プロローグ


 戦後、日本人は、結果のみを追いかけてきたように私は思う。その結果が、金、金、金である。
 人の世の犯罪の多くは、経済的動機にある。それは、経済が生きていく上で不可欠な要素であることの証である。
 人間関係のもつれが動機のような、一見、経済とは無縁なところで生じた犯罪に見えても経済的動機が、根底に隠されている場合が多い。例えば、貧困である。
 生きていく為に欠くことができないから人は、経済的理由で罪を犯すのである。逆に言えば経済が立ち行かないから犯罪が生じるとも言える。

 貧困は、極端な格差が生み出すものである。絶対量の不足は、貧困ではなく災害である。貧困は、配分の偏りによるものであり、相対的なものである。ならば、全てを、一律、同等に分配すればいいかと言うと、そうもいかない。それは、自己の認識にも対象にも個体差があるからである。例えば、肉を均等に分けようと言っても、肉は、部位によって差がある上に、個人には、好みの差や必要量に差があるからである。ただ肉を重さで切り分けただけでは均一にはならない。つまり、分配というのが、経済最大の難問なのである。

 戦争は、人類が生み出した最大の惨禍である。現在、人類は、何万回も自分達を滅亡させるだけの兵器を所有している。また、国費の多くの部分を軍事費に割いているのである。軍の有り様は、経済の有り様をも左右するほどである。
 この様な戦争の根本的原因は、経済である。経済が安定してなければ、戦争はなくならない。平和の根源は、経済なのである。

 人間には、奢りがある。「猫に小判」「豚に真珠」と言うけれど、猫は、小判のために、同類を殺したりはしない。ならば、人間と猫のどちらが小判の真の価値を理解していると言えるのだろうか。人間は、猫や豚は価値がわからないと嘲るが、所詮、人間が生みだした価値は、人間にしか通用しないのである。

 現代社会は、高収益を上げている企業を称賛する。金儲けに長(た)けている者を、英雄視する。金が全てだと彼等は、叫び。金さえあれば何でも手にはいると豪語する。
 現代人の多くは、金こそ、経済だと思い込んでいる。経済は、金銭によって全て捉えきれる。金銭的価値を追求すれば、経済は上手く廻っていくと信じ切っている。特に、現代社会の倫理観をリードする言論の世界、マスメディアは、視聴率や収益ばかりを追求し、守銭奴的傾向が強い。
 以前、公序良俗に反する映画が問題になったが、メディアの反論は、ヒットしたから良いではないかということである。そして、自分達に都合が悪くなると言論の自由を持ち出す。そして、メディアは神となった。
 例えて言えば、高収益のために非人道的な行為がされているかどうか、会計以外の不正な行為がされているかどうかは、数字上には、なかなか現れてこない。ばれなければ、犯罪を行っても収益が良い会社は生き延びていくのである。保安や環境保護は費用がかかり、収益を圧迫することを日本のメディアは無視する。経済とは、何かという本質は、結局、見失われてしまったのである。というよりも、金銭以外に経済を考えることができなくなってしまった。
 しかし、経済とは、現実である。日々の営みにこそある。つまりは、生きる為の活動全般である。金銭的活動だけで捕捉しきれるような現象ではない。

 その好例が教育である。教育の目的は、良い大学に行って、良い会社に就職することだけではないはずである。
 しかし、今日の教育は、教育そのものが自己目的化し、自己目的化することによって教育産業なるものを生み出してきたのである。そして、教育問題は、専ら、教育産業や受験問題に矮小化されてしまっている。その陰で、教育そのものの崩壊が始まっているのである。

 国家や政治、経済の目的は、働き、機能から求めるものであり、結果からのみ求めるべ きではない。教育の目的も同じである。

 いかに国が成長発展したとしても国民が鬱々(うつうつ)として楽しまなければ、それを真の繁栄とは言わない。
 国家も、政治も、経済も、その目的は、国民一人一人を幸せにすることにある。ならば幸せとは何か。幸せの定義が問題になる。
 幸せは、結果には求められない。なぜならば、人生は、過程・経過であり、結果ではないからである。今日、良くても、明日良いとは限らない。昨日最悪でも、今日は最良かもしれない。人生における結果は、断面に過ぎないのである。
 有名になる事も、金持ちになる事も、地位をえる事も結果に過ぎない。結果ばかりを追い求めると本来の目的を見失う。本来の目的は、働きにある。家族の為に、働き。世の為、人の為に働く。それは、家族の幸せ、ひいては、国民一人一人の幸せのためである。だから、天命なのである。天から与えられた使命なのである。偉くなるためではない。人々を幸せにするために働く。だから天命であり、使命なのである。結果からは天命はえられない。
 今の、政治家も、官僚も天命を忘れている。

 また、人の幸せは自己実現にある。
 自己実現とは、この世に自己を実現することである。つまり、この世における自己の役割を見出すことである。子を成して、親の働き、役割を知る。そして、親となる。子供を産んだだけでは自己実現はできない。自己の意志、魂、心、気があってはじめて親となる。故に、親とは、結果ではない。働きである。子を成しても親としての役割、働きができなければ、幸せにはなれない。だから、家庭が崩壊する。現代社会は、結果ばかりを追い求めている。だから、家族の絆、働き、役割が失われ、家庭が崩壊する。家族の目的が失われているのである。それでは、家族はバラバラだ。幸せにはなれない。

 そこに住む者が、働くものが、自分自身が幸せになることが究極の目的なのである。だから、そこに住む者が、働く者が、自分が不幸せになることを排除しなければならない。犯罪や侵略、災害から国民を守る。それが、国家の役割である。

 国民国家の目的は、国民一人一人の安寧と繁栄にある。そして、自己実現の場を国民に提供することにある。そして、その国家の目的を実現するために、政治や経済の目的がある。それは、政治や経済の働きから求めなければ解らない。

 企業にせよ、国家にせよ、その企業や国家は、その企業や、国家を愛する者のために存在する。なぜならば、その企業や国家を愛せない者は、その企業や国家の存在を必要としないからである。

 戦後、反体制主義者や反国家主義者、原始アナアキストが、行政府の中枢、言論界、教育界を支配した。その為に、国家や経済・教育の目的が、反国家的なもの、破壊的なものにすり替えられてしまった。

 国家は、一つの仕組み、装置に過ぎない。使い方一つで、利器にも凶器にもなる。ところが、権力をただ悪い物だと決めつけて、闇雲に否定してしまえば、権力を正しく活用することなど出来はしない。
 そのくせ、自分達が権力を掌握したら専制的、独裁的本性をむき出しにする。元々、権力を認めていないのであるから、自分が権力者になった時、抑制が効かないのである。

 制度は、論理的に形成されるのではなく。歴史的に形成される。

 企業は、自身が、存在せんが為にだけ存在しているわけではない。つまり、企業を自己目的化するのは、間違いである。つまり、企業の目的は、儲けることだけにあるのではなく、収益は、あくまでも副次的なものである。
 企業の目的は、第一に、企業に働くものに対し、生活の糧を供することにある。第二に、取引業者に仕事・代金を提供することである。そして、第三に、株主に利益の一部を還元することである。第四に、税金を納める事で行政府に資金を提供することである。第五に、雇用を創出したり、財の製造・分配・流通を測ることによって社会に貢献することである。

 企業の目的を、結果としてみるか、働きとして見るかの違いは、賃金をコストと見るか、生活費として見るかの違いとして現れる。企業は、運命共同体である。企業から、当該企業で働く者が生活していく上で必要な原資を受け取っているという事実を見落としては成らない。
 よく株式会社は誰の物かという問いに対し、株主の物だという。しかし、それは一面の真実しか見ていない。株式会社は、株主だけの物ではない。なぜならば、株主は、出資しただけに過ぎない。実際に仕事をしているのは、従業員である。だからといった、株式会社は、そこで働いているものだけのものだなんて言いたいわけではない。ただ、企業の実体を一面からしか見なければ、本質を見落としてしまうと言いたいのである。特に、そこに生きる者を度外視したら、人間性が失われてしまう。

 良い例が、今の企業の実態である。結果ばかりを追い求めるから効率のみが重視され、人間性が失われてきている。合理化、合理化によって社員の生活、幸せが蹂躙されてしまっている。そのような企業にどのような社会的価値があるといえるのであろうか。会社は、栄えてもそこで働く者達は、呻吟し、何も報われないとしたら、何のための繁栄なのであろうか。

 一万人で一億の利益をあげる企業と百人で一億円利益をあげる企業とでは、現在の尺度では後者の方が優れていることになる。しかし、前者は、一万人の生活の面倒を見た上で尚かつ一億円の利益を上げているのに対し、後者は、百人の生活の面倒しか見ていない。社会的な効用から見ると、前者の方が遙かに大きい。この点を現代人は、見落としている。ただ、結果でしか企業の目的を見ていないからである。

 同様に、行政府は、行政府のために存在するのではない。国家が自己目的化した時ほど危険なものはない。

 財政が赤字になるのは、何らかの結果である。財政や政策が働き、機能から見て妥当なのに赤字が発生するとしたら、それは、構造的問題である。デフレやインフレは、現象として現れた結果である。それが、必要以上に昂進する場合は、構造的問題である。
 頭痛、発熱、吐き気と言った症状は、病気の結果である。その病気の原因をつかまずに、痛み止めや解熱、下剤を飲んでも病気が快癒するわけではない。仮に治ったとしても、自然治癒したに過ぎない。経済も同様である。現象として現れた結果ばかりをおって対症療法をしたとしても経済を安定することはできない。経済現象の背後にある原因を突き止め、構造的な対応をしないかぎり、抜本的な解決には至らない。

 明らかにしなければならないのは、財政の働きである。財政の働き・機能は多様であり、また、相対的であり、一意的に決めつけることはできない。故に、よく観察しながら、財政の果たしている役割を見極める必要がある。その上で財政の在り方を問うのである。

 行政府は、行政府が成り立つためだけに存在するわけではない。行政府は、国家目的を遂行するために存在している。また、国民国家にあって行政府は、国民があって成り立つ。民間企業や家計と、財政は、相互依存関係にある。それ故に、民間企業と家計は、相対的基準に基づいている。しかし、財政は、他の何物にも依存しない絶対的基準に基づいている。その為に、環境や状況の変化に柔軟に対応することができないのである。
 行政府の財政の目的は、行政府に働くものに供すれば事足りるわけではない。国家国民の役に立ってはじめて意義がある。だからこそ、財政は、国家国民との関わり合いの中で定められるべきものである。つまり、絶対的基準によるものではなく、相対的基準によるものである。
 内的な基準だけでは、実績を相対化する事はできない。絶対的な基準では一方向の働きしか導き出せないからである。例えば、組織の増殖やコストの増大は、内的な圧力だけでは、抑制したり、圧縮できない。抑制したり、圧縮するためには、常に内部圧力の反対方向の外部圧力が働く必要がある。内部圧力と外部圧力の均衡によって組織は環境に適合する。組織が環境に適合するためには、車に、アクセルとブレーキが必要なように、双方向の働き・作用が必要である。それ故に、内的基準、内的牽制装置しかない財政は破綻する宿命にある。財政を外部基準と連携した形で相対化させない限り、財政は成り立たない。その上で、相互牽制が効く仕組みにしなければならない。つまり、財政赤字は、構造的問題である。元々、民主主義は、三権分立を原則とするように、制度的・構造的に、相互牽制されるようになっているのである。集権的な組織では、自律機能が働かないで自壊してしまうのである。

 結果と言えば、視聴率もそうである。視聴率ばかりにこだわって内容を忘れるのは、結果ばかりを追いかけている事である。結果ばかりを追い求めたために、真実を伝え、国民を啓蒙するというメディア本来の目的を失うのである。そして、メディアは、自らの使命・大義を失うのである。行き着くのは、視聴率さえよければ、どんな下劣な番組でもかまわないという事になる。そして、視聴率が高ければ、とりあえず倫理の問題は棚上げされる。以前、えげつない暴力シーンが問題になった映画があった。しかし、それがヒットするとヒットしたという結果によって映画の内容が正当化されてしまった。この例など典型的な例である。しかし、視聴率や映画がヒットしたことと、倫理上問題があるというのは、別の次元の問題である。論点のすり替えに過ぎない。その論点のすり替えに誰も気が付かない。それは、結果しか問題にしないからである。民主主義には、過程が大事である。つまり、どのような手順、段取り、手続きによって決定されたかである。結果ばかり見ていては、民主主義の本質は理解できない。

 人の一生も然りである。現代人の尺度からするとどんな悪辣な手段を講じたとしても金を儲けた人間が成功者である。人間として幸せであるか否かは、二の次になってしまっている。しかし、人生の究極的目的は、金儲けだと断言できる人間がどれ程いるであろうか。その為に、幸せを犠牲にするのは、本来の生きる目的からすると本末転倒できないのか。

 人生とは過程である。結果は、明らかである。即ち、死である。結果ばかりを追い求めても、それは。等しく死である。無である。人は、死の前に平等なのである。ならば人生は虚しい。しかし、生きると言う事は、過程である。だからこそ、生きるに値する。結果ばかりを追い求めたら、虚しいばかりである。金を儲けることよりも、金をいかに有益に使うかが重要なのである。
 何を残したかという事よりも、いかに生きたかが重要なのである。だから、モラルが問われるのである。

 だからこそ、教育も結果だけを追い求めるべきではない。教育は過程である。だからこそ、教育にどのような働きを期待するかによって教育の目的は定まる。試験に合格することは結果に過ぎない。試験に合格することばかり、つまり、結果のみを追い求めると、教育の目的は、見失われる。

 経済は、不可思議なものである。生産量や消費量は、対して変わらないのに、景気が急に悪くなったり、財政が破綻して、国が成り立たなくなったりする。経済は、結果からのみ追いかけていたら、その働きや目的は理解できない。

 単純に生産力を向上させれば、経済は成り立つと思うのは、早計である。豊作貧乏。生産力、供給過多による不況もある。問題は、均衡である。

 生産量と労働量のアンバランスにある。生産力が高まった結果、余剰の労働力が派生し、それを処理できなくなったという事もある。つまり、生産性は高ければいいと言うのではない。必要性の問題なのである。
 経済は、生産と消費、労働と分配、需要と供給、フローとストックといった機能からなる構造物である。これらの機能のアンバランスによって経済現象は乱れる。
 経済体制を構築する場合、経済の構造性を無視してはならない。経済は、構造的な均衡の上に成り立っているのである。共産主義体制や資本主義体制が上手く機能しないのは、この構造的均衡が保たれないからである。

 結局、現代の共産主義にせよ、近代経済学にせよ、虚構の上に成り立っている。思想や学問を成立させている前提が非現実的なものだからである。

 共産主義的な平等という思想を成立させるためには、均質、均等の分配が可能でなければならない。仮に、平等という概念が、均質・均等な分配の上に成り立っているのだとしたら、均質・均等の分配が成立しないという事が明らかにされたところで、共産主義的体制というのは成り立たなくなるからである。
 しかし、均質で、均等な分配は、物理的にも、技術的にも不可能である。第一、個人の嗜好が皆違うと言う事である。第二に、まったく同じ物を生産すると言う事が技術的に難しいという事である。、また、環境が違えば、要求とされる物、必要とされる物も違ってくる。生産面においても、消費面においても、均質、均等の分配は、不可能であり、無意味である。要は、平等というのは、実質であり、実体的でなければならない。
 共産主義的な体制というのは、皮肉なことだが、大量生産、大量消費社会を前提しなければ成り立たない。つまり、無尽蔵に生産をしない限り、個々人の消費の要求を賄(まかな)いきれないのである。その為には、無制限な大量生産をとらなければならない。さもないと、消費を規定せざるを得なくなるのである。かつて、人民服なる物があった。それは、服を全て同じ企画の物に規定することを意味する。その場合、個人の自由は、犠牲にせざるを得ないのである。
 環境を考えると、均等な分配というのは、極めて限られた範囲、狭いエリア内でしか実現できない。即ち、ロシアのような極寒の地方と南方の島々のような環境とでは、同じ物を分配するのは、意味がなく。逆に差別的な扱いになるという事である。ハワイで毛皮を配るのとアラスカやシベリアで毛皮を配るのとでは最初からその扱いが違うと言う事である。だから、環境を無視して分配を均質にしようとしたら、それは、差別であり、環境を考慮したら、同じ物を配給することはできないという事になる。それを合理的に規定する絶対的基準はないという事である。

 また、経済学では、人間を合理的な超人のごとく設定し、政治学では、聖人君主のごとく設定する。それ自体が非現実的である。

 功利主義的原理の矛盾は、経済人を定義したところから始まる。つまり、最初から矛盾しているのである。およそ、平均的でない人間像を基準にして人間関係を基礎とした経済現象を解説すること自体矛盾である。自然科学では、この世に存在しない元素や物質を前提として理論を組み立てても立証しようがない。だから、最初からその様な仮説は立てない。ところが、功利主義的経済学は、その基礎からして架空の存在を前提として仮説を立てているのである。
 ほとんどの人間は安定した、よく確立した選好を持っており、この選好に従って合理的な選択を行う。(「株のからくり」奥村宏著 平凡社新書)
 経済人とは、自己の経済的効用を最大化するために自由で合理的選択を行う人間をさしていう。しかし、この様な人間は存在しないか、いたとしても、ごく少数で経済活動には、ほとんど影響を与えないと言うのは、自明な事である。人間というのは、不合理な存在であり、意思決定というのは、そもそも、合理的に、かつ、客観的、理性的に実行されるものではなく。直観的に、かつ、主観的に、感情によってなされるものである。

 人間は、構造的な存在であって、必ずしも合理的な行動をするとは限らない。むしろ、人間は、環境的動物で、環境によって左右される場合が多い。

 また、近代の経済学は、全ての財を市場から調達するという前提で成り立っているが、実際には、そうとは限らない。だいたいにおいて、市場経済が発達する以前は、自給自足体制こそが、常態だったのである。
 故に、市場における需要と供給だけで価格形成は意味づけられるものではない。
 市場における価格決定には、コスト構造が深くかかわっている。

 豊かさは、消費の在り方でもある。現代経済学は、生産や効率ばかりを重視するが、幸せを測る基準は、消費の側にある。
 家計に占める衣食住の比率とか、持ち家の広さなんかは、客観的な基準となる。さらにいえば、物価水準や為替の変動が重大な影響を与えている。また、経済の分配を考えると水準、分布、範囲、幅が重要なのである。いずれにしても、どの様な生活が幸せなのかを客観的尺度で測ること自体が不条理なのかも知れない。

 財の価値というのは、必要性に基づいている。つまり、経済というのは、必要性の問題である。必要性は、分配に結びつく。つまり、必要だからこそ価値があるのである。コスト構造は、この必要性から求められる。ところが需給関係だけでは、必要性までは理解できない。つまり、必要性を結果からしか測れないのである。そこに近代経済の限界がある。

 この様な近代経済学の限界を超えて、構造的均衡を追求するのが、構造経済学である。

 現代社会で重要な役割を果たしているのが負債、即ち、借金である。現代貨幣経済は、借金経済である。現代の経済は、借金によって廻っていると言っても過言ではない。それは、紙幣が成立した時の経緯を見ると明白になる。紙幣が成立した時点で、現在の経済が借金によって成り立つことは運命付けられたと言ってもいい。
 紙幣という計上貨幣の成立させた要素が、金と国債と言う事によって象徴される事を意味している。しかも、その借金してまで必要とされる資金の使い道は戦争である。つまり、近代貨幣経済は、紙幣と金、国債、戦争が鍵になって成立したのである。
 突き詰めてみると、紙幣というのは、金を担保とした預かり証、言い換えれば、借用証書のようなものである。
そして、借金には、本来、金利がついて廻るのである。本来というのは、現在の銀行の預金には、金利がないも等しいからである。金を借りたら、増やして返さなければならない。だから、収益をあげる必要があるのである。(「「お金」崩壊」青木秀和著 集英社新書)
 今のようにゼロ金利というのは異常なのである。しかし、これは異常な事態なのである。現在の日本の社会の異常さは、異常を異常として認識できないことである。金という物の本質的な部分に借金という性格がある。それを忘れてはならない。
 金という担保を外すと債務しか残らない。その性格が顕著に現れるのが取り付け騒ぎである。

 英国の中央銀行であるイングランド銀行は、1694年、ファルツ継承戦争の軍事費を調達する目的で、ウィリアム・パターソンの原案に基づき120万ポンドの公債を応募し、(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)その代償として公債と同額の銀行券を発行する権利をえ、それに伴って両替、為替、振替、預金と言った銀行業務一般を行う銀行として同年7月27日のウィリアム3世・メアリー2世の勅令により認可された。また、併せて証券市場の整備も行われたのである。(「東インド会社」浅田實著 講談社現代新書)
 この様に、発券業務を司る中央銀行は、公債、軍事費という要素を鍵にして成立したのである。この事は、後の金融制度に決定的な影響を与えた。

 また、国債の歴史は、議会の誕生によって始まると言われている。しかも、国債という国の借金は、将来の税収を担保にして成り立っていた。しかし、それも君主制度下では、たびたび、踏み倒され、また、税に置き換えられた。国債の信用が確立されるのは、議会によって保障される事による。(「国債の歴史」豊田俊基著 東洋経済新報社)

 ここで重要なのは、税も議会も国債という借金の存在が成立に関わっているという事である。

 更に、株式会社や資本市場が確立される黎明期に起こったミシシッピ会社事件や南海バブルは、国債を新株に置き換えるという手法によって起きた事件である。しかも、ミシシッピ会社は、その後、貨幣鋳造権と徴税請負権を手に入れている。

 南海バブルの発端は、NTT株で国債を肩代わりさせたようなものである。南海会社に国債を引き受けさせ、会社は、それと同額の株式を発行できるとしたのである。つまり、負債、即ち、借金を資本化する事である。ここに資本の本質が隠されている。資本の本質は、返済を予定していない負債とも言えるのである。

 さらに、現在の経済は、信用制度を土台にして成り立っているがこの信用制度が負債の基盤となっている。言い換えると、信用取引というのは一種の借入行為である。信用取引の信用とは、与信の信であり、借金を成立するための前提となる信用なのである。つまり、借金をするために、何を担保として信用を築くかの問題である。

 つまり、近代経済を構成する主要な要素である議会、貨幣、金融制度、国債、税、資本市場、株式会社の根底を結び付けているのは借金であり、その借金の原因を作っているのは戦争だと言う事である。この点を見逃すと現代資本主義の正体は見えてこない。





                    


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