貨幣経済が成立するためには、通貨が市場に広く流通している必要がある。貨幣を市場に流通させる仕組み、機構が問題なのである。

 その前に、近代貨幣経済が成立するためには、近代的な貨幣概念の確立が前提となる。近代的な貨幣概念の確立において画期的なのは、兌換紙幣の発行である。兌換紙幣の発行によって貨幣概念は革命的な変化をもたらし、それが近代の貨幣概念の基礎を築き上げた。この様な観点を鑑み兌換紙幣の背景を明らかにする必要がある。

 今日、財政赤字と言うけれど、現代の財政赤字も貨幣的現象である事を忘れてはならない。税金というのは、あくまでも、金、即ち、現金を基本とした概念なのである。つまり、税金というのは、貨幣的概念である。しかし、租税は、必ずしも税金とは限らない。この点が見落とされている。

 財政が赤字で、教師に払う金がなければ、自分達が教えればいいのである。要は、自分達が教育を必要だと考えているかいないかの問題なのである。金がないから教育できないと言うのは、貨幣的価値を全てだと考えている証拠である。
 その典型が兵役である。スイスは、権利意識が高く、自己主張も強い。又、言語、民族、宗教もマチマチである。それでも、兵役の義務は誠実に果たされている。それが、民主主義であり、自由主義なのである。

 税金と、租税は違う。明治維新前は、税は、金納より、物納の方が一般的であった。また、物納以外にも徭役、すなわち、労働力で支払う場合も多くあった。即ち、租税と税金とは、同一の物ではないのである。

 財政の財源は、税収と借金(国債)、公共事業の収益である。公共事業の収益は、現時点ではないに等しい。ないに等しいというのは、公共事業は収益を上げてはならないという不文律があるからである。将来はともかく、現時点では、公益事業による収益は、財源として考えられない。
 故に、財政の財源の基本は、税収と借金である。又、国債が発行されるまでは、税収のみに頼っていたと言うより成り立っていた。そして、なるべくならば借金に頼らない方がいいというのが財政の基本姿勢、原則である。つまり、国家財政の財源は、税収にのみによるべきだというのが根本にある。これが今日の国家理念である。また、財政の問題点を象徴している。
 政府としては、税収だけで公共の費用はまかないたい。それが理想である。しかし、現実は、国家を運営する費用は、税と借金によって賄(まかな)われているということである。そして、その借金によって財政の運用が厳しく制約されている。多額の税金が借金の返済に充てられ、公共事業に向けられない状況だと言う事である。要するに、借金によって首が回らなくなりつつあるということである。
 私は、財政の本質からして税収と借金を上手く活用すればいい。更に、付け加えるならば、本来は、事業収入が加算されるべきだと言う事である。と言うよりも、公共事業の収益をもっと計るべきだと考えている。それができないから問題なのである。つまり、公共事業の費用が借金と税収だけで賄(まかな)えないのである。税も借金もそれ自体では生産性がない、再生産に結びつかない収入である。大体、租税は、対価も反対給付もない収入なのである。故に収益を求めなられない。国の借金は、いずれは返済しなければならない。現時点では、その返済の原資は、租税収入しか見込めないのである。その租税には、対価も反対給付もないのである。それに対して、公共事業による収益は、生産性と直接結びついた収入である。対価も反対給付もある。だからこそ公共事業による収益が重要なのである。本来は、事業収入よってに事業のための借金を返済すべきなのである。そうすれば、税収をあてにする必要がなくなる。又、そうしなければ資金は環流しなくなる。なぜならば、資金の流れが、反対方向への流れのない一方通行な流れになるからである。資金の流れが必ず反対方向の財の流れが生じる。それが、資本主義の原則である。その原則が通用しないところに、財政の問題点がある。反対給付のない租税の使い道は、本来、再分配のための原資である。その再分配機能が財政の悪化によって機能しなくなることが重大な問題なのである。

 近代貨幣経済が確立する経緯は、金貨、銀貨、銅貨と言った貴金属貨幣の流通から、兌換紙幣(金本位制度)、不兌換紙幣、通貨の情報化へと変遷を辿っている。

 兌換紙幣が発行される以前は、金貨、銀貨、銅貨のような実物貨幣が用いられていた。金貨、銀貨、銅貨は、それ自体が価値を有している実物貨幣である。この場合、通貨の流量は、金や銀の生産量という物理的制約がある。つまり、保有する金や銀と金や銀の生産量によって上限が決められている。
 自ずと貨幣の流量には限界があり、必然的に貨幣以外の実物による物々交換を併存させる必要がある。

 また、金貨、銀貨、銅貨と言った実物貨幣を土台としている時代では、金・銀・銅の生産や管理を独占する必要があった。
 実物貨幣は、物々交換の延長線上にある。

 兌換紙幣が成立する以前は、貨幣は、行政府が直接発行していた。しかも実物貨幣でてある。多くは、君主国で、その時代には、君主の生活と軍事に必要なだけの量の貨幣と財があればよかったのである。国民国家が成立し、また、皆兵制度が成立することによって国家予算、財政に多額の資金が必要とされるようになる。それが兌換紙幣が派生した直接的な原因である。
 国家の経費の中で圧倒的な比率を占めるのは、軍事費である。そして、軍事費こそ国家の命運を握る費用なのである。国家の必要経費の多くを軍事費が占め、貨幣経済の成立に国家の経費が重要な役割を果たしたとすると、つまり、軍事費は、貨幣経済にとって重要な役割を果たした。その証左として、一例を上げると、紙幣のはじまりは、軍事費の支払いだとも言われている事である。(「世界金融経済の「支配者」−その七つの謎」東谷暁著 詳伝社新書)

 貨幣を行政府が発行していた時代は、行政に必要な量しか支払われなかった。また、貨幣そのものの品質が問題とされた。

 君主国では、基本的に通貨の管理という思想は派生しない。貨幣が市場に蔓延するというのは、結果に過ぎない。最初から、貨幣経済を目指して通貨が発行されると言うより、国家財政の都合によって通貨が、発行されると言った方がいい。ただ必要に応じて金貨や銀貨、銅貨で決済がされたに過ぎない。それ故に、貨幣の発行は、銀行のような国家機関以外の機関で行われる必要がなく、必要ならば、国家が直接貨幣を鋳造して発行していたのである。そうやって垂れ流され続けた貨幣によって結果的に貨幣経済の下地が作られるのである。
 その為に、通貨の原資は、貯蔵された金や銀、銅である。

 君主国の多くは、家産国家である。つまり、主権者が資産を持っていてその資産で国の財政を賄う体制である。家産国家では、税収も、主権者の所得に過ぎない。市場経済における政府は無産国家と言われる。(「財政のしくみがわかる本」神野直彦著 岩波ジュニア新書)家産国家では、国家の支配も事業、経営なのである。

 この様な体制では、通貨の環流は考えられていない。
 だいたい貨幣経済の前提となる市場経済が未成熟なのである。市場が成立していないか、又は、成立していても限定的なものであった。好例が土地である。土地は全て王家のものか、封建領主のものだったのである。(「財政のしくみがわかる本」神野直彦著 岩波ジュニア新書)

 それに対して市場主義国家、民主主義国家は、無産国家であり、同時に租税国家なのである。そして、租税国家なるが故に、貨幣経済が成立したのである。また、民主主義国家なるが故に租税国家は成り立つのである。

 通貨の供給は、政府の支出か、貸出によっなされる。
 産業革命が起こり、又それに伴って社会や産業のインフラストラクチャー、社会資本を整備するする必要性が生じた。インフラストラクチャーや社会資本の整備には、多額の資金を必要である。この様な資金を実物貨幣でまかなうのには、自ずと限界がある。この問題を解決住めために兌換紙幣が考案された。それと同時に、通貨を管理する必要性が生じた。民間銀行が通貨を発行し、それを国に貸し付ける形で通貨を流通させたのである。
 民間銀行が紙幣を発行する際は、兌換紙幣の裏付けは、手持ちの金か預金による。つまり、大量の紙幣の発行には、大量の金の裏付けが必要なのである。
 見落とされているのは、ヨーロッパに大量に流入した金と銀の存在とその管理の問題である。中央銀行の発端と言われる英国銀行の前身が金細工師だというのは、象徴的なことである。そして、兌換紙幣のはじまりが金の預かり証だと言う事も象徴的である。
 国による貨幣が流通する経路は、国が支払う経費と国による負債である。そして、通貨を管理するためには、通貨を環流させる必要がある。そして、環流するためには、通貨の一部を回収する必要がある。その回収の手段が税金である。税制の機能の一つがこの通貨の環流と管理にある。
 また、紙幣の契機となったのは、国債である。又、それが南海泡沫事件という、バブルの景気を生み出したのも偶然ではない。必然的な帰結である。
 また、金利があるから通貨は環流する。金利がなければ貨幣は退蔵されるのである。そして、金利による通貨の環流は、市場価値に時間的価値をもたらすのである。貨幣経済の成立に対して、金利は決定的な役割を果たしている。
 通貨の環流を管理するためには、通貨を国家を通過させる必要がある。それを担うのが財政と税制度である。
金貨による通貨の流通量は、過去に供給された金貨の量と新規に供給された金貨の量から回収された金貨の量である。
 そして、君主国が直接金貨を発行した場合、財源は、保有する金とその年に生産された金にすぎない。しかも、君主国は、通貨を環流する目的で金貨を回収する動機がない。あるとしたら、金貨の不足による動機だけである。君主国において、国家が、金貨を活用するためには、金山を直接管理し、又、金の輸出入を抑え、金の流通を支配していれば事足りるのである。その典型が江戸幕府である。
 この様に見てくると貨幣経済は、財政破綻の上に成り立っているのである。

 それが、貨幣経済の限界でもあり、欠点でもある。かつて、家を一軒建てるのでも、村人が総出で家を建てたものである。又、道路の建設も村人の賦役に依存していた。君主主義国にできて、なぜ、国民国家においてできないのであろうか。それは、拝金主義に覆われてしまったからである。市場経済の発達は、人々を確かに豊かにした。しかし、反面において、人々の心を貧しくもしたのである。

 我々は、経済的な合理性とか、経済性という言葉を使って効率性を表現する。しかし、その場合の合理性とか、経済性というのは、あくまでも、貨幣的価値に基づいているのである。しかし、経済本来の意味からすると実は不経済なことが多く含まれている。資源の無駄遣いや食料の浪費は、不経済だと戒めていた。又、不必要な開発も不経済だという健全な感覚があった。
 現在は、使い捨て時代、消費時代である。市場の際限のない拡大は乱開発を招き。環境を著しく悪化させている。これを経済的合理性というのであろうか。それは、すべての価値を金に換算してしまった結果ではないのか。この様な貨幣経済、市場経済の合理性の根底には、大量生産、大量消費主義が前提となっていることを忘れてはならない。それが無原則な生産、無原則な開発、無原則な消費を招き。破壊的、破滅的事態を招いているのである。それが経済的合理性という事なのであろうか。

 先ず、人々の暮らしがある。そして、人々の幸せがある。その上での経済的合理性であり、経済性なのである。かつて人々は、協力して自分達の暮らしや生活を成り立たせていた。それが経済である。今や、金は、人と人との関係を希薄にし、断ち切ろうとしている。
 財政破綻が深刻なのではない。人々の心がすさみ、荒廃していることが問題なのである。たとえ、財政が破綻しても、人々が必要に応じて協力しあえれば、その危機は、乗り越えられるであろう。しかし、その時、金でしか人が働かなくなっていたとしたら、その方がずっと深刻な事態なのである。


参考文献
「金融史がわかれば世界がわかる」倉都康行著 ちくま新書


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財政と貨幣経済

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