そもそも、財政学というのは、ドイツ・オーストラリアの宮廷官房学に端を発すると言われる。この事が意味するところは、宮廷官房学自体の国家財政の本質は、あくまでも王家の会計という私的な会計だったと言うことである。つまり、御上の会計、帝王の会計であり、国家収入は全て王家の権力維持と私用に使われ、国民のために使われたとしても御上の慈悲、施しに過ぎず。それに対して国民が異議を申し立てても、施しを受けているのに何を言うかと言うことになる。

 近代財政というのが成立するのは、国民国家が成立した以降のことである。つまり、今で言う財政は、市民革命によって国民国家が成立したことによって成り立っているのである。それまでの政府の役人は、主家の拝領よって扶持、即ち、所得を得ていたのに過ぎない。

 国民国家が成立する以前には、公という概念が存在しなかった。公の概念は、自己、つまり、私が確立することによってその対極の概念として成立する。私のないところに、公の概念はない。つまり、公というのは、極めて個人主義的な概念である。
 そして、財政というのは、この公の概念を基礎にして成り立っている。宮廷官房が私的な会計だと言っても今で言う私という概念に基づくものではなく。公私混同、一体となったところに成立している会計であり、王家にとっては、王家そのものが公なのであり、それ以外には、公も私もないのである。つまり、財政というのは、王家・帝王のための財政であって国民のための財政ではない。
 国民のための財政が成立するのは、国民国家が成立した以後の話である。
 その証拠に、日本の戦前、帝国時代では、財政の三分の二が軍事関連で占められていた。(「財政の仕組みがわかる本」神野直彦著 岩谷ジュニア新書)この様なことが可能なのは、大日本帝国は、天皇のために存在する国家であり、天皇制を守るための軍隊だったからである。ここで誤解してはならないのは、天皇のための国家と言っても天皇個人を指すのではなく、天皇制という国体を護持するためのと言う意味であり、例え、天皇であろうとも天皇制を守るためならば謀殺されかねなかったのである。天皇の統帥権の問題もここから始まっている。つまり、天皇の統帥権という聖域を儲けることによって軍は守られていたのである。それが軍国主義の本質でもある。
 本来、財政は、国家・国民、又は、国民国家のためにあらなければならない。同様に軍隊は、国家、国民、そして、国民国家を守るための組織、機関でなければならない。
 軍国主義を論ずるにしても、その点を明らかにしておく必要がある。軍国主義とは、巨大な軍があるから軍国主義というのではない。軍が国家中枢、政治権力を掌握している体制を軍国主義体制というのであり、寡兵であっても、政治権力を掌握していれば、それは軍国主義なのである。その意味で、戦前の体制で問題なのは、軍事費の多寡ではなく。財政が軍によって支配されたことが問題なのである。その結果が、財政の三分の二も軍事費が占めるようになってしまったのである。これでは、国家のために軍があるのか、軍のために国家があるのかわからなくなってしまう。
 日本が近代財政を確立するのは、戦後、民主主義が確立されてからである。民主主義が即ち、国民国家が成立する以前の財政と国民国家が成立した以前の財政とでは、本質が違うのである。
 国家の基幹的、又は、原始的機能とは何か。それは、外的の侵入を防ぎ、国内の治安、秩序を維持することにある。これらの機能は、脳で言えば、脳幹が司る器官のようなものである。故に、最低限の機能に特化してしまったような国家を夜警国家というのである。
 この基本的な機能を放棄すれば国家は成り立たなくなる。つまり、外敵の侵略や犯罪から国民を護れなければ、国家を維持する必要がない。国民の生命、財産の安全を保証するのは国家第一の目的である。
 そして、この機能を維持するために、暴力の行使を国内で唯一公認されているのが国家権力である。つまり、国家の機能の根源は、国家権力であり、国家権力の本質は、公認の暴力である。犯罪を野放しに、犯罪を取り締まれなければ、国家を維持する必要がない。その為には、絶対的な強制力が必要なのである。それが、その強制力を裏付けているのは国内で対抗する暴力を徹底的に排除できる暴力であり、権力なのである。
 この国家権力を制御するのが、民主主義という仕組みなのである。民主主義は単なる理念ではなく、国家制度という仕組みによって裏付けられた思想なのである。この制度を維持するために財政は、機能しなければならない。つまり、国民国家の財政においては、外的の侵入から国民を守り、国内の犯罪から国民を守るということの他に、民主主義という仕組みを守ると言う目的があるのである。
 民主主義と言う制度を維持する為に用いられる。それが、法制度と教育制度である。また、治安を維持できるような環境として、社会資本の充実がある。これらは、大脳や小脳にあたる部分である。
 法と教育は、不可分の関係にある。つまり、民主主義という仕組みは、基本的に法と手続の基づいているからである。そして、法と手続は、文書によって成立する。故に、民主主義を実体的に運用するためには、国民等しく一定水準の基礎的な知識、技術が必要である。基礎的技術、知識というのは、基本的に読み書き、計算と民主主義の仕組みに関してである。それ故に、民主主義においては、教育は国民の義務であると同時に国家の義務なのである。
 又、国民が最低限の生活が営めるような社会環境の整備も国家の仕事である。仕事であると言うより責務である。その為に、社会資本の整備と保全は、不可欠な費用であり、財政の重要な費目である。
 これらの基幹的な機能の他に、国家、即ち、国家財政は、国家理念に基づく機能が付け加わる。つまり、自由や平等というのは、国家理念であり、それに基づく国民の権利も国家理念である。
 この国家理念の実現を担うのが、資源の配分と所得の再配分である。財政の原資を確保すると同時に、所得の再配分を実現するための制度が税制度である。
 そして、今日、新たに加わってきたのが、国民生活の安寧を実現するための景気対策である。
 資源の配分、所得再配分、景気対策が国家理念を実現する手段である。自由と平等は、自由か、平等かという二者択一的なものではない。自由を極限まで突き詰めれば無政府主義になるであろうし、平等を極限まで突き詰めてしまえば全体主義になる。自由、平等というのは、自由と平等をいかに均衡させるかの問題である。そして、それは高度に制度的な問題なのである。資源をいかに配分し、所得をどの程度再配分するかは、制度の問題である。つまり、自由も平等も制度的に表現すべきなのである。

 国家とは何か。それを、実際的に現す事が、財政である。理念的な定義、哲学的定義、憲法的定義、法的定義と国家には、いろいろな定義の仕方があるが、その中でも一番実際的な定義は、財政である。だからこそ、高橋是清は、軍部に暗殺されたのである。
 財政から見て戦前の日本は、軍が主で、戦後は、経済が主である事は、明らかである。これから、我々は、福祉国家を目指すとしたら、当然、財政も福祉が主にならなければならない。しかし、日本の財政を占める項目は、福祉であろうか。残念ながら、借金である。このままいくと、国家とは、借金であるという事になる。

 ベニスの商人ではないが、諸悪の根元は、商人であるかのように言われている。日本の財政には、色濃く、この思想が反映している。

 経済の核は、商売である。ところが、商売人の価値観を否定している。経済は、私益であり、政治は国益だという間違った認識が根底にある。その証拠に、損得勘定の否定である。最初から、採算性という思想が、財政の根本で欠落している。まるで、採算性を問題にするのは、卑しいことのように。同様に、私利私欲も頭から否定している。頭から否定しているから、私利私欲を抑制できない。しかし、誰もそういう風には考えない。モラルの問題だと思っている。
 個人的な欲求からでるものは、エゴで、公の欲求からでるものは、正義である言った誤った認識がある。しかし、個人主義社会では、個人からでた欲求が基本である。
 教育にしろ、経済にしろ、組織にしろ、工業技術にしろ、現実の企業の中では、壮大な実験が繰り広げられている。しかし、国家や官僚の世界では、民間の技術革新を取り入れようとはしない。根本に置いて思想が違うという。それでは、現代社会の根源は、複数の違う思想によって成り立っているというのか。官の思想と民の思想は違うのか。また、それで良いのだろうか。

 現在、経済は、国家戦略である。それだけ重要なのである。それなのに、いまだに、士農工商である。確かに、軍人は、命がけで、国を守っている、それは、それで尊い事は認める。しかし、だからといって、商業を蔑視するのは、止めるべきだ。まあ、平和憲法下では、武士も悪者扱いだが。結局、武士でない士、即ち、官僚が、一番偉い事になるらしい。 

 官の思想は、どちらかと言えば、社会主義的、共産主義的である。官の人間は、民の思想とちがうという事を自覚していながら、それが社会主義だとは、思っていない。それが問題なのである。官は、市場原理が働かない。資本主義的な会計制度が成り立たないとハッキリと言っている。それは、官は、社会主義で良いといっているようなものである。

 儲ける事。蓄財。節約。勤勉。格差。実力主義。能力主義。実績。評価。主観。恣意。贅沢。利息。不思議な事に、現代の市場経済のはずの、資本主義社会ですら、こういうことは間違っていると思われている。
 反対に、平等。標準。客観。公平。公正。中立。こういう事が、絶対的正しい事になる。それも、おかしな事に、宗教的な理由である。

 こういう論理では、金持ちや資産家は、悪党である。戦争に勝った者は、英雄になれても、商売で成功した者は、英雄にはなれない。
 
 税制、税政を見ていると官と民が対立しているように見える。民間は、税をちょろまかす事しか、考えていない。民間から見ると税務署は、税を徴収することしか考えていない。しかし、本来は、官庁と民間は、経済構造の中で相互に補完すべき関係にあるべきなのだ。国民所得から見ると、税の問題は、結局、取り分、配分の問題であって、取った取られたと言った問題ではない。

 企業は、社会悪、必要悪な存在であるがごとき認識が横行している。だから、企業はいくら潰れても自業自得。会社を倒産させる方がずっと悪いはずなのだが、会社を倒産させても納税を優先させる。牛を殺して、角を貯める様な行為が平然と行われている。
 その一方で、特殊法人や公営事業が、いくら赤字になっても誰も責任は問われない。事業に失敗しても、高邁な理想や善意からでたのだから、仕方がないと逆に、賞賛されることすらある。事業は、採算性ばかりを追い求めるべきではないと、逆に説教をされる。高額の報酬や、退職金を受け取ったとしてもそれは、当然の権利だと開き直られる。
 最初から、採算性を度外視して、責任を曖昧にしていたら、財政は、必然的に赤字になる。しかし、それは、根本の思想である。この世の中、金だけじゃないよ。だがそういう人間に限って金に汚いのは、どういうことだろう。

 近代的合理精神は、真善美を価値観のよりどころとしている。しかし、価値基準は、真善美だけだろうか。
 価値観の拠り所は、なにも、真善美とは限らない。弱肉強食の強弱。勝った、負けたかの勝ち負け。服従するか、逆らうかの、順逆。信じるか、否かの、信疑。そして、損か得かの、損得。なかでも、損得は、近代社会の中で重要な位置を占めるようになってきた。
 近代以前、力の論理である、強弱、勝ち負けが、支配的であった。近代に入ってくると法や制度の力が強まり、真善美の正義が世の中を支配するようになる。そして、世の中の秩序が確立するに従って力の論理から法の論理、経済の論理へと、価値観の比重は移ってきている。その過渡期に現在はある。

 過渡期である現代は、力の論理と経済の論理が拮抗している。損得勘定が上手くできなくなると、ええい面倒くさいと力の論理が顔を出す。言うなれば、平和は損得勘定によって保たれている。

 真善美の価値観の他に、損得を加えるべきなのである。
 そして、それぞれの問題点を明確に分けて考えなければならない。

 損得という価値観からは、当然、反対給付、見返りが必要になる。この見返りという発想も、良識者にとって癇に障るらしい。平等や公平に反すると言う事になる。平等と同等とは違う。公平というのは姿勢である。スポーツで全ての人間をセーフにしたりアウトにすることを公平というのではない。一定のルールに従って、判定を下さなければ、それが、公平であるか、ないかは解らない。

 奉仕と言う考え方の陰にある傲慢さを見落としてはならない。見返りを求めないというのは、偽善である。適正な報酬を求めるのは、生きていく為に、最低限、必要な事だ。
 何でもかんでも無料奉仕でいいというのは、まるで商売人は、詐欺師だと言わんばかりの考え方だ。一円の儲けをあげるために商売人は、血の滲むような努力している。その努力の結果得た利益を卑しいという、卑しさ。
 奉仕活動を否定はしまい。しかし、それを生業とする者は、当たり前に、反対給付、報酬を求めるべきだ。官僚の中には、自分達は、天下国家のために働いているのであり、金の為に働いているのではないと言う者がいる。自分達の仕事は、国民に対する奉仕。自嘲を込めて、公僕という。しかし、そういう者にかぎって金に汚いか、金にだらしない。ならば、男の子役人の尊大な態度は、何なのだ。天下国家の為に働くのは、尊いならば、それなりの、報酬を求めなさい。その上で、金銭に潔白であればよい。
 損得勘定のできない者に、天下国家は任されない。損得勘定ができないから、戦争を引き起こすのだ。

 損得という価値観を正当に評価しないために、他の美徳まで失われてしまう。質素倹約と言った、美徳。無償奉仕という美徳。清貧という思想。それは、経済的にきちんとしていて、はじめて成り立つのである。

 良い例がテレビの視聴率や映画がヒットすれば、社会的に正当に評価されたと錯覚することである。正しいと思っていっているわけではなく、好奇心で見に行っていることもある。視聴率は、即、損得勘定に反映される。しかし、それで、善悪を判断できるわけではない。視聴率が高ければ、何をやっても許されるというのは、テレビ局の勝手に解釈である。
 多数決は、真であるかもしれないが、善でも美でもない。視聴率は、真であるかもしれないが、善でも美でもない。損得勘定は、価値基準の一つにすぎない。損得勘定がいいとなると、何でもかんでも、損得勘定で判断しようとする。全てを正当化しようとする。損得勘定で判断する前に、人間としての善悪の判断事があるはずだ。子供ではないのだ。問題は、ウェイト付けにある。

 財政活動に、どのような働きがあるかではなく。どのような働きを持たせるかを考えるべきなのである。むろん、その場合、副作用も当然考慮しなければならない。
 つまり、歴史的に見てではなく、機能的に見てどうかである。

 とにかく、商業に対する偏見や先入観を捨てることだ。そして、経済学の基礎に商業を据えることだ。それが、財政の健全さを保つために不可欠なことなのである。


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