現代の日本社会の中には、まだまだ、江戸時代の身分社会、士農工商の名残がある。

 公は正しく、私は悪い。官は、上で、民は、下である。官には、許されても、民には、許されない。どこかしらに、この意識が働いている。しかし、この意識が、資本主義社会を歪めている。なぜならば、公は、共産主義的であり、民は、資本主義である。

 最も、資金力のある公共機関が、事業に失敗するのか。それは、経済感覚が欠落しているからである。なおかつ、経済的価値観を卑しめているからである。蓋し、官僚や政治家が最も、経済的倫理観に欠落している。だから、自分達が、国民の血税を元手に事業をしている感覚がない。赤字になろうが、財政が破綻しようが、責任を感じない。事業が破綻しても、心配するのは、自分の退職金が、規定どおり支払われるか、どうかであり、事業が赤字でも、しっかりと高給を取る。

 民間企業では、とっくに倒産しているような事業でも、資金を供給し続ける。民間企業に、情報の開示を義務づけても、自分達は、秘密主義である。その根本には、公や官は、上で民は、下なのだという差別意識が働いている。
 差別の中で、一番悪質なのは、この手の差別なのである。

 官の論理は、清貧と平等主義である。

 しかし、それは建前に過ぎない。清貧と言っても、それは見かけ上のことであり、金銭に疎い振りをして、天下り先や退職金の確保に余念がない。平等と言っても、それは官僚内部の話であって、その待遇を見れば役人天国である。今や日本は、資本主義とは名ばかりで一種の社会主義、もっと言えば役人独裁主義である。

 不当な差別や贅沢は、許されないが、行き過ぎた、清貧や平等主義も危険である。清貧と言っても裏で何をやっているのかわからなければ、見た目で判断するしかない。清貧を装うことはいくらでもできる。いずれにせよ、モラルの問題である。平等と言っても身内意識が先行し、事なかれ主義、日和見主義、やってもやらなくてもどうせ同じなのだからと無責任を招くような平等主義では困る。その根本は、官僚の仕事に対する評価基準が明確でないことに起因している。余程、きれい事を言われた方が質が悪い。

 巨大な組織には、心理的な、落とし穴がある。落とし穴とは、組織の持つ力を自分の持つ力と錯覚することである。自分の裁量で動かされる金額が巨額になると、人間は、正常な感覚を失いがちになる。

 金は、潤沢にあるのだから、多少損をしてもかまわない。また、頭の中で空想した計画をそのまま実行してしまう。それが道徳に反する行為だという自覚がない。問題は、そこにある。
 会社を倒産させれば、民間企業の経営者は、社会から厳しく糾弾される上、経済的な制裁を受ける。しかし、官僚には、そういう事はない。

 金は、嫌われる。お金の話を持ち出すとお金の問題じゃあないだろうと叱られる。しかし、お金は、大事だ。資本主義社会では、お金がなければ、何もできない。
 特に、税金で生活している官僚や政治家は、常に、その自覚が必要だ。なぜなら、彼等が生活できるのは、国民が汗水たらして稼いだお金があるからだ。

 お金ではないとと言う人間に限って、お金に汚くなる。さもないと、金に対し無頓着となる。どちらも、お金にだらしなくなる。
 それは、お金を蔑視しているからだ。なるべく、金の問題を遠ざけている。だから、経済感覚というか、経済的倫理観を養う事ができない。金銭的道徳観が基本的に欠落してしまう。

 また、金銭的な問題に疎いから一度歯止めがなくなると、抑制が利かなくなる。元々、金銭的なモラルがないのである。

 年金問題は、端なくも、官僚の金銭感覚をあらわにした。ずさんな、年金の記録の管理が明らかになったが、その調査の最中、社会保険庁の職員や市町区村職員による年金保険料、給付金の横領が判明した。その件数は、現在明らかになっただけでも99件、総額3億四千万二円ものぼる。しかも、これらは刑事告発すらされていない。年金は、公金である。国民から委託されたお金である。それを横領しても罪に問われない。その様な仕組みに官僚機構はなっているのである。しかも、横領したとわかっていても、個人情報として実名すら明かされない。

 財政こそ国家理念を体現したものである。つまり、財政の在り方は、国家の在り方を具現化したものなのである。その財政を実際に執行するのは官僚である。官僚の姿勢こそが国家理念を良くも悪くもする。だからこそ、官僚のモラルが重要なのであり、官僚の金銭感覚が国家を左右するのである。

 ところが、財政を支配しているのが国家理念ではなくて、利権である。資源の配分を実際に行っているのは、国民ではなくて土木業界である。そして、社会保険庁の例を見ても解るように、官僚は、予算や利権を食い物している。やりたい放題である。官僚機構に自浄機能は働かない。身内の犯罪には甘く、それを告発し、糾弾することもできない。腐りきっているのである。
 官僚機関の腐敗は、財政赤字以前の問題である。いくら財政を健全にしようとしても、実際に財政を執行している官僚のモラルが不健全で私利私欲に走っている限り、財政を健全にしようがないのである。綱紀粛正である。

 たとえ、騙されたとしても、公金の場合、いい訳ができない。世の中に疎いから、世の中の相場を知らない。物の価値が解らないのである。常識がない。だから、うかうかと常識はずれの接待を受けてしまう。しかし、それは、公務員として許されない。

 経済的に自立していない者は、必ず、経済的につまずく。官僚は、経済的に自立すべきなのである。経済的に自立するというのは、経済的に保証されるという事ではなく。自分の実力や実績に基づいた経済的評価を受けるべきだという意味である。そして、正常な金銭感覚を身につけるべきなのである。少なくとも金銭を卑しむような風潮だけはやめるべきである。
 金銭的問題を低く見る傾向は、NPOやNGOといったボランティア団体や公共団体も同様である。公の仕事に従事するものには、とかく、金の話をするのは、何か卑しいような空気がある。そして、金の問題ではない、俺は、金で動く人間ではないという見栄みたいなものが働いている。それでありながら、所詮、金なのである。だから、金に汚くなる。

 ならば、清貧などと言わずに、自分の仕事をどう評価してもらえるかの問題にすればいいのである。
 だいたい、不思議なのは、人事権が、日本の行政では、その組織の長である首相、大臣が掌握できないことにある。人事権が機能しなければ、組織を統制することは不可能である。組織そのもの統制がとれなくなる。しかも、人事評価が公正、公平、中立な基準に基づいて客観的に行うと言う事になると事実上、人事権を行使しないに等しくなる。それは、学校の成績の延長線上でしかない。組織は、行き着くところ、人と人との問題なのであり、主観的な問題である。だからこそ、アメリカでは、大統領が交代すれば、主要なポストは総入れ替えになるのである。それが当然なのである。なぜならば、財政にせよ、政策にせよ、根本は思想だからであり、その思想を実現するのは、行政組織だからである。決定権を握っているものの人事、評価ができなければ、政策は実現できない。
 しかも、役人は身分保証がされている。先日もストーカー行為の果てに相手の女性を射殺した警官がいたが、その警官に割り増しの退職金が払われようとした。この場合は、退職金が支払われる相手の両親が辞退したことによって退職金は支払われないことになったが、余程のことがない限り、例え、犯罪だとしても、社会保険庁が好例だが、身分、待遇は保証される。
 故に、天下った先の公営事業が破綻してもその役人の身分は保証され、退職金も支払われる。運が悪かったと同情されるのがオチである。民間企業では、自分の部下の失態でも責任が問われるのである。これが御上意識である。
 やってもやらなくても結果は同じであり、使命感をもって一生懸命やって失敗をすれば責任をとらされるのならば、何もやらない方がいい。これでは、自分の仕事と報酬が結びつかない。仕事と報酬が結びついていなければ、経済的に自律しているとは言えない。悪い事をすれば罰せられなければならないのに、悪い事しても何のお咎(とが)めもない。これでは、不正をやらなければ損である。
 官僚機構を経済的に自律させるというのは、実績と報酬を直接的に結びつける事によって人事権に自律性を持たせることである。さもないと、官僚組織は、組織そのものを自己目的化してしまう。政策も制度も概念的定義ではなく、要件定義によるものなのである。故に、人事も、制度も、公正とか、中立と言った概念的なものである限りは有効に機能しない。人事評価を実績や能力、業績と言った現実的なものに置き換え、又、国民の意志や選良によって選ばれ政治家の政策に基づいて誠実に実行できる組織に官僚組織を変えない限り、財政の規律は保つことはできない。

 政治家は、清貧であれというのは、政治家像の一つの理想であった。しかし、国民は、本当に政治家に清貧を求めているであろうか。金に対し、潔癖である事、清潔である事は、必要である。しかし、貧しい必要はない。一国を代表する者が、みすぼらしくて良いというのは、偏見である。それは、卑しい考え方である。必要以上に華美になる必要はない。また、常に、疑られないように行動を慎むべきである。しかし、貧しい必要はない。

 スポーツ選手や芸能人が高額の収入を得ているというのに、世の中や人のために進んで危険な仕事や人が厭がる仕事について、それなりの成果があった者が、貧しくて良いという社会は、明らかに歪(いびつ)である。
 その人間が行った行為が、社会的に有益であるならば、それなりの報酬を求めるべきなのである。そうしなければ、片手落ちになる。子供達の倫理観が歪(ゆが)んでしまう。だから適正な報酬を求める事が、世の中のためなのである。

 権力側の人間は、自分達の持つ力を自覚すべきである。




年金横領 国民が納得できる追及が必要だ(9月5日付・読売社説)

 年金保険料横領の実態に、誰しも怒りを抑えられまい。

 社会保険庁や市区町村の職員が年金保険料や給付金を横領した事例が、少なくとも計99件、約3億4000万円あった。

 総務省に設置された第三者機関「年金記録問題検証委員会」に社保庁が報告し、初めて明らかになった。

 ただし、これは社保庁と自治体が把握している分だけだ。氷山の一角と見るのが自然だろう。さらに徹底的に追及し、全容を解明しなければならない。

 明白な犯罪行為に対し、社保庁は極めて甘い対応をしてきた。

 社保庁職員による横領50件のうち、刑事告発された事例は27件にとどまっている。18件はこれまで公表すらされていなかった。退職して処分を逃れたケースも5件ある。

 舛添厚生労働相は記者会見で「告発していない事例は今からでも告発する」と明言した。当然である。時効の壁もあるが、厳格に罪を糾(ただ)すことが必要だ。

 自治体職員による横領も49件、2億円を超える。公表されたのは32件止まりで処分状況もはっきりしない。市区町村が年金事務にかかわっていた2001年度まで、杜撰(ずさん)なのは社保庁だけではなかった。市区町村は自らの責任を自覚し、現在進行中の年金記録の回復事務に最大限協力しなければなるまい。

 社保庁報告で、“消えた年金記録”の実例が増えていることも重大だ。

 年金の納付記録が全くないのに、加入者が領収書を保管していたため権利が認められたケースが、新たに180件も判明している。5月時点では55件しか把握されていなかった。

 年金記録の確認に取り組む人が増えたためでもあろうが、短期にこれほど見つかるということは、同様の事例が相当数存在するのではないか。

 なぜ納付記録がないのか。事務上のミスだけでなく、判明していない横領事例が潜んでいる可能性もある。年金記録を回復させれば済む話ではない。これまでの検証委の調査は、踏み込みが足りない。“消えた記録”の経緯をきっちりと調べ上げる必要があろう。

 今回の横領事例のまとめにしても、所詮(しょせん)は社保庁の手によるものだ。検証委は座長を務める松尾邦弘・前検事総長をはじめとして、捜査・調査の専門家で固めた陣容だ。原資料に自ら当たって、社保庁経由では出てこない問題案件をあぶり出してもらいたい。

 どんな不正も見逃さない、厳正な検証報告を聞かなければ、国民は納得しないだろう。

(2007年9月5日1時21分  読売新聞)



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