民主主義というのは、財政に最も端的に現れる物です。財政とは、予算です。ただ、ここで言う予算というのは、予算を作成し、それを執行するまでの過程です。民主主義は、手続きの思想ともいわれています。日本人は、手続きというと、事務的な事を思い浮かべるみたいですが、手続きとは、基本的に定型化された過程の事を指して言います。すなわち、政策が民主的であるか、否かの評価は、政策を予算化し、それを執行するプロセスが、民主的であったかどうかによって検証されます。
 守秘義務は、公正な手続きを踏む目的の過程で生じます。たとえば、入札前に情報を流したり、談合するのは、守秘義務に違反しています。しかし、住民に情報を公開したり、政治家に実体を説明するのは、守秘義務に違反しているとは言えません。患者に対し薬や病状を説明するのは、医者の義務です。それに対し、無関係な人間に対し当人の承諾なしに病状を説明するのは、守秘義務違反です。官僚がやたら守秘義務を振り回しながら、逆に、情報の公開を拒否するのは、非民主的な行為です。だから、民主主義は、反面、現場主義なのです。当事者同士が話し合って決めていく、それが民主主義の原点です。故に、民主主義は、分権主義的なのです。集権主義的だと民意が反映できなくなるからです。

 財政の働きは、双方向の働きでなければならない。人災という言葉が叫ばれている。しかし、元々、封建的国家の国民にとって国家は、災難の元なのである。国家と国民の関係が一方通行なものになれば、それは、国民国家にとって災難そのものである。

 教育を例にして、財政民主主義を考えてみよう。
 先ず第一に、教育に関する主権の所在はどこにあるのかが問題である。必要とする者、影響を受ける者にこそ価値がある。だからこそ、地域住民、保護者、教育者に、主権がある。
 第二に、設備や施設の所有権は、どこに帰属するのか。施設を、建設したり、売却、廃棄する権利は、基本的に、納税者にある。つまり、公立の学校の所有権は、納税者に帰すのである。
 第三に、教育の枠組みは、誰が作るのか。教育の枠組みを作るのは、教育の効果によって影響力が継続する対象である。教育によって一番影響を受けるのは、教育を受けた者が基本的に生活する場にある社会であり、住民である。ゆえに、一番、教育の枠組みに対する発言権があるのは、地域住民である。
 第四に、教育を受ける当事者の問題がある。むろん、幼児の当事者能力をどこまで認めるのかの問題はある。しかし、ある一定の年齢に対した子供達の当事者能力を安宅ら否定するのも行きすぎである。大体、民主主義教育の目的にも反する。
 第五に、保護者の問題である。保護者は、当事者が、成人に達するまでの間の行動に、責任を持たされている。また、当事者能力の観点から言えば保護者の意見を尊重しなければならない。現行の教育制度では、保護者の意見が、教育の現場に反映されるようにはできていない。教育に関して、教育の現場では、保護者の役割や能力、考え方を排除している。育児と教育を切り離しているからである。保護者や教育者、地域住民の当事者能力まで否定してしまうのは、行きすぎである。
 第六に、教育の内容を誰が、どのようにして決めるかである。カリキュラムや教育内容の決定権は、どこにあるのか。それを考えるためには、何を、義務教育とするのか。つまり、民主主義においてなぜ義務教育が必要なのかが、問題になる。
 第七に、教育者を誰が、どのようにして選ぶかである。教育内容に発言権を与えられないとしたら、教育者を選ぶ以外に保護者は、保護者としての責任を果たす術がない。教育者を雇用するのは、誰か。どのように、師を選ぶかの問題である。教育は、本来、師を選ぶところから始まる。ところが、現行、教育制度では、師を選ぶ権利も認められていない。当事者や保護者、地域住民の誰も望まない人間でも、一度、教師になると一生身分保障され、余程のことがない限り解雇されない。当事者や保護者に教師の情報が開示されることもない。教育者の人間性やモラルは問われる事がなく、審査の対象となるのは、有資格者であるかないかだけである。
 第八に、設備や施設の使用権、管理権がある。これは、実際に教育の現場で教育をしていく教育者が持たなければならない。

 まず、地域住民と保護者がどのような教育をすべきなのかについて、話し合い、要望にまとめる必要がある。その要望に基づいて、政治家と地域住民の代表者(教育委員会)、保護者会(PTA)が、その年度、それぞれの担当・責任範囲で教育の枠組みを決め。それに基づいて行政が予算案を立て、それを議会で審議した上で、予算としてとりまとめます。

 財政を検討する時、教育問題は、象徴的な問題だ。公立と私立が混在している。しかも、公立の中でも、国立、都府県立、市立と各段階で学校を経営し、なおかつ、付属のような系列もある。また、正式の学校以外に、専門学校や塾、予備校、通信教育、趣味や運動クラブと多種多様である。専門学校も資格取得を目的にした自動車教習所のようなものもある。また、外人向けの語学学校もある。また、補助金の種類も沢山ある。法人も、学校法人、財団法人、特殊法人と入り乱れている。時には、宗教法人も絡んでくる。外国人学校のように、一種治外法権な学校もある。この様な多様性が本来ある教育機関なのに、実際には、多くの制約を受けて、平準化されてしまっている。しかも、不正や利権の温床にもなっている。財政を考える上には、非常に示唆が多く含まれている。

 財政民主主義。民主主義は、端的に財政に現れる。それは、予算でも、結果でもなく、過程に現れる。財政民主主義は、それを執行する過程こそが、重要なのである。

 民主主義は、全てを合議に基づいて執行されていると錯覚している者が居る。こういう人は、何でもかんでも会議で決めようとする。合議は、意志決定の過程の不可欠な要素の一つにすぎない。問題は、意志決定の過程であり、それを執行し、管理する過程である。それらが、いかに、民主的に、つまり、民意を反映して行われているかによって、民主主義の真価は問われるのである。民主主義は、手続きの思想といわれる所以は、そこにあるのである。

 日本の場合、説明会はあっても、公聴会はない。あっても形式的なもので、現実には、官僚が予め大方を決めている場合が多い。これは、官僚独裁であって外見をいかに、民主主義に装っても、民主主義とは相容れない、異質なものである。

 選挙で政治家を選べば、それでおしまいというわけではない。政治家は、代理人に過ぎない。選挙民を代表して、国の政策を決め、方を定め、予算を立てていくのである。

 いろいろな役職につけられると偉くなったような錯覚をする者が居る。天から力を授かったかのごとく思いこむのである。そして、ミニ権力者になる。教育委員や父兄会というのは、地域住民や保護者の代表である。行政と地域住民、保護者との間にたって利害を調整するのが役目である。実質的な機能が失われれば、残るのは、立場だけだ。立場を守るために、権威主義になるのは、必然的結果である。
 要求されているのは、調整的働きであって、行政機関の補完的働きでも、代理的役割でもない。教育委員も父兄会の役員も、名誉職的なものでも権威主義的なものでもないのである。

 官僚や特権階級の独裁を許さずに、国民の考えや思いを実現するのが、選ばれた者達の役割である。市場経済による相互牽制が働かない以上、各機関の相互牽制機能に期待せざるをえない、だから、予算は、分権的、構造的でなければならないのである。

 また、教育においては、教育を受ける側の選択の自由が保障されていなければならない。同時に、教育機関や教育者の情報が開示されていなければならない。教育で最も大切なのは、思想である。思想、信条の自由が保障されている以上、教育者や教育機関の思想、信条の自由も保障されなければならない。この点を勘違いしている人間が多い。教育者や教育機関は、思想的に中立的であるべきだと思いこんでいるのである。教育者や教育機関の思想や信条が保障されている以上、情報を開示する必要がある。それは、教育を受ける側の思想・信条の自由を保障する必要からである。その上で、社会秩序を維持する必要上から反社会的、反道徳的な教育に最低限の歯止めをしておく必要があるのである。

 そのうえで、具体的なカリキュラムや教育方針、教育方法は、教育の現場を任されている教師と保護者との話し合いによって運営される事が、基本である。

 結局、教育は、標準化、平準化すべきものではない。そのうえ、教育をマニュアル化してどうするのか。教育において最も重要なのは、意志である。その意志も、する側の意志と受ける側の意志の双方とも重要なのである。教育の根本は、主体性である。教育者の主体性、保護者の主体性、当事者の主体性。主体性を基調にしている以上、一つの枠組み、基準の中に押し込むことはできない。だから、平均化できるようなものではない。選択の自由が確保された上に、更に、話し合いと合意が求められるのである。そのプロセスこそ、民主主義なのであり、それを実現するのが、財政である。

 民主主義は、合意を積み上げていくことによって成り立っている。故に、国家や法は、最低限の合意事項であることを忘れてはならない。最も、反映されなければならないのは、教育によって最も影響を受ける者の意見である。それは、国家でも、教育者でも、官僚でもない。教育を受ける当事者と保護者、地域住民である。ところが、現行の教育制度では、彼等の意見が最も反映されない。現行の教育制度で一番問題なのは、当事者が、意志決定のプロセスから除外されている事である。住民の意思と直結していない教育制度なのである。これでは、民主的とは言えない。まだ、江戸時代の教育制度の方が、民主的である。
 現場、当事者に近いところに意志決定の中心をおかないと民主主義は、有効に機能しない。なぜならば、便益と受益者、便益と予算とは、相関関係にあるからである。だから、財政は、本質的に分権的なものにならざるを得ないのである。

 自分の家を建てる時は、熱心なのに、学校や幼稚園、病院を建てるのは、人任せである。
今の、財政は、土建屋のためにあるようなものだ。だから、土建屋は、政治に関心が高く、選挙運動にも熱心だ。もし、市民が、自分の家を建てるのと同じように、学校や病院、公園について話し合えるような環境が、整えば、市民の政治意識も変わるであろう。

 教育に関しては、独立税主義が基本である。なぜ、国が教育を司る必要があるのか。それは、民主主義に反する。教育は、地域に根ざしたものであるべきだ。なぜなら、人間の生活は、地域、地域の気候風土、自然環境や風俗習慣に左右されるからである。その人が生きる、生きている環境に基づいた教育こそ、教育本来の目的に沿っているからである。

 教育の主導権は、生活に最も近いところが持つべきである。その意味では、教育の主導権は、地方が持つべきである。

 権力の本質は、武力です。それが、端的に現れているのが税金です。税は、強権を持って徴収される。それならば、その出口において民意が反映されないのならば、民主主義は名ばかりのものになってしまう。故に、税制の在り方は、民主主義の根幹に関わる問題である。民主主義が有効に機能するためには、税制度は、それが使われる所に近いところで機能する方がいい。それは、税のフィードバック機能が有効に作用するからである。
 中央集権的な体制では、財政の民主主義は保てない。

 このことを鑑みると、行政の基本は、地方自治にある。国防、外交は国家の仕事である。国家と地方自治の住み分けがうまくいくかどうかが、民主主義の成否の鍵を握っているとも言える。この点を考えると、情報ネットワークの発達は、財政民主主義の新たな発展を予兆させる。

 財政民主主義の歴史は、中央集権体制と官僚制度に対する絶えざる戦いの歴史である。
 教育の例が示すように、財政が民主化されてはじめて民主主義は実現する。


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