であり、自己実現の場を提供する事だからである。この様な場は、恒久的に維持されなければならない。 

 企業は、供給の機関である。故に、企業は、市場に製品を供給する必要がある。つまり、企業は、社会的機関である。企業は、社会性、即ち、公共性がなければならない。企業は、法的な機関である。企業は、社会的機関であるから、法によって作られ、法的に規制され、法的に保証された機関である。

 市場の量的拡大や組織の規模の拡大は、質的変化をもたらす。経営主体も市場が拡大し、組織が大きくなると質的な変化が起こる。その質的な変化に適応するためには、構造的な変化が必要になる。

 最近、産業のグローバル化が叫ばれている。経営主体のグローバル化というと多国籍業を指しているが、帰属する国家を持たず、国家に半ば寄生しているという意味では、多国籍と言うよりも無国籍化と言った方が妥当である。この様に、経営主体が無国籍化してくると経営主体の利益と国家の利益が、必ずしも一致するとは限らなくなる。企業は、企業独自の目的、規範によって行動するからである。この様に無国籍化した企業は、自らに規律を課さないと無軌道な行動に走ることになる。狭い池の中で鯨が動けば、それだけで、池の安寧は乱される。無国籍化した企業が利益のみを追求すれば、国際秩序を乱すことにもなりかねないのである。
 市場が国際化し、経営主体が巨大化してくるとアダム・スミスが、自らの利益ををそれぞれの経営主体が追求すれば、自ずと調和するという楽観的な考えは通用しなくなってくる。

 企業は、本来は、平和を好む。経済の安定には、平和な状態であることが欠かせないからである。しかし、利益を上げようと思えば、社会変動や戦争は好機である。平和を求めながら、争乱を利用する、そこに経営主体の矛盾がある。その矛盾を克服するためには、企業が、経営主体としての規律を確立する必要があるのである。だからこそ、経済がグローバル化すればするほど経営主体内面の規律が重要となるのである。
 
 企業は、共同体である。その証拠に、企業から配給される所得、すなわち、給与には、仕事の成果以外の要素によって決めている箇所が多くある。奨学金制度や慶弔見舞い、保養所といった福利厚生は、当然であるが、家族手当や住宅手当、通勤手当は、典型的な事例であるし、年金制度や社会保険と言った制度もしかりである。また、中には、学校や病院、劇場や音楽堂などを整備し、各種クラブ活動やボランティア活動を支援している企業すらある。また、社員教育、資格の取得も一種の社会教育である。こう考えると企業は、単なる機関ではなく。共同体である。かつては、家族主義的経営というのが主流であった。家族主義というのは、疑似家族を意味する。現実に住み込みのように寝起きを伴にする企業が当たり前であった時代もある。

 現代人は、コミュニティ、共同体としての集団、社会、組織を封建的として否定してきた。しかし、集団、社会、組織は、本質的に共同体なのである。運命共同体、生活共同体なのである。その性格を端的に表しているのが、生活給である。運命共同体の一員であるからこそ、それぞれに責任や権利が生じるのである。人間は、一人では生きていけない。企業は、最もその最先端にいる組織である。運命共同体であるからこそ、情が重要な要素となるのである。愛情や感情がなくなれば、組織や集団、社会は、存在意義すら失ってしまうのである。

 忘れてはならないのは、家族も、政府も、企業も経済主体というのは、本質的に人間集団だと言う事である。中でも、企業は、その性格を濃厚に持っているそう言う存在である。唯物主義も資本の論理もその視点が欠けている。運命共同体なのである。人々の生活があり、人生があるのである。家族を路頭に迷わせてはいけないということを以前は厳しく教え込まれてきた。当人のみならず、家族の生計がかかっていたのである。人間としての生活基盤、それをないがしろにしたら、経済主体は成り立たない。なぜならば、それが本来、経済主体の基本的働きであり、存在意義、目的だからである。
 つまり、企業を成立させている根本的要素は、縁であり、情である。人間性なのである。組合の指導者や資本家の多くは、家族的という繋がりを前近代的な考えとして頭から否定してきた。その結果が疎外である。縁というのは、ただ単なる人間関係を越えた人と人との繋がりである。経済的人間関係は、最も卑近な人間関係である。だからこそ最も生々しい現実なのである。つまらない事で人間は、争い、日常的な世界で生き、些細な事で悩み、たわいのない理由で死んでいく。それが人間なのである。冠婚葬祭、そこに、人間の真実が潜んでいる。
 困った時には、助け合い、仕事に関係のないことでも相談しあえる人間関係、それが大切なのである。それは、現代人の言う仕事を越えた人間同士の繋がりである。その繋がりや信頼関係がなくなり、ただ金銭的関係、利害関係しか残らなかったら、その組織は、人々を繋ぎ止めておく力をなくしてしまう。何よりも人間にとって大切なのは、自分は、必要とされているという思いであるてそれは、この世に人として生まれた存在意義でもある。その存在意義を与えるのも経済主体としての企業に求められる大事な使命なのである。目先の仕事を越えたところに本来の経済主体の存在意義があるのである。それを取り戻さない限り、真の発展はあり得ない。血の通った経済は築けないのである。企業とは、ある意味で生き物なのである。

 今日の金融機関や投資家は、会計的な利益のみを見て、事業やその経営主体が果たしている役割を評価しようとはしない。赤字や資金不足に落ちいている企業に対する対策を考える上で、本来、検討しなければならないのは、欠損や資金不足の原因である。その上で、その企業が果たしている役割と将来性である。そして、当該経営主体が、市場において正常に機能させることのできる環境、状況を構築し、維持する事が肝心なのである。つまり、どの様な市場状況が好ましいかの問題なのである。
 それが投資家や金融機関の政策は、姿勢は、ただ、収益が悪い、生産性が低いという理由だけで、資金の回収を優先する。それ故に、事業の内容よりも担保や会計情報だけで判断している。

 経営には、外部要因と内部要因があり、外部要因の多くは、不可抗力な要因である。原油価格の高騰や為替の変動、内乱、戦争と言った出来事は、一企業の努力ではどうしようもない。また、税制理解政や会計制度の変更も然りである。内部要因によるものならば、経営努力によって改善できるが、外部要因が原因の場合、一企業の力だけでは解決できないことが多い。それから先は、政治の問題である。
 構造不況業種は、構造的問題であり、内政問題である。産業構造に問題があるのである。重要なのは、日本にとってその産業を保護・育成する必要があるか否かであって、他国の思惑や競争力ではない。その典型が、食糧問題であり、国防問題である。警察や軍隊を民営化し、外資の傘下に入れてしまえと言うのはいかにも乱暴な話である。
 先ず考えなければならないのは、その産業がその国や社会でどの様な働きをしているかである。外部要因の中でも、制度的要因は、経営の内部の行動規範まで拘束する。節税対策は、税制度による必然的帰結である。しかし、その結果、日本の経営主体の自己資本率を低下される。この様なに、外部要因によって内部要因が不当に歪められることもある。内的構造は、外的環境に適合しようとするのである。

 金融機関、本来の役割は、外的要因によって資金不足に陥ったり、収益が悪化したところに資金を供給し、資金を循環させることである。それを忘れれば、金融機関は、晴れた日に傘を貸して、雨が降ると傘を取り上げると言われるのである。
 いずれにしても、経営主体は、単純に会計的損益だけで測られるべき存在ではない。重要なのは、その経営主体が社会で果たしている役割であり、その上で、収益を計れる環境を整えることなのである。
 

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