一つの空間的経済単位の内部、現在は、一国内だけで全ての財を常時均衡させるのには、限界があることが明らかになってきた。特に、問題を深刻にするのは、食糧問題である。食料が、一度不足すると飢饉が発生し、多くのが死者を出すことになる。国内の食料の生産量が、また、人口や需要が一定していればある程度計画が立てられるが、実際には、時間的にも空間的にも食料は、余剰な部分と不足している部分が混在している。それを均衡化、平準化するためには、交易が必要となるのである。
 明治維新以前は、日本は、鎖国を敷き、国内だけで経済の全ての需要を賄い、経済を均衡させようと試みてきた。しかし、その為に経済成長は、長期にわたって停滞した。その間、幾度も大飢饉を経験した。それ故に、日本は開国をして、国内の需要を常時満たすようにせざるを得なかったのである。

 我々は、物の溢れる時代に育ってており、物のない時代の事を知らない。物がないという事がどれ程悲惨なことか、それを理解しなければ、政治も、経済も、戦争の原因も理解することはできない。食糧の供給量以上の人口は養えないのである。それ故に、人口は、経済の規模に規制されているのである。
 近代民主主義の定着が産業革命を背景としたのは、ただの偶然ではない。必然なのである。それは、産業のみならず食糧の増産があってはじめと可能となったのである。
 日本において飢饉は、私の曾祖父の時代ぐらいまでは現実なのである。飢饉の悲惨さをぬきにして戦争の惨禍について語っても無意味である。

 アイルランドでは、1845年から起きた飢饉によってそれまで800万人を越えていたと見られる人口が半減したと言われており、それが1990年現在アイルランドの人口は、350万人強と未だに回復していないのである。(「物語 アイルランドの歴史」波多野祐造著 中公新書)

 国土の規模にあった経済体制、国家体制を敷ければいいのである。自給自足的体制が良いと言っても、今日、自給自足体制というのは、不可能である。不可能である以上、国民生活を守るためには、交易を維持することが不可欠な要素なのである。

 生産物には、偏りがある。その偏りを是正するためには、交易を維持することが重要なのである。つまり、偏りが双方にある限り、足らないものをお互いに補い合える体制である必要があり、どちらか一方が、力によって他方を犠牲しては成り立たない構造なのである。交易関係というのは、お互いが足らないところを補い合う関係によってしか成立しない互助システムなのである。

 この様な国際交易の仕組みを維持しながら、勤労と節約を美徳、旨(むね)として均衡のとれた国造りができれば、平和も保たれ、国民生活も護持できるのであるのである。その上で、自分達が依って立つ産業を育成することなのである。

 かつての日本人は、自国が狭く、島国であり、見るべき資源にも恵まれていないことを自覚していた。だからこそ、人材をまた、技術を磨くことに専念したのである。今日の日本人は、ジャパン アズ ナンバーワンだと浮かれ、逆上(のぼ)せ、驕っている。それこそが亡国の兆(きざ)しなのである。

 国家百年の計という教訓がある。国家は、百年先を見据えて上で計画を立てるべきものである。経済計画の根本は、国家百年の計の礎を築くことにある。その為には、先ずどの様な国にするのかの構想、ビジョンが必要なのである。

 体制、政策、環境に応じて、経済の構造を制度的に変更できる経済体制を構造経済体制というのである。


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