現代経済学は、産業に対し冷淡である。
 一国の景気の変動は、その国の産業の動向次第だと言う事ぐらい、今日日(きょうび)、周知の事実である。しかし、この子供でも解りそうな道理を、経済学者は無視をする。そして、経済学では、金融政策と財政、一部の市場の動向をもって経済の全てを、推し量ろうとする。それは、血液検査と表面的症状だけで、あらゆる病気は診断できると豪語している医者のようなものだ。我々は、産業の事をもっと知らなければならない。調べなければならない。

 地域社会も、その地域の主要産業の盛衰に運命をともにする。貿易港として栄えた街が、交通機関の進歩と伴に、寂れたり。企業城下町が、企業と運命をともにするのは、よくある話だ。炭坑の街が、エネルギー革命によって廃れてしまい。労働市場の関係で産業の空洞化が懸念されている。全て、現実に起こっている事であり、このことを解明しない限り、経済問題は、解決しない。それは、解りきったことである。それなのに、経済学者は、産業構造に触れようともしない。

 産業こそが、景気の動向を左右していると言っても過言ではない。それなのに、経済学者は、産業の中に立ち入ってはこない。会計学もしらず、原価も知らない。産業の歴史も地理も知らなくても経済学者としては問題がない。最近では、数学も解らなくても経済学者になれる。

 産業の特性や問題点を一番知っているはずの会計士の意見が、経済政策に反映されない。会計士出身の経済学者がいない。不思議な世界だ。弁護士や検事、裁判官の意見が法曹界では重要である。現場の医者が医術について発言できない医学会なんて存在しない。しかし、それが経済の世界である。

 近代経済は、借金の技術が発達したことで成立したと言っても過言ではない。借金の技術は、今も、進化しつづけている。借金の技術が利益の概念を生み出し、債権者や投資家のための説明責任から会計制度が発達した。根本は、貸し借りなのである。また、借金は、通貨以外の貨幣価値を生み出しもしている。

 ところが、借金を罪悪視する傾向が、どの世界にも見られる。高利貸しと徴税人は、どの時代にも嫌われてきたのである。借金の技術を基礎として近代経済が成り立っている以上、借金や借金が生み出した利益の概念を罪悪視していたら経済の機構を健全に保つことはできない。借金をいかにするのか、つまり、金利の問題が経済の核心的な問題なのである。
 産業を理解するためには、この借金と利益を理解する必要がある。借金と利益は、産業の生い立ちから関係してくるのである。借金や利益は必要なのである。それも必要悪などというのではない。借金と利益は、産業の在り方まで決めてしまうのである。逆に言えば、借金や利益に対する甘い認識が、財政や公共事業を破綻させているのである。

 経済学者は、経済を数字でしか見ない。しかし、現実の経済を支えているのは、生身の人間である。
 なぜ利権が生じるのか、それは、人は、簡単に仕事を変える事ができないからである。長年、慣れ親しんだ仕事に愛着を持つし、固執する。それが、産業に微妙な影響を及ぼし、経済を狂わせる原因となる。一生、自分の得意な分野で生計を立てようとしている者にとって、一定期間で終了する仕事は困る。困るから、政治家を動かして、無理に仕事を作ろうとする。だから、利権が生じる。それは、産業の特性である。産業構造を変えない限り利権は、なくならない。
 
 そんな事は、皆、知っている。解っている。経済学者を除いて。経済学者は、数字でしか経済を見ない。経済を現象としか考えない。だから、経済が解らない。

 経済は、本来、人々を幸せにすることが目的なのである。生産性を上げたり、効率をよくする事は、手段にすぎない。それが、全てなのではない。

 構造経済は、産業の構造を明らかにすることによって成り立っている。産業構造こそが、経済の要であり基礎である。
 病を治そうとした場合、人間の体の仕組みを知る必要がある。日本の医学が解剖学に基づかない時代のように、日本の経済学が日本の経済の仕組みを明らかにしようとしないのは、不可解だ。人間の仕組みを知らずに、漢方のように、対症療法に終始していたら、経済学の近代化はできない。漢方が悪いというのではない。ただ、漢方を用いるにしても、体の仕組みは明らかにする必要がある。同様に、経済の仕組みはどうなっているのか。心臓や肝臓にあたる部分はどこなのか。機能不全に陥ったらどの部分に病巣があるのか。どのような検査をすればいいのか。その上で、内科的治療が良いか。外科手術が必要なのかを診断すべきなのである。
 経済の構造とは、産業や市場の構造を指す。どのような産業があり、それが、経済にどのような働きをしているのかを明らかにしなければ、処方箋は書けないのである。

 今、日本経済は、危機的状況にある。金融機関の倒産や合併が相次ぎ不良債権問題の解決のめどが立たない。財政は、破綻直前の状況を呈している。だからといって、戦後の日本経済政策は、失敗だったといえるであろうか。私は、ある一定期間日本経済は、上手く機能してきたと思う。それは、多分に、偶然や幸運に作用されたとはいえ、経済の構造化に成功したからだと考える。経済の構造化は、産業と市場の構造化である。その点を正しく評価しないと、この苦境を抜けです事はできない。だから、先ず、日本の産業の光と陰を明らかにする必要がある。
 
 産業は、成長する。発展する。産業の発展には、いくつかの段階がある。そして、その段階によって施策も変わってくる。産業政策というのは、その成長段階を正しく読み、成長にあわせて市場の構造や産業の構造を変化させることである。成長過程を読み間違えたり、段階に応じた施策を採らなかったりすると、産業はよく発育しない。
 そう考えると、産業の育成は、どちらかと言えば工業よりも農牧業に近い。

 現代の日本経済がおかしくなったのは、官僚機関が機能不全に陥った事、市場の暴走を制御できなかった事、産業を成長型構造から成熟型構造へ変換することに失敗した事にある。しかし、なぜか、日本経済は悪者にされ、過去の施策の一切が否定されてしまった。もう一度問う。本当に、戦後の日本の経済政策は、間違っていたのだろうか。ならば、日本の経済発展はどこに起因していたのか。

 国家も、地方自治体も、もっと産業の育成に力を入れるべきなのである。また、国民も産業の育成に深く関わるべきなのである。そのためには、もう一度、日本の産業のおかれている現状を正しく認識する必要がある。その上で、我々はどの様な国を、政治を、経済を望んでいるのかを明らかにしていく必要があるのである。

 長い鎖国を抜け、開国した日本は、殖産興業をかけ声にして、産業を育成してきた。敗戦後は、国家復興を暗黙の了解として産業の再生と発展に尽力した。今日、日本は、経済大国として甦った。これからは、産業の維持発展に努めなければならない。その為には、明確な国家構想が必要となる。どの様な建国精神に基づいてこれからの国造りをすべきなのか。我々が、今、問われているのは、どの様な国を建設すべきなのかという国家に対する我々一人一人の基本的な姿勢なのである。

 魂のない肉体は、ただの骸(むくろ)にすぎない。腐敗し崩れ去っていく。ただ虚しく、また、醜いだけだ。同様に、国民精神のない国家は、骸(むくろ)にすぎない。国家に対する理念、希望、理想こそが、国家をして国家たらしめ生かす根源なのである。国家に魂の息吹を吹き込むのは、国民一人一人の意志である。
 

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