予算は、民主主義を制度的に構造的に実体化するものである。つまり、予算は、民主主義そのものであり、予算が、民主的に決められ、執行されていない体制は、民主主義体制ではないのである。

 制度的定義というのは、要件定義であり、概念的定義ではない。それを最も顕著に現しているのが予算である。
 予算こそ財政であり、財政こそ国家の在り方を最も具現化したものである。ならば予算は、その時の国家理念を最も具体的に示したものといえる。予算の重要性がそこにある。予算こそ、その時の国家の実像を映し出す鏡なのである。

 予算は、国家がその年に、又、将来にわたってやろうと言う事を具体的にしかも数値的に明確に示したものである。即ち、それは、どの様な公約よりも雄弁にその時の為政者の思想を反映しているのである。しかも偽りなく。それなのに、日本では、実質的な予算の審議がされていない場合が多い。(「財政のしくみがわかる本」神野直彦著 岩波ジュニア新書)

 予算と武力は、権力の源である。そして、その大本は、人、人事である。だから、予算を握る者は、権力者である。つまり、予算こそ国家そのものだと言っても過言ではない。戦前においては、軍事関係予算が国家予算の三分のに二までのぼった。軍事費を抑制しようとした高橋是清は、軍部によって暗殺されたのである。近年の予算の中で一番比率が高いのは、借金である。この様に、予算は、国家の有り様や理念を具体的に現している。誤魔化しようがないのである。ゆえに、国家予算は、国家理念を具現化するものといえるのである。

 財政支出の根本は、予算、即ち、計画である。つまり、財政支出は、最初に、予算ありきなのである。だから、国の根本である財政は、計画経済なのである。しかし本来、国家の根本は、予算ではない。国家理念になければならない。先ず、どのような国を国民が望んでいるかである。国民が平和を望んでいるのならば、平和のための予算を造らなければならない。豊かになる事を望んでいるならば、景気を良くする為の予算が必要である。国民が幸せになりたければ、幸せになれる予算でなければ意味がない。

 だから、予算を基礎にしてはならない。個人が家を建てる時は、立て終わったときが工事の終了であり、後は、メンテナンスになる。ところが、財政では、一度工事を始めると、いつまでも工事をやり続ける。日本人くまなく道路を張り巡らしても、道路を作り続ける。はんめん、必要な工事が疎かになったりする。必要でもない物を作り続け、本当に何が必要なのかは、忘れ去られていく。作ることが目的となり、計画性も設計もないままに、ただ、作られていく。堤防を見ると一定の区間で工法が、違ったりする。それは、予算だけがあって根本の国家理念が欠如しているからだ。
 予算の前に、どういう国にするのかという国家構想が必要である。国家理念がないところに予算だけがあれば、必然的に利権化する。大規模計画であればあるほど、一度組織化されると容易に解散することができなくなり、組織を維持するために工事をすると言う悪循環が始まる。上手く、組織を解散させるためには、いかに、事業を終わらせるかが、重要な鍵になる。
 予算というのは、時間的構造であり、空間的構造を基礎に持たない限り、限りない物になってしまう。

 教育は、予算がはじめにあってはならない。教育理念が重要なのである。教育理念は、思想であり哲学である。いくら、個人の思想信条の自由を認めた、尊重するからと言って国家が、教育理念を持つべきではないと言うのは行きすぎである。理念なき、教育は、屍にすぎない。ただ、醜悪なだけだ。結局、理念がなければ教育ができないのに国民的議論、選挙を通じての議論が封じ込められたら、教育者個人の思想に頼ることしかできない。教育者個人の思想は、チェックできない。土台、最初から共同体の理念を否定してしまったら、仕組みができない。これでは、予算は、いわゆる箱物、物質的な部分に限定されてしまう。それは、立派な校舎を造れば、良い教育ができる(これも立派な思想だが)と言われているようなものである。しかし、現代日本の予算制度は、今まで述べてきた思想に立脚している。だから、予算といえば、ハードウェアに限定されてしまうのである。しかし、本来予算で重要な議論は、教育で言えば、どのような教育をすべきか、どのような教育が望ましいかである。それがなければ、魂のない肉体のような代物になってしまう。

 そして、予算決定と運用の過程、つまりは、構造が重要なのである。なぜなら、民主主義は、決定され、執行されるまでの間に現れるからである。
 どのような教育をするかによって、どのような学校にするかが決まる。どのような学校にするかによって、予算が決まる。
 ところが、戦後の日本の国家予算は、最初に予算が決められて、その予算通りに執行されていく。つまり、最初に予算ありきなのである。敗戦によって根本を曖昧にしてきたつけが回っている。
 国防予算が、典型である。何から国を守るのかが曖昧なままに、予算だけが一人歩きしてしまっている。

 理念は、政治家や役人が作るものではないと言うことである。国民が、直接の利害者である地域住民が作り上げるものだと言うことである。
 主権在民とは、国民や地域住民、一人一人が主人であり、それを、代弁し、補佐するのが政治家であり、役人だと言う事である。

 使用者、消費者の立場に立った予算の執行が大切なのである。教育問題の当事者は、まず第一に、教育を受ける当人である。そして、順に保護者、教育者(学校)、地域住民、国家と言う具合に並ぶ。ところが、予算の執行は、この逆である。つまり、一番当事者が、一番後回しと言うより、無視されているというのが実状である。自分達の願いや希望が生かされない教育の現場からは、当然のように、熱意が失われていく。
 当事者が知らないところで、何も、教えられないまま、大切な事が決められ実行されている。これは、民主主義ではない。結局、国民を馬鹿にしているのである。

 単年度均衡予算制度、基礎的財政収支均衡主義は、財政を破綻させる。財政が豊かな時は、浪費にはしり、いったん予算化されると利権化しやすい為に、下方硬直的になる。
 インフレの時は、放漫になりやすく、デフレの時は、デフレ対策で過剰になりやすい。一旦破綻すると財政は、加速度的に悪化する。
 
 予算を使い切らねばならないと言う発想そのものが危険なのである。

 元々、公共事業は、巨額の投資を必要としている上に、採算に合わない事業である場合が多い。だからこそ、長期に渡った事業計画に基づいた資金計画や採算計画が必要とされるのである。しかも、事業が軌道に乗るまでの間、厳しい監視の下に置かれなければならない。

 単年度均衡予算制度、基礎的財政収支均衡主義では、これらの要件を満たす事はできない。

 予算が単年度均衡型予算でなければならないと言う理由は、所得の再分配からも、行政コストからも、景気対策からも導き出せない。それは、公共福祉と言う理由からしか根拠がない。しかし、公共の福祉という根拠も、実際問題からすると稀薄である。なぜ、公共の福祉ならば、収益をあげてはならないのかについて、あげるべきではないと言う理由がハッキリしないからである。

 予算について重要なのは、国家理念である。事前に確認すべきは、細かい数字ではなく、基本理念であり、そして、予算が決まったら、与えられた裁量権の中で本来の目的に合致した執行がされるか、否かを、監視する仕組みなのである。そして、その仕組みの在り方いかんによって民主主義が、実現しているかどうかが問われるのである。

 不正の是非は、事前にチェックされなくとも監視することはできる。現に、民間企業では、実施され、証明されている。事前に全てを予め決めてしまうことが、予算の正しい在り方ではない。世の中は、変化しているのである。変化や環境に適合できない予算は、それだけで、構造的に赤字を生み出していくのである。
 

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