財政赤字の問題は、結局、財政は、破綻するのか、財政が破綻するとどうなるのかという事に行き着くのである。
 それを解き明かすためには、財政の役割は何か、財政に何を期待するのかという事、さらに、財政赤字は、経済や自分の生活にどういう影響を与えるのかを、明らかにする必要がある。

 日本経済は、曲がり角にたたされている。そのくせ、経済学は難しい。それは、経済学が、現実から乖離しているからである。現実と乖離していると言うより、自分の実体験、実生活からしてわかりにくいという事です。経済に現実感が伴わない。血が通っていない。経済学は、医療に似ている。
 今の経済学は、血液検査で全てが解ると言っているようなものだ。腹が痛いといった、目に見える症状をなぜ、もっと大切にしないのだろう。腹が痛いから痛み止めを打てばいいと言う対症療法的な対策では、抜本的解決はできない。
 ポンプの中にどれくらいの水が必要なのかは、状況によって違う。ポンプの中の水の水位ばかり気にしていたら、ポンプの働きが見えなくなる。ポンプの中の水位を問題にするときは、ポンプ含めた機械全体の仕組みや、ポンプの働きから総合的に判断しなければならないのである。

経済問題の多くは、なぜ、どうして、どこが悪いのか、ハッキリしないものが多い。ただ、悪いから悪いと言っているようなものだ。その典型が、財政赤字である。

 実際の処、財政が破綻したらどうなるか、明らかにされてはいない。国家が、過去、破綻した例がないわけではない。しかし、前提条件となる時代や経済環境が違いすぎて、あまり参考にならないケースが多い。財政赤字の解消に本腰が入らないのも、破綻したらどのような状況になるかハッキリしていないからである。

 ここで注意しなければならないのは、財政赤字と財政破綻は、別物である事である。財政破綻の弊害と財政赤字の弊害は同じ物ではない。財政赤字の弊害は、財政破綻を防ごうとして派生するものである。
 また、財政が赤字だからといってすぐに破綻するとは限らない。そのうえ、財政が破綻したらどうなるのかもハッキリしていない。だから、油断をする。危機感に実感が伴わない。一番怖いのは、慢性病と同じように自覚症状がなくて、再起不能に陥ってから後悔することだ。
 財政赤字も財政破綻に結びつくような赤字と一時的、又は、過渡的な赤字とがある。赤字は、慢性病のようなものであり、気をつけていれば別段問題がない、場合によっては、良い傾向のものも在れば、放置すると死につながるようなものもあります。ただ、言える事は、国家財政が破綻した時、国家経済が無傷でいられるはずがないという事である。

 また、財政赤字を問題とする時、財政赤字そのものを問題にするだけでは、解決できない。財政赤字の問題点は、財政の経済構造における機能から捉えるべきであり、その場合、国内における財政の均衡だけの問題では片付けられない。国内における均衡の問題以上に経常収支とのバランスの方が影響は大きい。故に、財政赤字は、経常収支との関係で考えなければならない。

 財政破綻や財政赤字は、天変地異や災害とは違う。飢饉や旱魃、地震のようなものではない。財政が赤字であろうと、破綻しようと公共財を除いた実体経済には、直接的影響はない。むろん、全く影響が内というのは、語弊があるが、直接的な影響は、基本的にはない。つまり、市場経済には、影響がないのである。影響が出るのは、市場の外部経済である。困るのは、役人と公共財に関係した産業である。そして、国に多くを依存している社会的弱者、というより、国の補助がなければ生活ができない、経済的に自立していない層である。むろん間接的には、市場経済にも、甚大な被害が出る。しかし、その場合、市場経済は、いわば、被害者である。
 困るのは、官僚と国防、治安、防災、教育と国家財産に関係した人間達である。明治維新以前、近代的な財政が確立される以前でも、この事実にかわりはない。江戸幕府も諸藩も財政赤字には、悩み続けた。しかし、財政が悪くなると結局、しわ寄せは、弱者に向けられ、税が重くなり、農民は、困ったのである。そして、悪徳代官と御用商人が私腹を肥やしたのである。要するに、弱い者をいじめて、私腹を肥やしているように見えるのである。そして、本当に困ることは、飢饉や旱魃といった天変地異である。
 財政赤字、破綻の本質は、ここにある。なぜ、財政が破綻すると困るのか。それは、国家の働きが、止まるからである。結局、財政の問題は、国家とは、何かという問題に突き当たる。つまり、財政とは、国家の問題なのである。

 国家の機能が停止するとどうなるのか。 

 公共財というのは、いわば空気のような存在である。なければ、生きていけないが、ある時は、その重要性に気がつかない。警察や消防というのは、在るのが当たり前であり、それがなくなっり、機能しなくなった時の事など考えられない。教育も然りである。また、道路やダムは、機能しなくなる事が、想像できない。停電なんて経験したこともない世代が大多数を占めつつある。ゴミの処理ができなくなり、ゴミの山がいろんな処にできたらどうなるか、夢にも思わない。故に、財政が破綻して、公共財が、機能しなくなるなんて、実感できない。だから、財政が破綻する事の意味がわからない。

 財政赤字の背後には、都市化の問題がある。都市は、一大消費拠点である。都市が一見華やかに見えるのは、それは、一大消費地だからである。都市は、そこに集まり者に散財をさせようとする。つまり、都市というのは、国家経済に寄生しているのである。ただ、それが、一概に悪いとは言えない。ただ、生産と消費が均衡していればであるが。政治と経済の中核にあるのが都市である。中でも、一番の消費機関は、行政機関である。

 都市の機能は、消費拠点や物流の拠点である。主な生産拠点は、都市の外部にある。

 財政が破綻するとどうなるのか。経済の大地震が引き起こされる。経済が大激震する事で国民や企業が被害を受ける。
 先ずダメージを受けるのは、官僚機構である。官僚機構は、国家である。
 財政が破綻すると、行政サービスが滞る。最悪、行政サービスが、受けられなくなる。確かに、それに酔って直接、被害を被るのは、国民である。また、国家に資金を貸している金融システムがダメージを受ける。金融システムを基礎としている市場経済も相当の被害を受けるであろう。
 しかし、一番困るのは、働いている人間である。ところが、そのことに対する自覚が、役人にない。それを事態は、余計に深刻にしているのかも知れない。国家政府も共同体であるという自覚がないからである。

 官僚機構は、それ自体が運命共同体である。しかし、彼等は、国家は倒産しないと思っている。だから、官僚機構も永遠に不滅だと思いこんでいる。寄らば大樹の陰である。
 しかし、企業が倒産して一番困るのは、その企業に働いている人間であるように、財政が破綻して一番困るのは、そこで働いている人間、役人であるはずだ。ところが、財政赤字の弊害を言う時、もっぱら、国民に向けて言っているだけで、役人に対しては、何も言って宣伝していない。これでは、客に向かってうちの会社が潰れたら、あなたですよと言っているようなものである。
 客にしてみれば、必要なら他から買うという手段が残される。行政サービスも然り、学校がなければ、子供の教育ができないというわけではない。治安が悪ければ、金持ちは、ボディガードを雇うであろう。国防ができないとなるとよその国に移住する。そうなって困るのは、役人である。しかし、官僚は、その点に気がついていない。

 公務員にとって、国民は、客であると同時に雇い主でもある。故に、公僕という言葉がある。このことを官僚は、解っていない。だから、尊大な態度をとる。徴税官は、税を徴収することしか考えない。だから、納税者は、税を納めたくなくなる。その上、高額納税者を悪者扱いしてしまい、差別すれば、高額納税者ほど、税を納めなくなる。納税者にとって税を納める価値があるのかないのかが、重要な問題なのである。

 財政赤字、財政破綻のどこが悪いのか。それは、財政の働きには、どんな働きがあるかに対応している。
 財政の本来の働きは、第一に、国家理念と国民利益の追求。第二に、国家理念に基づく各種の保障。第三に、国家システムの維持と補修。第四に、経済システムの維持、保障。第五に、雇用の創出。即ち、失業対策。第六に、所得の再分配。第七に、拡大再生産の促進。第八に、人材の育成、教育。第九に、外的や災害からの国家防衛。治安維持。第十に、社会インフラストラクチャーの構築。第十一に、貨幣価値の保証。第十二に、税制による経済のモニタリングと規制や経済政策による経済へのフィードバック。第十三に、貨幣の循環と貨幣の流量の調整。第十四に、景気対策による景気調整。第十五に、国民の権利と自由の実現。第十六に、非市場型産業への資金の供給と経営である。

 財政破綻がもたらす結果について、経済面ばかり目を向けていると財政破綻の本質が見えなくなる。先ず、考えるべきは、政治的社会的問題である。

 財政破綻による第一の問題は、国家理念が、根本から破綻する事である。財政は、国防に直結していることを忘れてはならない。第二に、国防の基本的な考え方が、財政の破綻によって歪められる。それは、ひいては、国家の独立、他国による内政の干渉を招く怖れがあることである。第三に、経済政策の自由を奪われることである。過去には、徴税権を質にとられたり、経済政策や金融政策の自由を奪われたりした国もある。多くの企業が、外国資本の参加に組み込まれたりもしたケースがある。また、教育や公共投資ができなくなったり、クーデターによる傀儡政権が作られたりもした。これは、実質的な植民地化である。我が国においても、第二次世界大戦の伏線として、昭和恐慌、財政の破綻、軍縮、国防費の削減、そして、青年将校によるクーデター、大蔵大臣の暗殺があった事を忘れてはならない。

 上記の三点が政治面から見たの対し、経済面から見ると第一に、貨幣価値の信任を喪失する。第二に、所得の再分配が機能しなくなる。第三に、経済を制御する機能を失う。第四に、徴税権のような国家の経済主権を奪われる。第五に、産業など経済主体を護れなくなる。第六に、労働者の人権を守れなくなる。第七に、治安や住環境、社会保障という国民生活の保障ができなくなる。

 国民にとって、財政赤字そのものが悪いというわけではない。財政赤字が引き起こす、副作用が問題なのである。

 財政赤字のどこが悪いのか。巷間よく言われているのが、第一に、財政の硬直化が招く不況である。そして、第二に、財政破綻が招く、増税、そして、重税である。第三に、過剰流動性が招く、悪性のインフレである。

 財政赤字ばかり問題にしているが、それよりも国家理念が重要なのである。財政赤字を矮小化し、景気対策として公共投資をするか、しないかの問題にすり替えてしまっている政治家がいるが、物事の本質は、国家理念である。確かに、赤字だから、全ての公共投資を辞めてしまえと言うのも乱暴な話であるが、だからといって、闇雲に公共投資をすれば良いという問題ではない。問題は、自分達の子孫にどのような国を残そうとしているのか。要は、志の問題である。

 財政赤字で一番問題なのは、実物経済と貨幣経済を乖離させてしまうことである。実物経済とは、実体的な経済であるのに、貨幣経済は、観念的な経済である。実体である実物経済に自ずと限界があるのに、貨幣経済には、限界がない。財の総量は、有限であるが、貨幣の総量は、無限に拡大できる。有限な世界を無限な尺度で測ろうとすれば矛盾が生じる。そして、実際の経済の限界が解らなくなる。限りあるものを無限なものに錯覚をさせる。財政赤字は、そのような錯誤を引き起こす。それが一番危険なのだ。

 財政破綻を考える時、企業の倒産を考えればわかりやすいかも知れない。現金仕入れはできる。

 その国の国民が生きていく、生活に必要な物資をその国だけで賄えるのか。賄えなければ、貿易でその不足分を補わなければならない。貿易で、不足分を補うためには、自国の通貨の信任がなければならない。その信任を支えているのが、財政と外貨準備高である。

 財政は、フローとストックから見なければ解らない。

 相対的価値とは、比である。故に、財政の規模や働きの是非は、経済全体に占める比率によって求められる。

 価値を創造することが可能な国家は、当初は、潤沢な資金を有する。その資金をもっぱら支出に向ける事から、国家財政は、下方硬直的になる。そして、一定の段階をすぎると急速に赤字幅が拡大し、財政が悪化する傾向を持つのである。

 経済価値の総量と通貨量(ストックとフローを含む)のバランスが価値の単位を決める。
その場合、フローよりもストックに問題が隠されている場合が多い。財政赤字は、ストックに問題がある場合が多いのである。

 確かに、資金が回れば破綻は隠せる。
 埋没した経済的価値と、表に現れた経済価値がある。問題なのは、表に現れない埋没した経済的価値の中に負の価値が含まれていることである。この埋没した価値がストックなのである。

 財政赤字は、民主主義のコストだという意見もある。政治家は、選挙に受からなければならない。選挙に受かるために、選挙区の利益代表的な働きをするようになる。政治家の要求を呑むと結果的に財政は赤字になるといって論法である。また、個々の要求は、妥当なのだが、部分を総合してみると、全体の利益に適さなくなる。つまり、部分適合の全体不適合の状態を生み出すという事も考えられる。しかし、いずれにせよ、国民の意識の問題だ。国民一人一人の意識を信用しないと民主主義が成り立たない以上、コストだと言って赤字を正当化するわけには行かない。だから、情報の開示と教育が必要なのである。

 民主主義を維持するためには、全体の状況が部分に還元される必要がある。全体の置かれた状況を部分が認知するためには、個々の部分が自律していなければならない。さもなくば、統制的手段が執られるかである。民主主義が有効に機能するためには、教育と情報、制度、機関が効率的、構造的に作用し合わなければならない。さもなければ、財政赤字をなくそうと思うと、大統領のような強い権限を持った指導者で、なければできなくなるのである。

 国民に重くのしかかるのは、増税、重税であろう。財政が破綻すればインフレによる調整か増税かの手段による。つまり、借金ができなくなるのだから、増収を計るか貨幣価値を下げるかしかない。つまり、増税かインフレかの選択しかなくなる。結局、財政破綻のツケは、国民が払わされるのである。
 我々は、国に守られているという自覚が乏しい。戦後の日本人は、護られている事が、当たり前になっている。災害で被害が出ると人災だと騒ぎ立てる。しかし、半世紀くらい前は、災害に襲われるために、甚大な被害が出るのが当たり前だった。自分で自分の国を護らなければ、他国の侵略を受け、人間扱いさえされない状況におかれるのが、当然であった。今は、治安が良くて、夜の繁華街も安心して徘徊できる。火災が起きても戦前のような、一つの町や村が灰燼に帰すと言った、大火事は出ない。(阪神大震災は別だが。)
 戦後、日本人は、安全と空気は、無料だと思っているといわれてきた。最低限の生活も社会保障によって守られてきた。この保障がなくなり、じぶんの身は自分の手で護らなければならない状況に置かれた時の事が、想像できるであろうか。国家財政の破綻で最も危惧されるのは、この最低限の保障がなくなるのではないかと言う事である。しかも、国家の独立すらも危うくなるのではないかという事である。

 国民が、国家に対して冷淡になりながら、過大な要求をする。財政問題の根っ子は、意外とそんなところにあるのかも知れない。

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