会計の根本は、取引である。この取引という概念が財政には欠けている。それが重大な障害を生んでいるのである。

 取引というのは、交換を意味する。市場価値は、取引を土台にして形成される。取引があって価値は定まる。つまり、交換されなければ価値が生じないのである。そして、交換は、流れを生み出す。つまり、貨幣価値、市場価値というのは、交換と流れがあって生み出される価値なのである。そして、交換と流れは、個体差によって裁定される。この個体差が、価格差となってはじめて市場経済、貨幣経済は成り立つ。

 この論文は、市場価値から見ると無価値である。なぜならば、この論文からは取引関係が生じないからである。取引関係が生じない行為は、市場経済的に無価値なのである。取引関係がない行為を現行の会計は、経済行為として認識しないからである。故に、盗難も災害の被害も会計上では、取引行為として認識する。そうしないと、盗難や災害の被害を経済行為として計上できないからである。市場経済では、取引行為が大前提なのであり、取引行為が存在しない現象は、最初から認識しないのである。

 確かに、財政行為にも取引は存在する。しかし、その行為を財政では、取引として認識していない。
 例えば、予算である。予算は契約行為に似ている。契約そのものは、法的行為であっても会計的行為ではない。なぜならば、契約は、取引とは会計上認めていないからである。会計上は、契約を結んでも、実際に財の動きがなければ取引とは認識しない。予算も同様である。会計的に見ると予算は、取引ではない。行政的行為である。だから、予算は、会計的には経済行為として認識されないのである。それが、財政を市場経済から当座ける、乖離する原因の一因となっている。

 経営や経済の現場は、会計の論理で動いている。しかし、この会計の論理が、経済学でも財政学でも機能していない。だから、経営学や経済学は、経営の現場ではあまり役に立たない。しかし、経営者や経済の現場で役に立たない理論なんて意味がない。
 それなのに、なぜ、会計士は、経済について語る資格がないのか。経済について語るのは、もっぱら経済学者である。しかし、現実の経済の場で活躍しているのは、会計士である事は、間違いない。
 民間企業は、会計による監視システムによって、厳しく監視されているというのに、なぜ、財政は、別だというのだろう。財政には、経済の原理が働いていないと言うのだろうか。

 もう一つ財政赤字の問題を解りにくくしているのは、民間で言う赤字の概念と財政上の赤字の概念が根本的に違うと言う事に気がついていないことである。民間上の赤字というのは、会計学的な意味での赤字、損益上の赤字であるのに対し、財政で言う赤字というのは、収支上の赤字、キャッシュフロー上の赤字なのである。近年、キャッシュフローが重視されてきたとはいえ、企業業績に対する評価は、損益上の収益に基づいてなされている。ところが、財政上においては、損益上の収益が示されていないのである。それ故に、財政赤字が本当に悪いのかの会計的判定がつけられないのである。もし、損益上に置いても赤字だというのだとしたら、それは深刻な問題だが、収益が上がっているとしたら、それほど深刻な問題ではない。もっと深刻なのは、損益上の結果が報告されていない、また、報告する仕組みやルールがないという事である。そして、その原因が、収益を罪悪視する、儲けを否定する思想なのである。

 財政赤字の問題が一般的に見て解りにくいのは、民間企業が収益を基にして判断しているのに、財政は、収支を基にして考えているからである。民間企業において白融資上赤字だと言われてもピンとこない。それに対し、損益上赤字だというと大変だとなる。損益上の赤字が何期も続けば銀行も融資をしてくれなくなり、最後には、資金的に行き詰まって倒産する。ここで注意をして欲しいのは、収益が悪いからと言って、即、倒産するわけではない。資金繰りがつかなくなって倒産するのである。しかし、資金繰りがつかないと言うのは、収支上赤字だからと言うわけではない。つまり、ここで問題になるのは、損益と収支と資金繰りとは違うと言う事である。
 市場経済・貨幣経済では、収支よりも損益に重きを置く。収支は、経済主体の短期的実態を反映しても、特に、長期的な見地からの実態を反映していないと見るのである。それが大原則である。ところが、財政と家計は、収支に基づいている。そこに、事業主体と財政、家計との間に認識上の隔たりが生じているのである。それが、財政問題を解りにくくしている。
 世間の言う財政赤字は、収支上の赤字をさす。民間企業で言う赤字というのは、損益上の赤字であり、会計上の赤字というのは、後者を指しているのである。

 財政上の赤字と会計上の赤字とは、概念が違う。財政上の赤字は、家計簿に近い。しかも、歳入と歳出を均衡させなければならないという発想によって損益の均衡を考えていない。つまり、会計学以前の状態にとどまっているのが、財政である。民営化というのは、公機関を近代会計上の感情に置き換えることを意味しているのであり、商業を蔑視してきた封建的思想から脱皮することを意味しているに過ぎない。ならば、財政も会計学的基準、規範に置き換えれば、民営化するのと同じ効果がある。少なくとも、現在財政は、収益上赤字なのかどうなのかが解る。

 経済、財政、財務会計、管理会計の順で権威が下がる傾向があるように、私には、思えてならない。と言うより、、順に見下しているように見える。しかし、経営、現実の経済の現場では、逆の順に役に立っている。

 その場の動きや働き、人であれば、行動は、その場を支配する法則と他者との関係によって規制される。だからこそ、その場にいる者の動機や行動規範が重要なのであり、何によって行動規範は、影響を受け、形成されるかが、問題なのである。

 市場経済の場を支配する法則は、会計学的論理である。それに対し、財政の場を支配するのは、官僚主義的論理である。市場経済における価値基準は、採算性や生産性であるのに対し、合法性や合理性である。このことが、経済構造を分裂させ、きわめて、現代日本の経済構造を、きわめて、不安定な経済構造にしているのである。

 まず、日本の会計原則を見てみよう。会計原則は、三つの公準と七つの一般原則からなる。三つの会計公準とは、第一が、エンティティの公準、第二が、貨幣的評価の公準、第三が、会計期間の公準の三つである。次に、会計の一般原則とは、第一が、真実性の原則、第二が、正規の簿記の原則、第三が、資本取引・損益取引区分の原則、第四に、明瞭政の原則、第五に、継続性の原則、第六に、保守主義の原則、第七に、単一性の原則の七つである。

 それに対し財政の原則は、第一に、事前議決の原則、第二に、予算単年度主義の原則、第三に、超過支出禁止の原則、第四に、流用禁止の原則、第五にノン・アフェクタシオンの原則、第六に、収支均衡の原則、第七に、経済性の原則、第八に、公開の原則、第九に、明瞭性の原則、第十に、厳密性の原則、第十一に、統一性の原則、第十二に、総計予算主義の原則の十二である。そして、もう一つ重要な原則に、租税立法主義がある。

 会計と財政の大きな違いは、会計が結果責任なのに対し、財政は、事前決議だと言う事である。収支のバランスが会計では、重大な意義を持つのに対し、財政では、事前の予算が重要な意味を持つという点である。

 財政は、単年度均衡主義なのに対し、会計は、収益主義であるという事である。このことは、財政では、収益を前提としていない事を意味する。つまり、財政では、収支が重要なので、収益は、二の次と言うより、収益を目的とする事は、許されない、犯罪行為だとすらしている。そのために、収益をあげると国庫に返還される上、次年度から予算が付かなくなる可能性がある。

 財政は、現金主義だという事に対し会計は、発生主義、実現主義だということである。現金主義という事は、費用対効果の検証を前提としていないという事である。つまり、費用と効果は、別のものだと言うことである。つまり、公共事業は、元々不経済な分野であり、費用のわりに、経済的な効果を期待してはならない。財政は、ある意味で理想主義的な傾向をもっている。しかし、それは、最初から経済性や生産性を、全く無視していることに他ならない。特殊法人や第三セクターの経営が成り立たなくなるのは、必然的帰結である。

 決定的なのは、財政には、減価償却という思想がない。

 責任問題に関しても重大な違いがある。つまり、会計では、収益に対して責任があるのに対し、財政では、予算に対してのみ責任があることになる。
 一方は、収益に問題があれば修正をするが、予算に対して責任があれば、予算を執行する事に拘ることになる。

 財政の運用は、官僚制度によって為される。官僚は、当然、官僚主義的行動規範に則って行動する。
 官僚組織は、肥大化すればするほど、情報の伝達経路は長く複雑になり、それだけ、伝わりにくく、また、時間もかかるようになる。また、必然的に、意志決定も当事者から遠くなり、フィードバックも不可能になっていく。結果的に現場、現実から乖離し、無責任、非効率になる。

 人間は、自分の働きと他者との関係から自分を社会の中に位置づけて自分の存在意義を見いだす。そのためには、自分の働きを成果に関連づけ、その上で、その成果に対する評価を報酬によってフィードバックする必要がある。このフィードバックが、官僚システムでは正常に機能していない。

 自己は、自己の働きに対する結果を、フィードバックされる事によってはじめて自律できる。それは、自己の仕事の成果と報酬とによってフィードバックされる。この関係は、仕事と成果と報酬が一対一の関係において成立する。ところが、官僚組織のように組織が巨大化すると自己の仕事と成果と報酬の関係が一対一の関係を維持することができなくなる。いわゆる阻害である。自分の働きが、どのような仕事になっていて、どのように自分の報酬に繁栄されているかが、不明瞭になる。その結果、自分に与えられた職務に、忠実でありさえすれば良いという、価値観に、支配されても致し方ない。その結果、事なかれ主義、日和見主義が横行するようになる。
 反面において、自分の裁量で動かせる資金は、巨額となり、そこから官僚の奢りが始まる。結果、無責任で、独りよがりな独断、独善的な決定がまかり通るようになる。

 官僚組織は、外部からのフィードバックに依存しなくなる。その結果、官僚制度は、自己完結型組織、即ち、閉鎖的組織に変質し、官僚は、官僚制度にのみ依存することになる。つまり、官僚制度は、一種の運命共同体となり、内と外とを区別し、内に対しては融和的になり、外に対しては、敵対的になる。そのために、内部のチェック機能が弱くなり、外部からの抑制が働くなる。結果、一度、自己増殖を始めると制御することが困難になる。

 また、予算は、経済の変動にあわせて運用できるようにはできていない。官僚制度は、環境の変動を捕捉して、それにあわせて、自分の動きを制御する仕組みがない。予め予定された事をただ、ひたすら執行することを、義務づけられている。しかも、官僚は、身分保障されていて合法的な行動をとっているかぎり、責任は、問われない。しかも、一定期間、無事に務めれば、何らかの恩典が与えられる。また、決められた予算は、消化する事が、義務づけられていて、使い切らないと、次年度では要求額が減らされる。しかも、財政には、失業対策、雇用対策の側面がある。故に、経費は、下方硬直的で、一度膨張すると容易に縮小する事ができない。
 財政は、収入と支出が連動していない。しかも、事前に、歳入を正確に予測することはできない。歳出は、事前に決められている。その上、財政は、最初から、採算性という基準に基づいていない上、事前に決められた予算の方に拘束されている。しかも、財政を執行する官僚の行動は、採算性に置かれているのではなく、合法性に置かれている。
 その上、予算が巨額で、監視システムが上手く機能していないために、利権や既得権益が、必ずといっていい程、発生する。

 かくして、財政当局は、最初から、採算を度外視し、責任の所在を曖昧にしたままに、予算を、執行しているのである。
 つまり、財政は、構造的に赤字を生み出しているのである。

 

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