本当の政治とは、国民を幸せにするためには、税金を何に、どのように使うかを考え、配分を決めることである。

 行政コストには、常を膨張圧力が働いてる。この膨張圧力を常に抑止していく必要がある。抑止する働きは、国家理念にある。戦後の日本の国防費が好例である。国家理念が、国防費を抑止し、戦前のような形で財政が逼迫するのを防いだのである。
 しかし、国防費は、行政コストの中でも、最も、抑止しにくい項目である事を忘れてはならない。戦前、軍事費を削減しようとした有力者は、何らかの形で、災難に遭遇している。暗殺された人々も数多くいる。適正な規模に国防費を納めようとするならば、何から何を守るのか、つまり、国家理念、国防思想を明らかにする必要がある。

 本当にその仕事が必要なのかについての検証がされていない。この必要性は、国家理念から導き出される。国民が何を望んでいるかが、必要性の根本なのである。
 どんな国にするのか。どんな街にするのか。先ず、それが、なければならない。その後に計画を立てるのである。金があるから、仕事がないからと言う理由だけで、予算を組めば、それは、すぐに利権化してしまう。

 かつては、有能な人材を海外から高給をもって雇ったりもした。明治維新直後は、これからの国家に何が必要なのかについて、必至に考えられたのである。そこで求められたのが、人材である。その時、先人達は、躊躇なく、海外から優秀な人材を招聘した。
 問題なのは、何が必要かである。必要とあれば、それをなんとしても実現すべきである。しかし、今日の行政には、この必要性という観点が失われている。
 これが行政コストを野放図にしている最大の要因である。何の考え、構想もないままにダラダラと金をかけている。無駄遣いの典型である。それが、国家レベルで為されているところに、悲劇がある。

 行政サービスには、採算性という基準が最初から欠落している。採算性は、経済性を測る唯一の基準である。採算性の前に、公共の利益、思想が立ちはだかる。つまり、金の問題ではないという論法である。しかし、結局は、経済の問題である。経済的に、立ちゆかなければ、夢は、かなえられない。この現実を無視してはならない。

 最初から費用も効果も考えていない。自分の仕事が、国民に喜ばれているかいないか、必要とされているかいないか、それすらも解らない。それでは、自分の仕事に情熱を持ちようがない。責任も持てない。国民不在以前に当事者が、不在なのである。やっている当人が自分の意志をもてないでいるのである。
 費用対効果が問われるべきなのは、行政サービスや公共事業なのである。そして、その効果は、市場原理ではなく、民主主義的原理でなければならない。
 ところが、官僚機構では、働きと費用が一対一の関係でない。だから、官僚組織では、コスト意識が働きようがない。
 お金を蔑視する者は、報酬を仕事の成果や労働の対価としてとらえる見方ができない。
彼等にとって報酬は、結局、身分による。だから、官僚機構では、身分が幅を利かす。これは、全体主義的、集権主義的、独裁主義的組織の特徴である。
 特殊法人を例に取ると、予算対してのみ責任を持ち、結果に対して責任を持てない。損失がでれば、国庫から補填される。失敗に対して責任を問われない。運用に対しては、政治家や責任官庁からの干渉が強く主体的な運用の余地が狭い。最初から責任を曖昧にして、採算性を度外視している。
 これでは、構造的に赤字を出していてるといわれても仕方がない。

 しかも、財政経費は、固定的性格が強い。つまり、巨額な投資を必要とし、工事に長期間かかる性格の物、民間企業では、なかなか採算がとれない物が公共事業である。この様な事業は、費用が固定されやすい。そして、費用が固定されやすい要因の一つが官僚制度である。

 行政コストの前に立ち塞がるのは、官僚制度である。

 官僚機構には、経営責任という発想が、土台からしてない。結局、誰がババを引くかの問題にすり替わってしまう。そして、自分は何も悪いことをしていないのにという被害者意識が基礎となる。

 官僚組織は、巨大になればなるほど、柔軟性や機動性を失っていく。そして、それに正比例して変化や環境への対応や適合ができなくなる。組織が巨大になり、手続きが煩雑になると、意志決定が分散され、責任の所在が不明利用になる。

 モラルがないのではない。モラルが保てないのである。

 成功しても、責任も問わられず、失敗した時だけ、責任を問われ、報酬にも差がなければ、人は、保守的にならざるをえない。しかも、身分保障がされていると進んでリスクをとる馬鹿はいなくなる。事なかれ主義、日和見主義が横行することになる。

 そうなると、流れ作業に従事する工員のように、ただひたすらに自分に与えられた職務を遂行する。それが官僚の行動規範なのである。阻害されているのである。

 官僚は、官僚制度にのみ忠誠を誓う。官僚にとって官僚機構は、自分の分身である。つまり、官僚は、自分自身に対してのみ忠誠心を持つのである。なぜなら、自己の働きをフィードバックする機能が官僚組織にはないからである。自分の働きを反省し、修正する機能を官僚機構は持ち合わせていない。あるのは、官僚機構の論理による評価だけである。必然的に、官僚は、官僚機構に対してのみ忠誠を誓うようになる。
 軍隊も官僚機構の一種である。このことは、忘れてはならない。軍は、国家や国民に対してではなく、軍という機構そのものに忠誠を誓う習性をもっている。故に、軍という機構を守るためになら、国家財政を破綻させても、装備に金をかける。何せ、金の問題ではなく、生命の問題なのである。しかし、軍が力を持っていて財政が破綻すれば、早晩、戦争になる危険性が高い。 

 また、組織の規模が拡大し、手続きが煩雑になると、利益を享受する者とサービスを提供する者との間が遠すぎるようになる。この事は、利益を享受する側の意志をサービスを提供する側の人間に伝わりにくくする。公共という概念が、私益という概念を圧する形でサービスの質を低下させる。この様なサービスの低下は、旧国鉄に顕著に現れた。
 官僚組織では、自分の仕事が、周囲にどのような影響を及ぼし、自分に対してどのように還元されるかを認識できない。なぜなら、仕事と費用が一対一に結びついていない。成果が、報酬に直接的に反映されないため、仕事に対する評価がフィードバックされないからである。しかも意志決定をする者とそれを執行する者とが同一ではない場合が多い。また、その仕事によって利益を得る者と、行政サービスを提供する者とが一致していない。つまり、自分の仕事の結果から、何の利益も当事者は、得られない仕組みになっている。これは、政策的に、意図的に、そうしている場合もある。一見この様な仕組みは、不正が防げて、公正であるように思われる。しかし、住む人間と建築する人間が違えば、建築する人間が、適当になるのは、防げない。しかも、その間に何重にも人や組織が入ったら、もはや利益を享受される側の意志は、反映する余地がない。公営住宅が好例である。住む人間に対する配慮が欠けている物件が多い。金は、民間より、かけているにもかかわらずである。お役所仕事と言われる所以である。

 最終的に利益を享受される者の意志が、反映されなくなると、必然的に、個々の組織の目的が、優先され。結果的に、既得権、利権が生じる。既得権益や利権が生じると、既得権益や利権に依存する組織が生じて、二重三重に、官僚組織を取り囲むようになる。そして、官僚組織は、この既得権や利権に依存する機構によって官僚組織の存在自体が目的化する。予算は、使うことが目的化し、さらに、使い尽くす事が目的となる。そうなると、無駄遣いが美徳にすらなる。現に、内需拡大を叫ばれた時は、壮大な無駄遣いが、奨励された。
 また、既得権益化すると自分の金でないのに、自分の金のような思えてくる。反面、自分の金ではないから、自分の懐が痛むわけでもなく、損失が出てもその人個人が損をするわけでもない。そうなると予算を使い切る一方で損失には、鈍感になる。

 既得権益、利権に依存すると他の産業に参入できなくなる。本来なら、自分達の努力で効率化していかなければならないところを安易に、公共事業を請け負うことで切り抜けようとする。それでは、競争力はつかない。

 官僚機構だけではない。特殊法人も同様である。民間ならば、倒産をして責任を問われるところが、高額の退職金をせしめて、渡り歩く。天下りは後を絶たない。私腹を肥やすなどと言う次元ではない。官僚機構そのものが、国家を食い物にしているのである。

 官僚は、特権階級である。

 そのうえ、この様な巨大化した組織は、ただでさえ、煩雑な手続きをさらに複雑にして、自己防衛をするようになる。この様な組織は、チェックする監視体制が機能しなくなる。 また、金額が巨額になると、気が大きくなる。細かいコストが気にならなくなる。無駄遣いが見逃されるようになる。この様にして無責任体制は、増幅されていく。

 組織が制御できないほど巨大化すると、セクショナリズム、縦割り行政の弊害が生じる。つまり、組織全体が、組織を構成する組織単位に分裂して、それぞれが勝手に独自の目的や利益を追求するようになる。そして、部分の最適化を追求して、全体の効率を犠牲にするようになる。
 
 また、だからといって、全体を一つの基準によって規制しようとすると、機動性や柔軟性が失われ、末端の部分が独自の判断で環境に適合して変化することが阻害される。その結果、ますます、中央集権化し、統制力を強めようとする傾向が強くなる。

 個別的目的を見失い。観念的な目的に支配されるようになる。しかし、行政を民主的に運用しようとすると個別的な目的が主となる。結果的に、行政と現実の社会が乖離してしまう。そして、官僚が作文をした観念的目的によって国民の意志は、踏みにじられていくのである。孤立した官僚機構は、自己を正当化し、自己目的化するために、中央集権化していく。
 官僚制度は、この様な経過を経て、国家主義や全体主義的な体制へと変質していくのである。
 国家主義的、全体主義的な体制は、環境に対する適合力が失われる。組織を構成する部分の自立性が失われることによって、部分適合、全体不適合の現象を引き起こす。
 
 この様な弊害を防ぐ為には、自立的組織を一単位として、組織全体を再構築するしかない。それが、財政の民主化の基礎になるのである。フィードバック機構を基礎とした開かれた組織作り、それが、構造化である。

 官僚機構の弊害が明らかになると、何でもかんでも、民営化してしまえと言う暴論が出てくる。

 しかし、民営化できない仕事がある事を忘れてはならない。民営化してはならない仕事がある。特に、問題なのは、民営化してはならない仕事である。権力装置である。国家理念にかかるものである。
 軍隊、警察、義務教育といった権力や国家理念に関わるものを民営化する事は、国家の主権を侵すことである。特に、軍や警察と言ったものは、権力の基盤である。私兵を、託(かこ)つ事になる。
 組織にフィードバックの働きを取り戻し、責任体制を確立することが重要なのである。そのためには、健全な経済的価値観を基礎にした機構作りが必要なのである。つまり、組織構造の健全化なのである。



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