パンをよこせと反乱した民衆が、国のためにと死んでいく。どこから、その差が生じるのか。

 君主国と国民国家では、財政の根本が違うのである。憲法の是非ではなく。国家体制に依るのである。そして、財政が違うと言う事は、税制も違うのである。君主国の財政というのは、君主国である以上、宮廷官房の延長線上にある。つまり、王家の会計、私的会計に過ぎない。
 だから、財政学の前身だと言われる官房学には、絶対君主の財源である鉱山、工場、田畑、森林、商業経営の知識まで含まれている。これは、君主国の財政の本質を現している。又、税の根本思想も現している。つまり、君主国における国家収入は、王家の収入、所得を意味し、税はその財源に過ぎないのである。
 君主国においては、道路や水道と言った社会資本への投資も君主の都合が優先された。特に、軍事的な目的と税収の増収のための投資が最優先された。江戸時代において街道を整備したのも主として軍事的目的であり、また、主な河川に橋を架けず、箱根に関を設けたのがその証拠である。交易の利便を計ることではない。国家の収入が国民のために使われるのは、国民国家の成立以後の話である。
 財政が私的動機に基づく限り、税は、民からの収奪である。国民のために、使われてはじめて税は、公としての機能を持つ。公の機能を持たない財政と公の意義に基づく会計とでは本質が違う。君主国の税は、王家に対する忠誠の現れ、貢ぎ物に過ぎず。社会に対する施策は、王の情け、恩恵、恵み、慈悲によるものなのである。君主国には、国家と言う概念さえ確立されていない場合すらある。民にとって税は、権力によって強奪それるものである。それが過剰になれば、民は、反乱を起こす。かつて、国家は災難の元だと言った者までいる。だから、国民の反乱の原因の多くは、過酷な税制度にある。
 国民国家と君主国は、この根本が違う。国民国家の財政は、国民のためにある。国民のために使われなければ、それは、犯罪行為である。故に、税の使い道である財政や予算に対する情報は常に開示されていなければならない上、いつでも財政や予算の決定手続は、国民に解放されていなければならない。
 故に、国民国家における税制度は、国民の合意を前提としている。これは国家予算の成立手続に現れる。国家予算は、国民国家においては、国民、ないし、国民の代表者からなる国会の承認がなければ成立しない。それが財政の大前提である。又、多くの国民国家においては、予算は立法行為の一つでなければならないのである。政治家にとって大切なのは、選挙時の公約や演説の内容以上に、財政や予算の決定にどう関わったかである。戦前、高橋是清は、軍事予算を削減したことによって軍部の恨みをかい暗殺された。政治家にとって予算の編成は命懸けの仕事なのである。

 多くの国民国家は、自分達の血によって国民国家を勝ち取った。その点、日本は、敗戦によって与えられた民主主義である。その為に日本では、まだまだ財政や税は宮廷官房時代の名残を残しているように思われる。予算も、財政も、税も、まだまだ、取る側も取られる側も、御上意識から抜けきれずにいる。それが、予算の審議にも現れている。予算の審議と言っても実際には予算の内容を吟味するのではなく、政争の場に活用されているのが現実である。予算は、国家理念や国家政策を具現化したものである。予算の審議を通じて我々は、国家の在り方や方向性を明らかにしていくのである。いくら、平和を主張しても軍事が突出して上昇すれば、それは、やはり軍事大国化を目指していることを意味するであろうし、いくら、資源の適正配分を言ったところで、予算が硬直しているのであれば、陰で利権が派生していることを暗示するのであり、小さい政府を標榜しても予算の増長を抑制できなければ、それは大きな政府を志向していることになる。言葉で騙せても、予算は正直なのである。それ故に、政策や公約、理念に基づいて予算を吟味すれば政治家の隠された意図が判然となるのである。

 財政は、国家理念が基に無ければならない。ところが今日の日本で羽振りをきかせているのは利権である。財政は、本質的には、どこからどこまでが、国家の領域で、どこからどこまでが民間企業の領域で、どこからどこまでが家計の領域かを明らかにする行為である。つまり、国家の領域の線引きをする事なのである。予算とは、線引きをする事で、自分の国家観や国家理念を明確にする作業なのである。無原則に民営化するというのは、この根本を理解していない証拠である。例えば、警察や消防士、刑務所といった国家がやるべき事を民間がやれば重大な事態を引き起こしかねないのである。国家がやるべき仕事か、民間にまかせるべき仕事か、どこに線引きをするのかによって国家理念は形成される。無原則や流行で何でもかんでも民営化してしまえと言うのは、無節操で危険な思想である。
 線引きをする為には、国家を観念的にではなく実体的に定義する必要がある。例えば、スウェーデンでは、税負担を多くするが、社会保障制度を厚くすることで平等を重視した体制を作っているし、アメリカでは、税負担を相対的に軽くする変わり、社会保障制度を薄くして自己責任型、自由主義的な体制を築いている。それは、税体系にも現れている。アメリカでは、直接税中心で、所得税が主であり、社会保障は低い。それ対し、スウェーデンでは、間接税も所得税も高い。反面、社会保障が充実している。これは、国家理念の差である。つまり、アメリカでは、自由を重んじて個人の能力が反映する仕組みを選択しているのに対し、スウェーデンでは、国民同士の助け合いを重んじた体制を選択したという事である。それに対し、日本は、アメリカ的な世界を目指すと言いながら、消費税を増税する。そこには、根本的な国家理念が欠如している様に思われるのである。
 この様に民主主義は、国家理念を言葉による公約だけでなく、政策や制度に反映することによって表現し、かつ実現していく。実体的な思想なのである。
 国民国家において自由も平等も制度的に実体化していくものであり、観念の所産ではない。そして、それを最も具現化するものの一つが財政である。

 経済が原因で、戦争は引き起こされる。戦争の背後には、必ず、経済的動機が隠されている。なぜなら、経済は、個人的利害に基づくからである。その個人の打算が、大勢を動かし、政治的な動きになり。政治的に決着しないから戦争になる。ただ、政治的に決着するのは、難しい。なぜなら、経済的な動機が背後にあるからである。

 政治的な破綻が、即、国家、政体の破綻に結びつくとは、限らないが、経済的破綻は、国家政体に結びつく。なぜなら、経済は、国民一人一人の生活に根ざしているからである。
経済は、国民、一人一人の死活問題に、直接、結びついているのである。だから、パンをよこせと民衆は、反乱を起こすのである。

 なぜ、他国を命がけで侵略するのか。それは、経済的な理由があるからである。逆に、経済的な理由がなければ、危険を冒してまで他国を侵略したりはしない。富や資源、財宝、金が目当てで他国を侵略するのだ。戦争の本当の動機なんてそんなものだ。
 正義や理想のために、暴力までふるうだろうか。暴力をふるったとたん、正義も理想も失われる。だとしたら、正義や理想は、暴力をふるうための大義にすぎない。自国が生きていけないとなったら、なんだかんだと理由を付けて他国を侵略するのである。死活問題とは、つまりは、経済の問題である。つまり、戦争における大義とは、他国を侵略するために何らかの理由づけにすぎない。
 逆に防衛的な戦争というのは、自国の富や資源、財宝、金を守るための戦争である。つまり、自国の富や資源、権益は、国家の死活問題、国家の死活問題とは、国民一人一人の死活問題だから、命がけで守らざるを得ないのである。座して死を待つくらいならば、戦って道を切り開こう。
 ただ、口が裂けても金銀財宝の為に戦争をするとは言えない。だから、大義が必要なのである。翻って言えば、経済の問題は、それだけ重要なのだ。

 合理的な解決がつかなくなると、人は、武力に訴える。経済は、基本的に合理的なものである。故に、経済が合理的に調節できなくなると、政治的な力、軍事的な力が働くことになる。政治的な力、軍事的な力が働き出すと経済的な理由は、影を潜め、やがて忘れられていく。

 だから、戦争の背後には、必ず、経済的理由が隠されている。特に、財政の破綻は、直接国家権力に影響を及ぼす。故に、財政の破綻は、戦争や国家の破綻に直接結びついていく。

 戦争をしなければ、経済の問題が解決できない。原因は、そこにある。人間は、現実を直視しなければならない。戦争によらず経済の問題が解決できれば、戦争は、相当数回避できるはずである。逆に、経済の問題を平和裡に処理する国際的な仕組みができなければ、戦争はなくならない。

 政治家や軍人は、命をかけているというのに、商売人は、いつも安全なところにいて、自分の利益ばかりを追求している。つまり、結局、陰で自分達を操っていながら、自分達は、安全なところにいて、利権だけを貪る。そういうふうに、捉えられている。しかし、実際は、経済的な原因が根本にあることを示しているのである。経済は、原則的に戦争を望んでいない。経済活動に支障が生じるからである。その証拠に、世の中が乱れると経済も乱れる。それを利用して利益をあげる者がいたとしても、経済活動から見ると弊害しかない。経済は、争いを好まないのである。争いを好むのは、山賊、夜盗の類である。世の乱れは、経済活動を停滞させる。

 経済の問題の根本は、思想、哲学の問題なのである。つまり、経済を蔑視する思想から脱却し、経済を哲学的次元から捉え直す必要があるのである。
 言い換えれば、経済に必要なのは、思想であり、哲学であり、道徳なのである。経済は、倫理から最も遠いように見える。商売人の神様というのは、滅多にいない。しかし、商売の神様というのは、結構いる。神聖視するのは厭だけど、求めてはいる証拠だ。それでは、経済倫理は、いつまでも確立できない。

 経済に必要なのが思想や哲学、道徳ならば、当然、財政に必要なのも思想や哲学、道徳である。

 経済は、個人の現実的な幸せを実現し、平和な社会を実現することにその本来の目的がある。経済的手段が破綻した時、政治的な手段に、そして、戦争へと発展していくのである。
 たとえ、戦時下であっても、経済活動は、片時も休む事はない。政治的な空白が生じても経済的な空白が生まれてはならない。なぜなら、経済は、人間一人一人の死活問題だからである。

 Since 2001.1.6
本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano

プロローグ