なぜ、家族が必要なのか。それは、人間が生き物だからである。そして、人間は、一人では存在し得ない存在だからである。つまり、人間は、一人では生きていけないのである。

 人間は、生きることを運命付けられている。すなわち、生きることを自己目的化させられている。
 そして、人間は、生病老死から逃れられない。つまり、人間は、死ぬのである。更に言えば、人間は、食べなければ生きていけないのである。また、人間は、一組の男女が居なければ生まれないのである。将来、クローン人間のようなものが実用化されれば事情は少し変わってくるかも知れない。しかし、人間が一人では存在しえない、また、人間は、例え、一人で生きられたとしても、それは、意味のない存在なのである。無人島にただ一人で生きている人間が居たとしてもそれは、他の人間にとって意味のない存在なのである。つまり、人間は、他者と関わりを持ってはじめて意味のある存在になる。そういう存在なのである。

 即ち、家族とは、家族のはたす役割、働きによって形成された集団・共同体の最小単位を言う。故に、血縁関係によって結ばれた集団を指すわけではない。ただ、家族の中核に一組の男女が、つまり、夫婦、父母が核になるケースが多く、それによって血族と取り違えられることが多い。しかし、家族を意味するとき、必ずしも一組の男女を必要としているわけではない。一組の男女を核として形成されることが多いと言うだけである。
 ここで重要なのは、家族の果たすべき役割、機能である。それが、当該の社会における家族の在り方を規定する。
 逆に、家族の崩壊とは、家族が、家族としての役割、機能を果たせなくなった時、社会現象として現れるのである。そう解釈しないと家族の崩壊は理解できない。
 では、家族の役割とは何か。一つは、衣食住に関わる機能。もう一つは、生病老死に関わる機能である。

 家計は、生計でもある。つまり、家庭というのは、生きる為の活動の場もある。こう考えると家族の働きが見えてくる。ならば家族とは何か、それを次に考えていきたい。

 家族とは、何か。家族をどのような集合として捉えるか。この様な捉え方をしてこそ集合は、有益なのです。集合の基礎となる要素・命題の定義こそが鍵となるのである。

 家族とは何かを定義していく上では、その下位の次元に、親子とは何か。夫婦とは何か。兄弟姉妹とは何か。また、親族とは何か。共同体とは何か。家計・生計とは何かといった定義が必要となる。また、この様な定義そのものが集合を形成することになる。
 更に、親とは何かを取り上げてみると、父親とは何か。母親とは何か。子供とは何かを命題群によって定義する必要がある。そして、親子間の関係の命題群、父親と母親、子供の働きを現す命題群を定義し、親子間の構造や形態を現す命題群を構築することによって家族という概念の全体像を構築するのである。

 家族の定義の範囲、定義を形成する命題間の関係、個々の命題の妥当性、命題を成立させる前提によってその後の論理の展開も違ってくる。そうなると一様の結論を導き出すことは困難になる。故に、肝心なのは、論理的帰結以上に、定義の妥当性だと言う事になる。しかも、命題は、定量的と言うよりも定性的な場合が多い。だからこそ、集合においては、定義を構成する命題間の無矛盾性と命題の妥当性、正当性、検証可能性、それを成立させている前提条件が問われるのである。

 家族という概念が成立するための前提をあげると、人間の存在の在り方に行き着く。人間は、生まれた直後から一定期間、一人ではいきられないという事である。
 人間は、動物であり、外部から何らかの食料を得て栄養を摂取しないと生きていけないという事である。
 必然的に人間は、集団を形成しなければ、生存することが困難だと言う事である。つまり、生きていく為には、何らかの集団に所属しなければならない。そして、生きていく為に必要な集団の最小単位が家族だと定義する。
 人間は、生まれてすぐは、一人では生きられないことを前提とし、人間が生きることを運命付けられているとしたら、家族は、衣食住との関わり合いによって成立している。そして、人間が、生きていく上で生病老死から逃れられない存在であるとしたら、家族は、生病老死との関わりによって派生する。このことを考えれば家族の存在意義は明らかになる。そして、家族の存在意義から、家族の役割、働きがハッキリとしてくる。更に、家族の役割は、家族の構造を規定するのである。
 家族の役割が、家族の在り方、即ち形式を形作っていく。

 先ず家族の役割の根本は、衣食住である。それに対し、家族を形成していく要素は、親子関係と、親子関係は、発生させる婚姻関係である。ただ、基礎は、親子関係であり、婚姻関係は副次的な関係である。それは、親子関係を成立させている要素と婚姻関係を成立させている要素を比較すると明らかである。
 
 つまり、親子関係を成立させているのは、性と生殖と育児であるのに対して、婚姻関係を成立させるのは、性のみである。この事から婚姻関係というのは、親子関係の前段階な関係とも言える。また、性、生殖、育児は、婚姻関係によらずとも成立する。つまり、婚姻関係は、親関係を準備するための前段階的な関係とも言えるのである。婚姻関係のような前段階的関係が派生したのかは、親子関係が成立するための前提にある。次にその前提を明らかにしたい。

 親子を規定する働きには、性と生殖と育児がある。その前提は、人間は、養育期間が他の動物に比べて長い。養育期間中は、子供は、他者に依存しないと生存できない。また、母親は、妊娠中、出産直後、無防備な状況に置かれると言う事実である。
 そして、親子関係を決定付ける最大の要素は、生殖にある。つまり、出産という決定的な事象に基づくのである。なぜならば、性にしろ、育児にしろ、生殖に結びつかない限り、親子関係を生み出さない。更に、親子関係が生じなければ、家族を形成する必要がない。故に、生殖こそ親子関係を決定付ける要素なのである。そして、この生殖の在り方が、家族関係を規制しているのである。
 生殖によって母と子の関係は明確なのに対して、生殖によっては、父と子の関係は不明確なのである。この事は、母子の絆と父子の絆に決定的な影響を及ぼしている。つまり、母子関係は、明らかなのに、父子関係は明らかではないということを意味する。また、もう一つ重要な要素は、出産直後の生活が母子だけでは維持できないと言う事実である。つまり、母子は、何らかの形で外部からの扶養がなければ生きられない状況に親子関係が成立した直後に置かれるという事である。このことから見ても母親は、常にハンディを背負っている。故に、弱い立場に置かれやすい。この母親の置かれている弱い立場を社会がどのように受け止めるかによって、母子は、隷属的な地位に置かれるか否か、つまり、家族の位置づけがされるのである。
 つまり、生殖と育児関して、圧倒的に有利な立場にある父親と不利な立場にある母親との関係が家族の力関係を規定している。
 それ故に、予め儀礼や婚姻制度によって家族の関係は、具現化される必要が生じるのである。そして、予め規定化された家族の形によって生殖から育児に関わる期間、母子を養育する事が、家族の構成員に義務づけられるのである。ただし、儀礼や婚姻制度が母子の養育を保障するものではない事は、既知のごとくである。

 家族の初期の形態を婚姻に求めるのには無理がある。むしろ婚姻関係は、親子関係のための予備的段階である。家族を形成する要素は、親子、特に母子関係にある。つまり、家族の核は、母子にある。父子関係、婚姻関係は、それに付随的に生じた関係である。それらが家族の中核的関係に発展するのは、母子関係が確立された以後のことである。家族の核は、母子であり、その母子関係を中核にして家族関係は構成される。

 この様な家族間の基本的な位置づけと関係に対し、その家族が置かれている場に働く力、作用、つまり、環境、文化(教育、礼儀、作法、風俗、習慣、歴史、伝統、宗教)、神話や伝承、社会の法や掟からの力の影響が加わって家族の在り方形態が構築されていく。さらに一定の手続きを経て一つの制度という構造、集合体へと発展していく。

 男と女は違う。男と女の決定的な違いは、女は、子供を産み育てるようにその肉体ができているという点である。この事によって、女性は、強くも弱くもなる。ただ、女性を弱い立場に追いやるのは、その肉体的な差ではなく。社会的・文化的な差によってである。

 男と女は違う。だからといって、男尊女卑を是とするわけではない。男性蔑視であろうと、女性蔑視であろうと根拠があるわけではない。むしろ、男と女が置かれている立場と、その捉え方にこそ問題があるのである。それは、従来のまた、既成の家族制度の構造的欠陥でもある。

 大阪の船場や相撲の世界では、婿養子をとる方が、自分の家の発展にはいいと考える傾向がある。つまり、息子の才覚は、選べないが、婿の才覚は選べるからである。

 元々、女子相続の方が、社会的には安定しているとも言える。家族間の絆がより実体的関係に基づいていると言えるからである。男子相続では、観念的な関係によらざるを得なくなり、平等な相続では、資産が分散する傾向がある。

 母系(女系)社会、父系(男系)社会は、いわゆる、親子の絆に関し社会的な決め事・掟を重視するか、生物学的な事実を重視するかによって決まる。つまり、母系というのは、母子と言う歴然とした事実・関係を要にして形成された社会といえるのに対し、父系というのは、儀礼や掟と言った社会的規範、枠組みを要にして形成された社会といえる。

 男系社会においては、父親にとって自分が扶養責任をおう以上は、自分の子供であるという保証を求めようと言う傾向が高くなる。それが、男系社会における家庭内の父親の地位を権威主義的、形式主義的なものにしてしまう。生殖という確たるものがない以上、父親は、権威(時には、神、宗教的権威)や形式がなければ家族によって立つ場所がないのである。そのために、父系社会は、象徴的、儀礼的な傾向を持ちやすい。

 だからといって女系社会が、男系社会より優れているというつもりはない。女系社会にしろ、男系社会にしろ、長い歴史的経緯や環境によって当該社会が決めてきたことである。それは、その制度を成立してきた人々が決すべき事である。

 多くの場合、扶養責任を一組の夫婦に持たせようとする。しかし、扶養責任を婚姻者や婚姻者の家族に求めるのではなく、共同体全体で負担しようとする社会もある。その場合、性に対して開放的な社会になる傾向がある。とにかく、家族の形態は、一様ではないのである。また、一様に規定することは困難である。ただ、どのような家族の形態にしても、その根幹は、母子である。

 母子が一定期間扶養される必要があり、そして、誰が父親かを確定する手段がなければ、長期間にわたって家族の生活を監視する必要がある。いずれにしても広範囲な社会的バックアップがないと家族は維持できない。

 父親にせよ、母親にせよ、いずれか一方が従属的な立場、特に、母子が情族的な立場に置かれていたら、健全な人間関係は築かれない。自律的な家族が成立するためには、母親と父親が対等な立場に立てるような制度が必要となる。

 一夫一婦制は、女性と男性に対等の地位を与えようと言う考え方から派生した制度である。むろん、一夫一婦制によって男女が対等な立場に立てるという保障はない。また、一夫一婦制の在り方も一様ではない。また、環境や状況によって家族の在り方は変化すべきであり、一様に規定することはできない。環境や状況によっては、共稼ぎを前提とした家族や専業主婦のような夫婦の在り方も選択肢の一つである。その点を考えながら、家族の在り方を考えていく必要がある。

 愛情というのは、これら人間関係が成立する過程で包括的に現れてくる感情であり、愛情によって家族を規定することはできない。家族関係を形成するのは、あくまでも、経済的理由である。愛情は、金では買えないと言うのは、裏がいして言えば、愛情と経済の問題は別だという事である。家族関係を保障するのは、あくまでも、経済である。だから、逆になおさら愛情が大切だとも言える。

 一度家族が形成されると、その後、家族の役割が新たに加わってくる。新たに加わる家族の役割の基本は、生・病・老・死と教育に関わることである。それによってまた家族の在り方も変化する。

 人間は、他の動物に比べて子供の養育期間が長い。それが、人間に家族を形成するための重大な契機となっている。しかも、多の動物とは、違う働きを人間は、養育期間に持たせている。それは、社会的機能である。本来養育は、自立させることが目的であり、それは、自分で自分の身を護ることと、自分で餌をとることを覚えさせることである。これは、教育の在り方の根本である。同時に、家族を成り立たせている核心である。ただ、人間の養育は、それにとどまらない。

 人間以外の動物は、子供の養育が終わったら、基本的に関係は解消される。しかし、人間は、子供の養育期間が長引くと共に、家族により相互扶助の関係が築かれ、人間以外の動物とは違った形で家族が形成されるのである。それは、育児期という脆弱な期間だけでなく。病気や老後という弱者となった時にも家族の役割は発揮されるようになるのである。それによって、家族の機能は、拡大成長したのである。

 ただ、人間の家族の根本的な働きを考える上で、自分で餌をとれるようになること、即ち、経済的な自立と外敵から自分と家族の身を護ることが、家族の一番の果たすべき役割、機能であることは間違いない。

 我々の抱く家族像というのは、夫婦を核としたものになりがちである。しかし、夫婦という関係は、母子を保護するために、二義的に生じた関係である。現に正式の婚姻制度のない社会もある。また、それでも家族は成立するのである。
 結婚は、家族を成立させるための絶対的な要件ではない。家族を成立為に必要な要件は、母子の存在である。そして、母子を保護する関係から生じた家族に付随的に、生病老死、教育に関わる機能が付加され、今日では、その役割の方が家族の働きの中で大きな部分を占めるようになってきたのである。その為に、家族というと、夫婦関係を中心に考える傾向が高くなってきた。その典型が核家族である。しかし、核家族では、家族の在り方を網羅することはできない。

 妊娠中も含め、母子を保護することは、社会の重要な役割、義務である。そこに家族が成立する根拠がある。


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家族の構造