経済という現象を知るためには、人間を経済的にどの様に認識するかが重要な鍵である。この点、近代経済学の一部は、ホモ・エコノミストを前提として成り立っている。
 ホモ・エコノミクスとは、経済活動において自己利益のみに従って行動する完全に合理的で冷徹無比な存在である。しかし、現実にこの様な人間が身近にいるであろうか。確かに、我利我利亡者や守銭奴のような人間がいないわけではない。しかし、それはあくまでも少数派であり、大多数の人間は、金よりも大切な物があると信じている。極めて、常識的で道徳的、倫理的な存在である。
 また、守銭奴のような人間をホモ・エコノミストというのかというと、それも違う。守銭奴には、まだ人間的な要素がある。それに対して、ホモ・エコノミストは、その人間性すら感じさせない。

 前提が変われば全てが変わる。ゆえに、何にしても前提が重要なのである。その前提が架空の、しかもあり得ないものであれば、その後の論理そのものが、虚構の上に構築されることになる。あらゆる人間学、社会学は、人間に対する洞察の上に成り立つ。人間を、いかに捉え定義するかによってその後の論理の成否決定的となる。

 経済人というのは、合目的的存在である。人間は、感情で決断し、理性で抑制する。人間の認識は、有限であり、尚かつ、人間が認識する情報には、非対称性がある。しかも、情報は、認識の所産であり、相対的なものである。判断、決断するために与えられている時間もわずかである。それ故に、人間の判断の多くは直観的なものにならざるをえない。限られた情報に基づき、限られた時間の内に、決断しなければしなければならない上、その基準の多くは経験に依存して作られたものであるから、いくら、客観的、合理的な判断を求めても、結果的には、主観的で、不合理な判断が混入することを妨(さまた)げることはできない。つまり、人間は、間違いを犯す存在なのである。その限界を学習によって補うのもまた人間なのである。

 人間は、功利主義的(ホモ・エコノミクス)と言うより、合目的的な存在である。
 人間は、一定の目的や目標、基準を定めその目的や目標、基準に従って生きていこうとする生き物である。

 人間は基本的に合目的的な存在である。目的を見いだせない人間が増えているとはいえ、人間の行動は、結果的には合目的的にならざるをえない。結局は、目的を意識しているか、していないかに過ぎない。生きることそのものを目的化することも可能である。生きることすら目的とすることのできないものは、生き残ることもできない。それにまた、合目的的でない行動は、制御できないから、最終的には、その人間そのものが社会から排除される。無目的に見える行動も突き詰めてみれば、合目的的なのである。

 感情は、アクセルであり、理性はブレーキである。人間の過ちを抑止するのが、理性だからと言って、理性ばかりを強調すると人間は、行動が、抑制的になり、優柔不断、不活発になる。

 経営者は、合理的な判断に従って、利益を追求するものである。また、経営主体は、利益を追求するための合理的な仕組みや構造を制度的に持っている。その制度は、会計制度であり、税制であり、商法であり、金融制度であり、労働法である。故に、企業行動は、制度によって規制されている。

 企業行動が、制度によって規制されているとなると制度の設計思想が重要になる。制度の設計思想こそがその社会の基礎となる構造を成立させるからである。

 制度に規制されていると言っても経営者でも、必ずしもホモ・エコノミスト的存在ではない。確かに、経営者は、経営者以外の人間から見るとホモ・エコノミスト的な存在ではある。しかし、それでも、情報は限られているし、また、不条理な判断を下すことがままある。経営は、投機的だとすら言う者までいる。ただ、仮に経済の土台にホモ・エコノミストを想定すると経営者的な人間を指すのかもしれない。

 経営者と言わず指導者全般に言えることだが、指導者というのは、以外と近視眼的である。あらゆる事を計算し尽くしているような解説は、後付なものである場合が多く。当事者は限られた情報の範囲の中で精一杯の決断を迫られているのである。

 人間の判断には、バイアス、偏向がかかる。人間の判断から、偏見や先入観を完全に取り除くことはできない。むしろ、偏見や先入観に基づいて判断していると考えるべきである。なぜならば、人間の価値基準は、経験と学習に依拠しているからである。経験や学習の過程に先入観や偏見が混入するのを防げない。なぜならば、経験や学習そのものが偏見や先入観を形成するからである。自己は、主観的、主体的存在なのである。人は、世界を色眼鏡で見ている。
 人間の判断から、先入観や偏見を排除できない上に、人間は、自己の願望や都合、期待、欲望を過大に評価し、誇張し、デフォルメて考える傾向がある。

 また、人間の視野、認識は、自己中心的なものである。自己の認識できる対象は、有限であり、一定の範囲がある。そして、人間は、その一定の範囲の中で対象を認識している。また、自己型意匠を識別する能力にも限界がある。
 また、情報そのものも非対称的なものである。自己が認識できる情報と対象が持つ情報とは、一致しない。即ち、非対称である。非対称である上に確証手段に限界がある。
 自分の認識している情報は、不確かなものであり、その確証を取ることも困難なものである。つまり、人間の判断は、非対称な情報を自己の認識できる範囲に基づいてなされる事になる。そのうえ、人間の認識は、自己の認識できる範囲に限られている。人間は、その限られた範囲の内で判断を下さざるをえないのである。また、情報を処理する能力にも限界がある。必然的に範囲を限定して処理せざるを得ない。つまり、全知全能の神でない人間に、完全無欠な判断を要求すること不可能なのである。つまり、人間は、自分の認識することが可能な範囲で、自分の識別可能な能力の範囲内で判断を下しているのである。

 人間の社会は、全体と部分がある。個としての人間は、社会の全てではなく部分である。つまり、社会という全体は、個としての人間が集まってできている。
 全体の目的と全体を構成する個々の部分の目的は必ずしも一致していない。全体を動かす力は勢いである。全体を動かす勢いには方向がある。全体の方向性、個人としての方向性が一致するとは限らないのである。
 全体を動かすのは力である。力は、部分が生み、全体が力を統御する。力は、凝集すると勢いになる。勢いがつくと個々の部分の力は、勢いに抗することはできない。個々の部分は勢いに従って動く。勢いを制御することが可能なのは、仕組みや制度である。つまり、社会や経済の勢いは、経済の仕組みや制度によって始めて制御できる。経済の仕組みや制度を重視する思想が構造主義である。
 国が、石油価格の高騰を抑制するために、石油の消費量を制限しようとしても、石油が不足すると世の中の人間が認識すると買いだめに人々は、走る。結果、石油価格が高騰する。この様な現象が「合成の誤謬」である。部分最適、全体不適合の問題である。つまり、個々人の判断は、個人的な次元では合目的的だが、社会全体の目的からすると反することが多々あるのである。
 人間の判断には、バイアスがかかっている。されに、自分の都合や感情、欲望、願望、希望が優先される。結果的に社会全体の目的や利益が犠牲とされる。それが、「合成の誤謬」を発生させる。オイルショックやバブル、恐慌の原因の一つは、この様な「合成の誤謬」にある。この様によって生じた「合成の誤謬」にはある種の勢いがあり、これに個人の力で抗するのは困難である。よく戦争の後、個々人は、戦争に反対だったが、戦前には、時の勢いでそれが言い出せずに、むしろ、戦争を推進する側に廻ったという事を聞くのは、その時の勢いに抗することができないことを表している。
 土地や株が上昇している時に、その勢いに乗れなければ、利益は出せない。しかし、それがバブルを引き起こし、最終的には、大多数の者が被害を被ることになる。

 現代人には、進化や進歩に対する幻想がある。無限に広がる可能性と絶え間ない技術革新。経済発展は、この様な変革を原動力として展開されているという幻想である。しかし、物事には必ず限りがある。技術革新や進歩を前提として市場を作り上げれば、これ以上技術革新や経費の削減ができないと言う産業は取り残されるか、生存できなくなる。それがコモディティ産業である。大体において、今日、多くの産業の盛衰は、新技術の開発とかというのではなく。結局、労働費が安いところが優位に立っているだけである。そして、国別に見ると。賃金の高低は、為替変動によって容易に逆転するのである。つまりは、産業の盛衰は、為替の変動によるものが多いのである。

 これからは、ソフトの時代であり、ハードウェアを中心とした製造業は過去の産物だという考え方が台頭している。
 製造業を古い産業と切り捨ててる。経済は、一部の天才のためにだけある物ではない。大多数の人間は、何の取り柄もない平凡な人間なのである。付加価値の高い職種に無縁なのであり、だからこそ単純な労働にも耐えうるのである。しかし、何の取り柄もない人間でも幸せになる権利はある。全ての人間がコンピューター技術者や大学の教授のような仕事に向いているわけではない。アメリカでも貧富の格差が深刻なのである。

 現実の社会を見ずに、付加価値の高い産業に全ての産業を転移すべきだというのは、一部の経済学者や似非知識人の思い上がりに過ぎない。

 製造業は、原価、とりわけ、人件費が安い国や地域に転移していく。しかし、その実体は、為替の変動なのである。しかも、為替の変動は、専門家ですら予測しえないほどのスピードで急激に変動するのである。為替の変動に起因する限り、労働コストとは、相対的なものにすぎない。つまり、その時、その時の国力、国情によるのである。

 為替は、特に相対的な価値である。今、よくドル暴落が予言される。しかし、ドル暴落というのは、何に対して暴落するのかが問題なのである。全ての通貨に対して暴落するか。日本円に対して暴落するのか。つまり、相対する貨幣を前提としなければならない。そして、仮にドルが暴落すれば、アメリカの労働コストは相対的に低下し、労働集約的産業の競争力がアメリカは強くなることになる。そうなると、現在中国に流れている製造業がアメリカに逆流することだってあり得るのである。この様に、コストは、変動相場制度下では、相対的なのである。

 為替の変動というのは、経済に、蜃気楼のような現象をもたらすのである。一見、景気がいいようでも、実質は景気が減退していたり、逆に、好景気なのに不景気に感じさせたりもする。ただ、貨幣経済の動向というのは、認識上において定まるのである。国民が、景気か悪いと思えば、景気は悪くなるし、景気がいいと思えば、景気は、上向くのである。

 円高で何が起こったかを考えればわかる。急激な円高によって輸入原材料価格は低下し、逆に、人件費、資産価値が高騰した。その上、金余り現象が起こった。つまり、加工型産業は、致命的なダメージを受けたのである。その結果、産業の空洞化が進み、資産価値の高騰と過剰流動性によってバブルが発生した。
 海外へ行くと豊かになったような錯覚を持つが、国内では、生活が厳しくなったように感じる。海外からの高級ブランド、贅沢品は安くなるのに、生活必需品は、相対的に高くなる。結局、生活は、苦しくなるのである。

 バブルが発生する直前に財テクが流行ったのは、急激な円高で多くの企業が、真っ当なやり方では収益が上げられなくなったからである。フローからの収益が見込めなくなったから、ストックから資金を調達しようとしたのである。それ故に、バブル期は、金融機関は、短期的に損益が均衡しない、つまり、赤字であっても、借金に見合うだけの資産があれば貸出をしていた。更に、将来の値上がりが期待できる場合は、その時点での価値以上の資金を貸し付けたのである。しかし、一旦バブルが崩壊すると業績の悪化を理由に資金を回収した。これでは、企業は、詐欺にあったようなものである。事業を事業として正当に評価する目や洞察力が要求されるのである。

 時間と伴に減価する財、横這いの財、上昇する財、また、時間とは関わりなく相場によって変動する財がある。更に、為替によって減価する財と、横這いの財、上昇する財がある。それをしっかりと見極めないと景気の変動を予測することはできない。

 我々は、華やかな成功者の話に目を奪われがちであるが、現実は、その陰に隠れて地道な商売をしている経営主体が大部分を占めているのである。
 派手で華々しく見えるのが経済の実相ではなく。地道な営みや生業こそが経済の実相である。

 私の父は、中小企業の社長だが、若い頃からウィスキーが好物であった。自分達の子供の頃は、物がなく。最初は安物のウィスキーで我慢していた。ただ、生活が向上するにつれ、人生の節目・節目で、ウィスキーのランクを上げることを楽しみにして、仕事に励んでいた。また、自分の乗る車も自分の出世に応じて乗り換えていった。現在、我々は、はじめから最上の物を与えられている。ところが、所得に頭打ちであり、結婚、出産、教育と段々に出費が嵩むようになり、自分の生活水準が段々に下降していく傾向にある。

 今は、貧しいけれど将来に希望が持てる状態と、今は豊かだが、将来が不安である状態とでは、ずっと後者の方が人間は、生きやすい。希望は、目的に転化しやすく、失望は目的を見失わせるからである。

 グーグルの設立者のペイジは、資産家となった後もアパート住まいをし、一般的な大学院生と大差ない生活を続けた。(「ゴールドラッシュの「超」ビジネスモデル」野口悠紀雄著 新潮社)IT長者の中には、従来の価値観とはずいぶん違う人間か沢山いる。彼等の生き方は、合目的的であり、儲けよりも、自分の仕事に対する満足度が優先されている。むろん、それも自分の収入の裏付けがあってはじめて成り立つのであり、ホモ・エコノミストのように経済的合理性のみを追求しているわけではない。過去の成功者も、あるレベルにまで到達すると同様なことが言える。人間というのは、合目的的な存在なのである。

 共同体の役割、機能の重要な要素は、再分配にある。これは、国家だけでなく、家計も、企業も同じである。国家も家計も経済主体である。

 家計の働きの一つは、本来、再分配にある。つまり、家族という経済単位を土台として収入を一旦、収集し、それを改めて配分したのである。しかし、家計における再分配機能は、所得を一体化することによって解消されている。その為に家計の再分機能は、顕在化せず潜在化した機能である。ただ家庭内における序列という形で内在化されている。それが女性差別の原因でもある。即ち、家庭内分業がオーソライズされないのである。このために、家内労働が不当な扱いを受け、結果的に女性差別に結びついている。より家庭内労働の意義を明確にすべきなのである。特に、家庭内労働は、地域コミュニティー深く関わり合っている。近年、政治に女性の影響力が高まっているのは、必然的帰結である。それだけ、家内労働の役割は重要なのである。

 最近では、家事の外注化が盛んである。家事が外注化されることによって家庭の存在意義も失われつつある。

 最近では、介護や育児さえも外注化しようとしている。それが、少子高齢化の対策だとしている。確かに、家内労働を外注化すれば、確かに、家内労働は、市場価値や貨幣価値を持つことができる。しかし、そこに決定的に欠けているのは、愛情であり、家族の絆(きずな)である。愛情や絆が失われれば、家族は、ただの同居人に堕してしまう。それでは、家族関係を維持することは困難である。大体、家内労働を市場価値に換算したら、とても家計では、賄いきれなくなる。逆に言えばそれだけの財、価値を家内労働は生み出していたのである。第一、愛情や絆は、貨幣価値に換算しえるものではない。
 家族の人間関係を維持していくためには、強い絆、愛情が必要である。家族を繋ぎ止めているのは愛情である。その核は、母親である。ところが、市場経済や貨幣経済においては、所得を稼ぐ者が、絶対的な力を握る。それが家族内での立場を支配し、また、差別を生むことが問題なのである。人間関係は、常に良好に保たれるとは限らない。仲違いや、諍い、喧嘩は絶えないものである。またそう言った葛藤を通して家族内の人間関係は、深まっていくのである。その為には、母親の役割は重要なのである。それなのに、母親の地位が相対的に低い。それこそが最も重大なのであり、守るべきは、母親の立場なのである。母親を否定する事によって成り立つ男女平等論は、危険極まりない。

 家事が外注化されることによって家庭内が、空疎化し、空洞化してきている。家庭の存在意義とは、家庭の必要性である。家庭の必要性とは、仕事であり、役割であり、分担である。家事が外注化されてしまうと、家庭内での仕事が失われ、家庭の役割や、家計の分担が喪失してしまう。

 労働を奴隷のすることとして、蔑視し、苦役とする欧米の思想に毒されているからである。労働を蔑視したり、苦役とするのは、野蛮である。

 欧米人の発想には、遊んで暮らすことを理想だとする発想があるが、労働こそが本来生きる喜びなのである。労働が苦役、苦しみとなった時ほど、不幸な時はない。だからこそ、ゆとりの持てない、過剰な労働は、否定されるべきなのである。しかし、それは、労働そのものを否定する事ではない。限度を超えた労働がいけないというだけなのある。労働には必ず成果がある。その成果こそが生きる糧なのである。そして、生きる糧の源となるのである。

 家事が外注化され、家庭内が空洞化した時、家事労働者は、外に仕事を求めるようになる。性別分業が悪いのではない。また、性別分業が、女性差別を生み出しているのではない。家事労働が、空疎化していることが、女性差別を生み出しているのであり、女性の地位を低め、家庭の崩壊を促しているのである。むろん、だからといって女性に対する不当な差別を是認するものではない。ただ、物事の本質を見ずして、ただ、表面に表れた現象のみを問題視してしまえば、問題の根本的解決には、結びつかないのである。
 我々は、母として、妻として、女としての仕事を再評価すべき時にきているのである。

 経済の本質は、労働と分配である。その意味で、経済に悪影響を及ぼすのは、不労所得である。
 不労所得は、経済の活力を奪い、結果的に、国家を衰退させてしまう。金利や配当、地代は、経済発展の触媒になりえても、それ自体が実体を持ちうるものではない。労働力を失えば経済はその活力をも喪失してしまう。

 家内労働の地位が問題なのは、家内労働を労働として評価する仕組みがないために、家内労働者は、不労所得者と見なしてしまうからである。

 経済の実態を知ろうとしたら、貨幣価値だけでは把握する事は不可能である。我々が、住宅投資の見通しを立てようとした場合、「新設住宅着工統計」を把握しておかなければならない。また、自動車産業の動きを理解するためには、個々の企業の収益のみならず自動車の「新車新規登録・届台数」を知る事は有効な事である。
 この様に、現実の経済の実体を知るためには、実物の動きを知る必要がある。貨幣の動きは、実物経済を写像した影に過ぎない。

 成功者の話は、確かに面白いし、為になり、参考にもなる。しかし、成功者の話を土台にして経済を考えると、経済の実体を見誤る。なぜならば、成功者というのは、例え、それが運によるものだとしても、非凡なのであり、特殊な出来事なのであり、現実の経済の中のほんの一部でしかない。それに対し、経済の実相は、平凡で、普通の出来事だからである。経済の実体は、一般庶民の中にこそ現れる。
 ホモ・エコノミストに至っては、特殊どころか、現実に存在するのが稀なほどの設定である。それでは、経済の実体を反映するわけにはいかない。
 人間というのは、決められた範囲、限界の中で、不合理、不条理な判断を主観的に下す不完全な存在なのである。ただ、その人間の判断を決定付けるのは、内面の基準と生きる目的なのである。その内面の基準も倫理的な尺度、即ち、主観的な尺度であって、必ずしも客観的合理性をもつ基準ではない。つまり、人間は、倫理的で、合目的的な存在なのである。

 経済の基盤を技術革新とか発明と言った不確実な要素に求めるのは間違いである。経済というのは、人間の日常的活動に依って成り立っているのである。特殊な事象を取り上げて、それを経済一般の事象とすると重大な齟齬をきたすことになる。


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