エピローグ


 現在言われている市場原理は、本当なのだろうか。それとも嘘なのか。
 現在言われている市場原理は嘘です。それも二重に嘘である。第一に、市場原理は、競争の原理ではない。闘争の原理である。第二に、公正な競争などあり得ない。なぜならば、公正な競争を成立させる前提が成り立たないからである。市場とスポーツの場は違う。スポーツの場には、公正なルールが適用できる。スポーツのルールが機能するためには、場に働く力や場の状態がある程度均一である必要がある。しかし、市場には、公正なルールが機能するためには、余りにも不均一である。

 経済は、戦争である。国家間の戦いは、いかに効率の良い国家の経済の仕組みを築くかによって定まる。経済主体(企業)間の争いも究極は、仕組み、効率の良い仕組みを作るかによって決まるのである。最近は、国家よりも巨大な経済主体(多国籍企業)が世界を舞台に活躍している。そうなると経済主体の動きは、一国の経済の枠組みで捉えられなくなっている。それが現実なのである。

 間違っても市場原理は、競争だなどと思ってはいけない。市場の原理は闘争なのである。市場は、競技場ではない。戦場なのである。経済は、戦い。姿を変えた戦争なのである。経済をあたかも自然現象と同じように語るのは、一種の詐欺に近い。経済法則は、自然の法則のようなものではない。競争の原理と言うが実際には、欧米諸国の歴史は、早い者勝ちであったし、現在も同じである。何でも早く登録した者勝ちなのである。その典型が、植民地である。古くからそこに人が住んでいようがいまいが、お構いなし。とにかく、権利を主張した者の物になったのである。それを今更競争の原理というのはおこがましい。略奪の原理と言った方が正しい。経済とは、戦いなのである。

 アンフェアだからダメだというならば、誰に対して、何処が、何がアンフェアなのか。結局それには、何も応えていない。ただ、相手を掴(つか)まえてアンフェアだアンフェアだとがなり立てる。大体、フェアな市場というのは、どんな市場なのだ。在りもしない市場を持ち出して、それで、競争こそが市場の原理だと、自分に都合のいいルールを、押し付けてくるのは、アンフェアの極みである。

 経済学には、嘘が多すぎる。しかも、その嘘をまことしやかにいう。公正な市場、競争原理がその最たるものである。

 経済は、自然現象ではない。人為的現象である。
 最も人為的な世界、それが国家であり、経済である。ならば、必ず、国家や経済を設計、デザインする者がいるはずである。誰が、どの様な意志で、どの様な思想、信念に基づいて国家の基礎を設計したのか。それこそが、どの様な思想信条よりも重要なのである。それなのに、国家をデザインした者が表に出てくることは少ない。不思議なことである。

 経済は、合目的的なものであり、現象論的なものではない。経済制度は、人為的なもので、自然発生的なものではない。財政破綻や不況という現象に目を奪われて、本来、経済は、どの様な目的、役割なのかを忘れてはならない。財政破綻や不況に対する対策は、その目的や機能に照らし合わせて考えなければならない。

 経済の単位は、生活の単位である。故に、生活の場が基本的な単位となる。

 消費経済が確立されていないことである。そのことによって、消費の効率が悪く。また、生産とのバランスも欠いている事が経済全体の安定を損なっているのである。

 社会的分業、更に、国際的分業が進めば進ほど、共同体は、社会への依存性を高め、それに比例して自律性を低めてきた。それは、地域社会、国家の独立の根底を危うくしてきたのである。この傾向は、今後高まることはあっても低下することはないだろう。しかし、この様な不可逆的変化が何をもたらすのである。それは、地域社会、ひいては、国家の衰退を招くことになるのではないだろうか。

 労働と分配が経済における最終課題だとしたが、皮肉なことに、生産の強化、資本集約化や設備集約化は、労働者を排除してしまうのだ。

 必要な時に、必要な物を、必要なところに、必要なだけ供給するのが経済の本来の在り方である。それは、需要と供給の問題に集約することはできない。

 国家の経済体制は、私的所有権を認めるか、否かで別れる。私的所有権を認めずに、国家や社会が全てを所有するのが、共産主義であり、社会主義である。私的所有権を認めているのが、資本主義であり、市場経済である。最も、現実の経済体制は、私的所有と公有、国有の混合経済である場合がほとんどである。つまり、程度の問題なのである。

 構造経済体制も資本主義的構造主義経済と社会主義的構造主義経済、そして、それにそれらの混合型構造主義経済が考えられる。
 社会主義的構造経済とは、文字通り運命共同体からなる経済体制である。元々、社会主義には、巨大な機構は適さないのである。

 いずれの体制でも個々の経済主体は、適正な規模に規制される必要がある。プロスポーツのチームの定員が予め決められているようにである。

 貨幣は、その機能の範囲内で作用するように構造的に規制される必要がある。それは、金融制度や金融政策の重要な役割である。 

 金がなければ、飢えていても食料を手に入れることはできない。後は死ぬしかない。それが経済だと言われれば、明らかに経済がおかしい。
 しかし、飢餓の問題は、購買力の問題に置き換えられる問題なのであろうか。

 貧しい国の一年分の所得に相当する価値の物をたった一日の食事に費やしてしまうと言う、馬鹿げたことが現代社会では日常的に起こっている。

 いずれかの基軸通貨に換算することによって現れる現象なのであろうが、それが何らかの実効力を持つと重大な弊害か生じることになる。

 計画経済は、末梢部分の自律性を喪失させる。また、集権的な計画は、絶対的な基準、規律に依る。経済は、相対的な空間である。絶対的な基準を相対的な空間に持つ込めば、環境への適合ができなくなる。

 経済とは、巨大な循環運動である。循環運動の過程で資源は、社会の隅々まで分配するのが経済システムの役割である。

 構造改革が先行しなければならない。しかし、構造改革というのは、現在言われているような構造改革ではない。現在言われている構造改革は、経済の効率化、生産性を目的としている。

 構造という言葉が大流行だが、構造という言葉の定義もされていない。ただ、意味もなく構造、構造と唱えていればいいと思っている。

 現代の経済の問題は、国民が、誰も望まない物を大量に生産し市場に押し付けようとしていることなのである。産業構造の転換と言ってIT産業やバイオテクノロジーがもてはやされた。しかし、その様な急激な変革を誰が望んでいるというのであろう。欲しくもない物を無理に買わせて景気を良くしようと言っても無理がある。しかも、公共事業においても同じ事が成されている。誰も望まない、ダムや空港、鉄道や橋。最近、話題になったのは、諫早湾の干拓である。諫早湾の干拓に関わって土木事業者ぐらいしか望んでいないのに、工事は強行された。公共事業だけでなく、教育や経済政策、行政サービスとあらゆる分野にわたって行われている。ゆとり教育、ジェンダー教育の多くが、親達が望んでいる教育とはかけ離れている。親や地域住民の要望や問題意識が、どこか見当はずれな所ですり替えられている。肝心の国民は、あきれ果て、無関心にすらなっている。そうした、見当はずれ、的はずれな教育が、労働力の質の低下を招き、日本経済の力を削いでいる。
 皮肉なことに、国民と為政者の意識のズレは、日本が豊かになり、ゆとりが生じ始めた頃から始まっている。問題は、その多くが為政者の思いこみによって為されているという事である。
 国民が本当に欲している物を売らないと経済は活性化できない。市場が飽和状態になった今日、市場調査もしないで公共投資をしても公共投資の効果は得られない時代になってのである。確かに、家の中は、物で溢れ、物質的には豊かになった。しかし、本当に欲しい物がない。本当に欲しい物がない。そう言う人達が、ちまたに増えてきたのである。

 真の経済改革は、国民一人一人の生活設計、人生設計から見直すべきなのである。経済は、生活である。人々の暮らし向きである。景気が良くなっても人々の暮らし向きは良くならない。反対に、景気が悪くても、人々の暮らし向きは良くなる。そう言うことが起こるのである。


参考文献

「飢餓と飽食」荏開津典生著 講談社メチエ
「なぜ世界の半分は飢えるのか」
  スーザン・ジョージ著 小南祐一郎・谷口真理子訳 朝日新聞社 朝日選書
「食料」スーザン・ジョージ著 田中茂彦訳 現代書館 
「景気とは何だろうか」山家悠紀夫著 岩波新書
「乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない」橋本 治著 集英社新書





                    


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano