権力者は、浪費家である。民主主義体制になり、国民国家となったとしても、それに変わりはない。権力を握ったものは、浪費家である。また、浪費家にならざるをえないのである。故に、権力者を監視し、抑制する者がいなくなれば財政の規律は失われる。
 都市、中でも首都が一大消費地であるというのは、政治権力の本質は、生産者ではなくて消費者だと言う事を象徴している。つまり、権力者という消費者が生産者を支配するというのが権力構造である。しかし、この権力構造が経済の根幹にある。

 財政赤字は古くて新しい話である。何も、財政問題は、今日だけの問題ではなく、歴代の為政者が、皆、苦しんできたことである。それに、財政というのは、ただ、節約をすればいいとは限らない。徳川幕府、三代将軍家光は、大変な浪費家で、五百万両蕩尽したと言われる。それでも幕府の御金蔵には、六百万両の金があったとされる。それが幕末には空になったと言われる。(「江戸の経済官僚」佐藤雅美著 徳間書店)
 貨幣経済体制が確立する以前と貨幣経済が確立された後では、財政の意味も役割も違ってくるのである。江戸時代というのは、その貨幣経済と即物経済とが未分化であり、貨幣の役割や意味、貨幣が象徴する対象が判然としていなかった。その為に、貨幣の流通と財政の機能とが混在していたので財政が確立できなかったのである。

 また、それは、俸給面においても同様の問題を孕んでいる。俸給が米のような実物による支給を主とした場合と、貨幣による場合では本質が違う。つまり、米のような実物は財そのものであるのに対し、貨幣は、財の交換価値を表象したものだからである。交換価値は、市場の需給関係を反映する。即ち、交換価値は、相対的な価値である。それに対し、使用価値は、必要性に依拠した絶対的価値である。相対的価値を絶対量で規定すれば、量と価値とが不均衡になる。つまり、実体と価値が乖離してしまうからである。過去の財政赤字の原因の一つは、それである。
 江戸時代のように、俸給や石高が初期に確定されて、それをずっと世襲的に引きずっていけば、現実の経済の変動を吸収する事ができなくなる。物価や景気が一定していれば、俸給も絶対額で賄えるが、物価や景気が変動すれば、その影響を受けないわけにはいかない。デフレの時はいいが、インフレになれば忽(たちま)ち窮することになる。しかし、デフレの時は、経済が縮小し所得が目減りするからその分、庶民の生活は苦しくなる。生活に窮して一度借金をすれば、収入は、一定なのであるからその借金は累積していく。何等かの形でインフレが続けば、当初の生活水準を維持しようとしただけで生活費は不足することになる。

 今日、財政破綻の危機が叫ばれる一方で、高齢者の増加に伴う社会負担の増加が危惧されている。その象徴が年金問題である。
 国家、政府の経済的負担はますます増大するのに、財政が破綻しかけているとされているのである。なぜ、この様な事態に立ち至ったのか。また、この事態をどう切り抜けたらいいのか。将に、正念場を迎えていると言っても良い。

 財政が破綻する原因は、財政が貨幣の時間的価値をその仕組みの中に取り込めないことである。市場価値が時間的に変化しているのに、財政の時間的価値は静止した状態にある。だから、財政は、赤字になるのである。
 時間的価値とは、収益と金利である。そして、財政のが時間的価値を持ち得ないのは、基本的に財政の思想が価値の時間的変化を認めず。予算の単年度均衡、絶対的評価、金利、収益を受け付けないからである。

 経済の仕組みは、合目的的なものである。必然的に経済政策も合目的的なものである。経済の仕組みの目的の根本は、分配にある。故に、経済政策の基本は、公平な分配の実現であり、その為の再分配である。極端な財の遍在やハイパーインフレや恐慌は、経済政策の失敗とシステムの破綻によってもたらされる。つまり、経済の目的からの逸脱である。財の遍在やハイパーインフレ、恐慌を避けるためには、経済目的を明らかにすると同時に確認をする必要がある。また、国家観や国家構想がなければ、経済の長期的目標を実現することができない。と言うよりも、最初から目標が存在しない。どの様な国を目指すのかに対する国民的合意の形成こそ経済目的の実現に不可欠な要素なのである。

 財政問題もこの分配の問題から考えられるべき問題である。つまり、財政は、公正な分配を促すための再分配の手段の一つである。だからこそ、財政部門と非財政部門との経済的連続性が重視されるのである。その為には、財政規模は、絶対額ではなく、相対的な基準に基づかなければ確定しない。故に、水準と比率が重要な鍵を握ってくるのである。公務員給与の額は、それ単独で確定するのではなく、民間企業の給与水準との整合性がなければ確定できないのである。さもなければ、公正な分配という経済目的を逸脱してしまう。しかし、だからと言って無原則に民間企業の賃金ベースを参考にするわけにはいかない。故に、民間と同じルール即ち会計原則に則る必要があるのである。

 企業は、あらゆる角度から経済性を追求される。それに対し、財政は、経済性を度外視している。
 財政の目的が、公共の福祉であったり、失業対策だという点に理由があるらしい。目的が、公共の福祉であったり、失業対策だとしても、経済性を度外視して良いという理由にはならない。

 財政は、国家の青写真である。長い期間をかけてどの様な国を建設するのかがその根本である。財政の真の目的は、失業対策、雇用対策ではない。社会資本の充実にある。生活の基盤作りである。我々は、先人達の遺産の上に暮らしている。我々は、子孫にどれだけの資産を残していけるであろうか。

 財政は、税制の問題でもある。税の問題は、国家・社会の基礎、土台をどの様な構造にするのかの問題でもある。それによって、国民の生活や人生設計に重大な影響を与える。

 財政と税収を連動させる必要があるのか。財政を税収の枠組みの中に押し込めなければならない必要性は何か。財政の本質は費用である。財政を税制に連動させる必要性は、財政の収益性にある。

 財政や税制として絶対に正しいという、体制や構造はない。それは、自動車、建物の設計に似ていて、その国の文化や歴史、地理的な条件、国家理念などによって微妙に食い違ってくる。

 税の問題は、最終的には、共同体間の分配の問題に収斂する。即ち、税と収益と私的所得の問題である。そして、個々の共同体は、自己の効用の最適を求める。

 政治体制の違いも影響する。単独政権、連立政権でも差が出る。財政は、構造的なのである。

 自由主義体制であるか、社会主義体制かは、思想的問題と言うよりも、構造的な問題である。つまり、共同体が、一つの全体として完結しているうえに、生産手段が、共同体社会に帰属していて統制的であるかどうかである。その意味では、軍隊にせよ、行政組織にしろ、社会主義的体制なのである。

 制度は、機能と目的に基づいて設計されるべきである。機能や目的は、経済構造、社会構造から割り出されなければならない。財政赤字の解消という対症療法的対応では、抜本的な解決は図れない。

 共同体内部の機能には、三つの場。第一に、立法的な場。第二に、定型的、恒常的、固定的な場。第三に変動的な場である。
 第一の場に働く機能は、第一に、調停。第二に、記録である。
 第二の場に働く機能は、第一に運営(統制・人事)という働き。第二に、経営という働き。第三に企画という働き。第四に庶務(作業)。第五に、外交という働き。第六に、資産管理。第七に、司祭・厚生である。
 第三の場に働く機能は、第一に実行(執行)。第二に主計。第三に計画。第四に、渉外。第五に事務である。

 行政のこれらのあらゆる局面で、財政は機能する。

 権力構造を維持するために、財政は費やされているのが現状である。先ずそこにメスを入れる必要がある。

 官僚と利権集団によって国家の中枢が乗っ取られていく。軍も警察も官僚機構の一部であるから、結局、この機構の擁護に回る。こうなると外見的な体制は意味を為さない。たとえ、表面的には、民主主義国家を装っていても実体は、中央集権国家である。

 財政単位を適正な規模に分かち、それぞれの単位に自律的な機能を持たせる必要がある。そして、その自律的機能の根本に会計を据える必要があるのである。

 アニメにでてくる合体ロボットのように、いろいろな部分、部品が合体したり分裂したりを繰り返しながら全体を作り上げているのが、実態なのである。

 貴重な資源を使い果たし、自然環境を破壊しながら、意味もなく道路を造り続けなければ維持できないような経済システムは、すでに破綻している。しかも、それによって財政が破綻するとしたらこれは、悲劇を通り越して、喜劇である。

 現代人の不幸の源は、自分達の限界を自覚しなくなったことである。

 資源が有限だという事それが重要なのである。

 人を殺したり、傷つけたり、物を壊すと言った、刑事上、また、物理的な犯罪を認識することは容易い。しかし、経済は、人と人との関係の上に成り立つ、観念的な犯罪である。経済的な事柄を犯罪だと認識することは難しい。しかし、経済的価値観に違反する事も、犯罪である事を明らかにすべきである。特に、財政に対する不正は、国家に対する反逆行為である。その様な犯罪に対して毅然とした態度をとることが重要なのである。先ず、国民の意識、特に、政治家の意識を変革する必要がある。

 財政は、自給自足的体制に根ざし、市場は、自給自足的体制が破綻したところで生じる。

 行政が市場経済に果たす役割の一つに市場の規律を保つと言う点がある。
 経済の規律を保つ為の法も刑法に準じる扱いをすべきである。経済的道徳も倫理なのである。社会正義なのである。

 財政は、常に、膨張圧力が働いている。この膨張圧力をいかに抑制するかが、鍵なのである。それでありながら、膨張圧力に比べて抑止力が弱い。

 これらが、コストの膨張圧力を増長している。

 経済をよくしようとすると多くの抵抗を受ける。それは、人気のない政策だからである。組織や制度改革といった抜本的な枠組み、構造の変更を伴う改革だからである。誰もが何等かの既得権益の上で生活しているからである。その既得権益を見直し、変化させることに繋がるからである。良い例が年金である。年金の受給者には既得権益がある。例えそれに問題があったとしても制度を改革することで、その既得権益が変更されることを嫌がるのである。
 
 産業や企業に過程があるように、国家にも過程がある。一つの過程で成功したからといって他の過程で成功するとは限らない。成長期と成熟期では違う。国家の発展過程に応じ財政も変わらなければならない。

 経済の構造化は、本来平和的手段で行われるべきである。しかし、既得権益社や官僚機構の抵抗が強く、国家が破滅的状況に陥ったり、戦争のような手段で他国への侵略を強行しようとした場合、革命的手段に訴えるのもやむおえない事である。

 結局、経済は、労働と分配の問題なのである。ところが、それがいつの間にか権力の問題にすり替わっている。一度既得権益が派生すると、その特権を守ることが仕事のようになってしまう。財政は、経済を在るべき姿に戻すことが役割なのである。その意味では、働く者が主役な時代にしなければならない。それは、財政の在り方の根本に関わる問題である。
 

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